第17話 喪失

 小百合は薬品ごとの単価を月単位に遡って調べて行き、原杉勉の不正行為がおよそ四年前、勉が三十歳になった頃から始まったと突き止めた。

数年の間に何種類もの薬品の単価が二倍近くにまで跳ね上がっていた。

その頃に何があったのか小百合は小川と当時の勉について調べることにした。


 会社の同僚や友人関係などへ聞取りを行った結果、ある時を境に勉の性格が変わったと数人の証言を得た。

 他方、単価が跳ね上がったのはモルヒネやマリファナなどで、小百合の計算方法では直近一年間で一千万円に迫る金額になっていた。

小川と相談してここまでの結果を一ノ瀬刑事に報告し、続きを原杉勉の横領事件として警察が捜査するようにお願いした。

「ただなぁ、勉と先輩がトラブルになったという証言も無いし、そもそも会ってたところを目撃したひともいないんだよなぁ」小川は失望感を露わに言う。

「調べてみたからわかった話でしょう。結果論で言ってもしょうがないんじゃない」

小百合は答えてみたが、自身も同じ気持になっていた。


 一段落したところへあの弁護士がまた窓口に来た。

「こんにちは、白湯さん、時間どうでしょう?」

津田弁護士はいつも挨拶だけは低姿勢で、それがよけい気持悪い。

いつまでも逃げてばかりはいられないと思い、「ちょっと聞いてきますから待っててください」

小百合はそう言って席を立って小川に電話で時間を作れるか訊いて、席に戻り、弁護士を応接室へ案内した。

そして、小川が来るのを待って対峙した。

「示談の件ならお断りしますよ。もう、警察へ被害届を出してるんですから」

始めに小百合は断りを入れた。

「まぁ、そう端からはっきり言わないで下さいよ」弁護士はにやついて言う。いちいち癇に障る話し方をする人だと思う。絶対に好きにはなれないタイプのおじさんだ。

「それ以外に言う事はないし、しょっちゅう来られても迷惑なんで……」

小百合は決着をつけたくてきっぱりと言った。

「弁護士さんは、院長からどう言われてきてんの?」小川が口を開いた。

「どうって、示談にしてこい、ということですよ」

弁護士は明らかに部外者が首を突っ込むなって顔をしている。

「なら、俺らが直接院長にはっきりと示談にはしない、法廷で会いましょうと言ってくるわ」

小川が珍しくきつい物言いをした。

「……そちらの意向はわかりましたので、こちらの提案も一応聞いてもらえますか?」

小百合は即座に「いやだ」と言おうと思ったのだが、聞かなければいつまでも繰り返し来るだろうと思い直し、「聞いてもしようがないけど、聞くだけなら……」

……

結局、目新しい話は無く、五百万円という示談金と、病院内外に口外しないなどという内容だった。

「お聞きしました。でも、私の気持ちは変わりませんよ。では、仕事がありますので」

小百合はそう言ってさっと立ち上がった。

小川も腰を上げて一緒に部屋を出た。

小百合がドアを閉める間際、目の片隅に不満やるかたない表情の弁護士の歪んだ顔が写ったが、小川に礼を言って、「津田もう来るなよー」と祈りつつ事務室へ戻った。

 すると机上に<異動通知書>が置かれていた。

「え、私?」

小百合は自分が色々睨まれることをやっているので、とうとう首にでもなるのかとどきりとし目を通した。

「なんだ、高木信良と五十嵐伸江が首になったって連絡か。それと、事務長が減給処分か……ま、しょうないわよね」

小百合は事情を知っているがほかの職員は知らないので、事務室全体がざわついている。

「ねぇ、その辞令、小百合は何か知ってるんでしょう?」

色々なひとに聞かれたが「ううん、知らないわ」としらばくれることにした。

――刑務所に入れられるのも、時間の問題だわね……ふふっ、ざまぁみろ ……



 警察で再びうんざりするだけ絞られ腹を立てていた原杉博は、家に着くと日本酒をあおった。

「あら、お帰り、良く帰してくれたわね」妻の麗子がリビングに入ってくるなり開口一番に言った。

その言葉に博はムカッとする。

「何よ、帰って来ない方が良かったのかよ」

「何そんなに荒れてんの?」妻はワイングラスを片手にテレビをつけて言う。

「暴行事件だとかって言って、あの一ノ瀬とかいう刑事が俺を警察署へ連行したんだぞ……」

妻に寿司の出前を取るよう言って空のグラスに酒を満たす。

そして一気にグラスを空けて、ふーっと大きく息を吐いて気持を落ち着ける。

「証拠として出された盗撮映像は証拠にはならないし、事前にそういうものを用意したってことは、そうなるように仕向けたってことも考えられるから、即、逮捕とはならないらしい。それでしこたま文句言われて帰されたって訳よ」博は一応説明しといた。

