野宿とアレの作法
日本時間で十九時五分、現地時間で十七時くらい、行く手に街が現れた。先行の馬車は道中の家々には寄らず、ジョギングペースでとことこ進んだ。さいわい運転席から威嚇の弓矢や弾丸は飛んでこなかった。ぼくはこの案内役をしずかな一礼で見送って、街角の交差点で止まった。
街はちょうど夕方のラッシュの頃合いだった。帰宅を急ぐ人、買い物かごを揺らす主婦、犬の散歩のおっさん、売れ残りの野菜を売り切ろうとする八百屋、野良猫、カラス、ぎゃあぎゃあ騒ぐ少年少女、飲み屋の軒先で将棋みたいなものをするじいさんコンビ、露店の揚げ物の音、馬車、馬、やくざ風のいかつい男、ゴミの山、ホームレス、水商売風のおねえさん・・・
「うわー、むちむちだわー。ボリュームが日本人とは違うわー。結婚してくれー、うわー」
ぼくは旅の恥をかき捨てて、セクシーなおねえさんを追いかけたが、きついメンチと怒声で迎撃された。彼女の態度はもっともだ。今は女の尻を追いかけるときではない。人生の先輩からアウトドアを学ぶときである。
にぎやかな広場の一角のごみの山の脇にぼろ布にくるまった焦げ茶色の人間がいた。このような生粋の野良人の特徴は万国で共通する。日焼けと汚れで黒ずんだ肌、無造作に伸び散らかした髪と髭、無気力な目、混然一体となったオーラ的臭気だ。
ぼくは人生の先輩の周囲を右往左往して、ひび割れたお鉢の中をちらちら覗き込んだ。小銭数枚。これが今日の稼ぎでしょうか? 酒代にすらなりませんか?
オーラが鼻につーんと来た。ぼくは恐れおののいて、うんともすんとも言えず、何気にごみの山に手を伸ばし、ぼろぼろの布切れに触れた。
途端、寝仏のように不動だった先輩が跳ね起きて、悪鬼のごとき様相でこちらに詰め寄った。
「ギャー! クルー!」
ぼくはゼロ丸のハンドルをキャッチして、全力全身のけんけん乗りで逃げた。あれはごみでなかった。あの人の資産だった。
道は土手で行き止まった。堤の向こうは大きな川で、下流に船着き場があった。対岸に不揃いな屋根のシルエットと街明かりがきらきら見え、いくつかの輝きはかなり高い位置にあった。平屋の住居の窓はあんな場所にない。高所の光は都会のあかしだ。
飲み屋のにぎわいがこの旅人の足をいざなった。ぼくは店の前でさんざん悩んだが、合法的な食い逃げの方法を思い付かず、楽し気なサウンドとおいし気なフレーバーだけで我慢した。
結局、晩飯はチョコ二粒だけだった。これもあと十個ほどしかない。風呂に入れないのと歯を磨けないのは切実だ。これをおろそかにすると、アウトドアの先輩に近づいてしまう。
「明日は川だな。朝から水浴びだ」
ぼくはゼロ丸を街路樹に立てかけて、草葉の陰の土の地肌にごろ寝した。近所の飲み屋の陽気な歌声が耳に入った。音頭も歌詞もちんぷんかんぷんだが、メロディーは悪くない。
夜の地べたは意外に冷える。そして、蚊だ。こいつらこそは野宿の大敵だ。植え込みから一隊が断続的に出てきやがる。ぶんぶんぶん。だれか蚊取り線香をください。ぶんぶんぶん。いや、マラリアはありうるぞ?! ぶんぶんぶん!
「眠れん・・・」
ぼくは寝床のポジショニングを後悔しながらスマホを見た。表示は二十一時三十分、つまり、現地時間は宵の口だ。もともと寝つきは良くない。場所を変えるか? いや、ほかの適当な場所にはすでに先客がいらっしゃる。あそこのベンチの人は卑怯だ。ところで、トイレはどこでしょう? ウォシュレットはない?
無論、トイレもウォシュレットもトイレットぺーパーも存在しなかった。この通りの公衆便所的空間は裏手の空き地だった。菜園と花壇と肥溜めが都会っ子の足取りをたじろがせた。
ぼくは後学のために試しかけたが、適切な清め方を思いつかなかった。紙や布や水はない。え、そこの葉っぱを使う? もしや、そのための菜園だ?! たしかにこの葉っぱの大きさや瑞々しさや手触りはぺーパー的である。先輩に使い方を聞いてみようか?
ぼくはその葉っぱを何枚か収穫した。ミントのような清涼なフレーバーとごぼうみたいなアーシーな匂いがした。これはめっけものだ。虫除けにならんか?
数分後、なぞの葉っぱの破片に埋もれた新手のホームレスが広場の地べたに生まれ落ちた。何となく蚊の勢いが少し静まったように思えた。
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