「それが一回目、今日はよ、あの後警察が捜査したら、ほかの女にも同様の事をしたって証言する奴が何人かいたので事情を訊きたいって呼び出されたんだ」

「あら、ほかでもレイプしてたんだ。へー、すけべ!」妻が軽蔑の眼差しで言った。

「だから、違うって、警察だってそれ以上の証拠ないからこうやって解放したんじゃないか、俺は病院長だぞ、誰がそんなことするか。女が色目使うから乗ってやっただけだ。金目的の女に俺の方が騙されたんだよ」

「ふん、だとしても、そんな女に騙されるなんて、すけべ親父丸出しなんだから、あー恥ずかしい」リビングに顔を出した娘の菜七が目くじらを立てる。

 ……

 寿司が届いて博の腹が鳴る。三人前の寿司をどれそれ構わず口な中へ放り込む。

むしゃむしゃと音を立てながら食べて飲んでいた。

「そもそも、パパが悪からそんなことされたんじゃないの」菜七はビールを飲み始め、寿司に手を伸ばす。

「そんな証拠もないくせによ」

「あら、じゃなんで弁護士なんかに示談の話をさせてんのよ」と、菜七。

「示談ってことは、あなた認めてるって事じゃない、ふふ、いやらしい……」

妻は博に関心ないから、女遊びしようがまったく怒ったりしない、自分は自分で友人と温泉旅行を楽しんだり、海外へも行っている。その友人が女なのか男なのか訊く気もない。

そもそも政略結婚だから愛情があった訳じゃなく、結婚当初から何人か愛人はいた。

ただ、生まれた娘は可愛いと思ったし、愛情たっぷりに育ててきたつもりだ。

「ばか、院内での問題は患者に影響与えるから、少ない金で大人しくさせようとしてるだけだ。それに高い顧問弁護士料払ってるから、たまに仕事させんとよ……」


 普段、三人はお互いに干渉せず自由にしている。

それが博にとって気持よく過ごせる家庭のあり方だと思っている。

会話が途切れ三者三様にいつも通りの寛ぎのひと時を過ごし始めた。

テレビでは妻の好きな韓流ドラマが流れているが、博はまったく興味がないので耳元で流しているクラシック音楽に聴き入っていた。

テレビ画面では運転する彼氏と隣の彼女がいちゃついていた。

「あーっ!」

突然、妻が叫んだ。

「え、どうしたの、ママ?」菜七が妻を見て、妻が指差す方向に目をやるとテレビ?

「なんだ? どってことないドラマじゃないか……」博は訳がわからずに言った。

「ばか親父! 思い出したんでしょ事故」菜七は妻の肩を抱いてテレビを消す。

菜七が言うには、どうやら、歩いていた老人を撥ねる場面が写し出されたようだった。

博は菜七がうるさく言うので改めて妻の顔色をみ見て驚いた。真っ青!

「おい、大丈夫か?」思わず声を掛ける。

妻の指先が震えている。

「私、もうダメだわ。耐えられない、自首するわ」頭を抱え引きつるようにしながら言う妻。

「ママごめん。私のせいでこんなことになっちゃって……」

菜七も妻を抱きしめながら声を詰まらせる。

「ばか、何言ってんのよ。そんなことしたら病院の名に傷がつくだろうが」

院長夫人のくせにそんなことも考えられんのかと腹が立つ。

「パパなに言ってんの、病院とママとどっちが大事なのよ!」菜七は目を潤ませたまま、眉を吊り上げ怒鳴る。

「病院あっての家族だろうが、親父から受け継いだ病院を俺の代で潰すわけには行かないんだよ。お前たち、今の暮らしができるのは誰のおかげだと思ってんだ!」

「なんでもかんでも、病院、病院って、そんなに病院が大事なら、病院と結婚すればよかったのよ。私もあれから手術も怖くなっちゃって、もう辞めたいくらいなんだから……」

「あれは、術後に看護師が薬を間違えたんだ。お前のせいじゃない! 今更、何言ってんだ」

「パパだって、十五年前、大腸手術で大動脈を間違って切ったくせに! 私、知ってるんだから偉そうに言わないでよ」

「うるさい!」

博は気分を害されボトルを握り締めて書斎へ向かった。


 菜七にああは言ったが、博の心にはずっとあの時の状況が消えず、時間が経つほど、却って鮮明になって瞼の裏に焼き付いている。

あれは一瞬の気の緩みだった。

……大腸を切るとき、慣れで隠れた部分を確認せずにメスを入れてしまった。

なんでそんな基本的な事を怠ったのか……、その結果、突然、血が噴き出して、慌てた。

それが悪かった。落ち着いてさえいれば、大動脈を切ったからといって患者を死なせることはなかったのに、止血を急ぎ過ぎて血管の縫合がうまく行かず出血を止められなかった。

止む無く再度縫合し直したのだが、時間をかけ過ぎた。数時間後、患者は死んだ……。

最悪を考え輸血用の血液を用意していたなら、まだ救う道はあった。……


 あれで人生がすっかり変わってしまった。

やけになって<すすきの>で飲み歩いているうちに、暴力団員とは知らずに近付いてきた男と親しくなり、ギャンブルや女に手を出してその男に借金をしてしまい、医薬品の横流しをさせられてしまった。

それに、勉に麻薬の横流しまで……、勉もすさんでしまった。自分の責任だ……。

……

 目を開けると書斎の椅子に身体を預けたままだ。

そのままの格好で寝てしまったようだった。

時計は十時を指していた。

 リビングへ行くと妻と菜七はまだ話をしていた。

「何だ、まだ起きてたか」

「あなた、菜七と話したんだけど……」

妻は酔っていて、また事故のことを語り始めた。

「 

 私が寝ていると朝の四時半頃に菜七から投薬ミスをして患者が死んだと電話が入ったのよ。

……『菜七、なに言ってるの。投薬ミスって看護師がでしょう?』

『違うの、ママ、私が<薬事指示書>に間違って書いてしまったのよ』菜七は泣きながら興奮して早口でまくしたてた。

それで私は一気に目が覚めてあんたと相談して、私が菜七を迎えに、あんたは病院で<指示書>や<カルテ>を改ざんすることにしたのよ。

そして、五時近くに病院へ迎えに行った帰り道だったわ。

動揺して車を運転できそうもない菜七を助手席に乗せた私は、

『……菜七、あなたのせいじゃないわよ。看護師が、当然わかってるはずなのに血圧を上げなきゃいけない患者に血圧降下剤を投与するからでしょ』

この時は何とか菜七を落ち着かせようと色々言ったわねぇ。細かい事まで覚えちゃいないけど……。

『……だって、ママ<薬事指示書>に降下剤って書いちゃったの私だもん』

菜七は病院からずっとそう言って肩を揺らして泣き続けていた。……可哀想だった。

車の通りは少なかったけど、誰かに見られると後でまずいと思いいつもとは違う道を走った。

あとで考えたらいつも通りに走って、何か聞かれても言い様はいくらでもあったのに余計な事を考えてしまったのね、私も冷静じゃなかった。

 その道は歩道と車道の区別がはっきりしていない道だったし、まだ薄暗かったのでライトを点けて安全運転をしていた。

 それなのに、泣き続ける菜七の様子を見ようと視線を菜七へ移した瞬間、『きゃーっ』って菜七が叫んで前方指差したのよ。

はっとして前方に目を戻したら、もう目の前に老人が目を見開いて、口をあんぐりと開けてフリーズしていた。

『うわーっ』私は叫んだだけで、ブレーキを踏み込めなかった。

僅かにハンドルを切ったので老人をサイドミラーで掠っただけで済んだけど、弾みで老人はふらついて、転んで頭を打ったみたいだった。

『なんで? 車道なんか歩いてるからよ』私は思わず口にしていた。

バックミラーを見てたら老人は倒れたまま動かなかったわ。

『まさか、死んだんじゃ?』私が呟くと、菜七が『道路で転んで頭打っただけだから、ママ関係ないよ』

『そうよね。あんなんで死んだりしないわよね』私もそう言ってそのまま車を走らせた。

家に戻って菜七を先に降ろして、ぶつかった傷を隠すように車庫の柱にミラーを擦り付けたのよ。

『これで修理工場へ持って行ってミラー交換とちょこっと擦り傷の付いたドアを塗装でもしたら、もう事故のことはわからなくなるわ』私は勝手にそう自分を納得させた。

そう、何度も自分に言い聞かせたのよ。 ――爺さんは勝手に転んだのよ、私には、関係ない……

でも、あの老人の顔が、恐怖に歪んだ顔が、瞼に焼き付いて消えることは無かった。

だから、修理屋に車を出したあと、自分で車を運転しなくなった、というかできなくなった。

その日の夕方のニュースで事故のあった場所で老人がひき逃げに遭って死亡したと知った。

驚きと罪悪感とで気が狂いそうだった。


 妻は事件を回顧して、「だからって、……」と、妻は苦しそうに胸を押さえながら言った。

「だからって、自首しようとかは思わなかった……私はわかりゃしないと軽く考えようとした。けど、時間が経つにつれ人を死なせた罪の重さをひしひしと感じるようになってきて、苦しくて、でも、言えば菜七のことも話さなければいけなくなるし……」

「それを死ぬまで耐えるのが菜七のためでもあるし、病院のためだろう」

博は自分の抱える苦しみの方がはるかに重たいし、病院にとって重大な問題で、妻の事故なんて話さえ聞いてやれば良いだろうくらいにしか思えなかった。

だから、その事を繰り返し妻に言うと、「あんたなんかに私のこの苦しみがわかるはず無いのよ。もう、何もかも警察で話す。そして遺族にきちんとお詫びがしたい」

妻はいつになくしつこく泣き続けた。

菜七も話を聞いていて一緒に涙を流している。

「お前たち、いくら苦しくても我慢しろ! それがこの病院を守ることになるんだ。それに麗子、お前が自首なんかしたら、お前の親父の経営する<葉谷総合病院>の名前にも傷を付けることになるんだぞ!」

博はいつまでもめそめそしている妻娘を怒鳴りつけて寝室へ向かった。

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