第10話 残されたもの

 小百合は母の死が菜七先生の投薬ミスの可能性が高いと知ってから、院長に郵便物を届ける時や書類に院長印をもらう時には不在時を狙って行くように心がけていた。

そして無施錠の引き出しや書棚、キャビネットにロッカーなどを何回も確認したが、母のカルテなどは見当たらなかった。

 菜七先生の部屋には施錠できる引き出しやキャビは無く二度も三度も確認済みだった。

「自宅へでも持って行っちゃったのかなぁ」次第にそういう風に思い始めていたが、まだ院長がいつも施錠しているキャビネットと引き出しが残っているからと思い直して、その施錠確認だけを欠かさずに行っていた。


 そんなある日だった。

「白湯さん、この稟議書に院長印もらって来てくれ。話はしてあるから」

課長に命じられ小百合が院長室へ行くと、院長は院長椅子に深々と座り、机に背を向けてスマホを耳になにやら話をしている最中だった。

「院長印をお願いします」一応声を掛けたが振向く様子もなく、書類を机に置いて話し終えるのを待っていた。

「……何、そんなお前、ダメだぞそれは、……ああ、言ってもダメ? ……わかった。すぐ行く……」

所々言葉は聞こえてくるが、どんな話なのかはさっぱりだし、聞きたくもないので早く終われと祈っていた。

その願いが通じたのかそんなに待たされず院長が通話を切って振返る。

「なんだ。ハンコか?」と、小百合の顔をちらっと見て言った。

小百合が返事をすると、院長は引き出しを開錠し取り出した院長印で書類の中身も見ずに押印、

「ちょっと出てくるからな」

そう言って書類を小百合に手渡しさっと立ち上がった。

チャンスだった。 ――施錠を忘れてる……


 ドアが閉じるのを待ってその引き出しを開ける。

そこには印鑑などが入っているだけだった。

その下の引き出しを開ける。大小の封筒がいくつも重なっていて、中を覗きながら見てゆく。

焦る気持ちを必死に抑える。 ――焦るな! 急げ! ……

製薬会社からの薬害報告書などが大半で公開できないようなものばかりだ、……そして、とうとう最後の封筒になってしまう。 ――だめか……。

諦めの気持半分で封を開ける、中身はカルテのようだ。

一気に期待が高まる。願いを込めて引っ張りだし、患者名を見る。「あ、あった。母さんのだ」思わず口走った。

机に並べて写真を撮る。

心臓がどきんどきんと高鳴り指先が震えた。「これで、菜七先生の医療ミスを追求できる」


 すべてを元に戻し、急いで部屋を出ようとして、出合い頭に事務長とぶつかりそうになる。

「院長は?」と訊かれた。

「今、外へ出ると仰って出掛けました」

小百合が答えると「お前は、そこで何してたのよ?」

「はい、院長印をもらう書類が有ったので、……」と、小百合は押印された印影を見せる。

「ふーん、ハン押してすぐ出掛けたってことか?」

「はい、そうです」

事務長は怪訝な表情を浮かべたが、そのまま院長室に入って行った。

小百合は何言われるのかとドキッとしたが、急いで一階の事務室に戻りSNSで「あった。帰りに話す」とだけ小川に知らせた。



 小川三次は白湯と一緒に夕飯を食べながら写真を見せてもらい改ざんの前か後のものか確認した。

写真に写っていた<薬事指示書>には、お母さんの亡くなった日の前日の夕方の時刻で<血圧降下剤>を指示する内容が書かれている。さらに新旧の<カルテ>もあって、すべてがはっきりした。

白湯の肩が震えている。俯いてテーブルに涙がぽたりぽたりと落ちた。

「おい、白湯、大丈夫か?」

「やっぱり、母は、菜七先生に、殺されたんだね……」

恨みのこもった低く唸るような声で白湯が言った。

その声に三次はドキリとさせられる。そして白湯の身体からまたあの青白いオーラが立ち上がり、あの血走った野獣のような目が三次を睨む。

瞬きする間も無くオーラは消え、「どうしたら良いんだろう?」白湯が呟く。

しばらく沈黙が続いた。白湯の少し荒くなった息遣いが聞こえる。

……

「そう言えば、前に中島香さんへのお金の動きを調べた時に、母の亡くなった日に院長の個人の車の修理をしていたのよ。その時には何も思わなかったんだけど、何か関係あるのかなって思うんだけど、……」白湯が無関係とも思えることを口にした。

「へー、そんな事あったんだ。んー、良くわかんないけど、調べてみよっか?」

三次は、なんでこんな時にと不思議に思ったのだが、白湯の気持を察して同意した。

「……なぁ、お前、院長と菜七先生を憎んでるだろう?」

三次は恐る恐る訊いてみた。

白湯はちょっと眉をひそめ、「それはもちろん憎いと思ってるわよ。両親を殺した親娘なんだから、……当然だと思うけど、違う?」

「いや、白湯は気付いてないかもしれないけど、……」

三次はそこまで言って、本当に言っても良いものか迷った。

「けど、……何?」

はっきり言わない三次に苛立っているのか白湯が冷たそうな目を向ける。

「……それを見た時、青白いオーラがお前の身体を包んでさ、……」

三次が<薬事指示書>を示して言った。

白湯はそれにちらっと目をやって、「オーラ? 私を包んだ? 小川さん正気?」

「ああ、その中に、血走った野獣のような眼が見えたんだ。だから、その、お前の憎しみがそんな……」

「もう、いい加減にしてよね。……こんな可愛い野獣いる?」

白湯はまともに受けとってはくれなかった。大方、三次が下手な慰めでも言おうとしたんだろ、くらいにしか感じなかったのかもしれない。

――ま、良いか。冗談で返すだけ気持に余裕があるんだろうからな。でも、あの眼、どっかで見た気もするな……

「そんな冗談はいいから、車の修理を何処でしたとか、何故したとか、調べてね」



 昼食の後片付けをしているとインターホンが久しぶりの来客を知らせる。

「はい、どちら様?」早瀬陽子がモニターを見るとにやついた表情の塚本だ。

「塚本です」平然として答える塚本に何か恐怖を感じる。

「ここへは来ないように言ったはずです」速まる鼓動を押さえようと深呼吸する。

「旦那に貸した金を返してもらいに来たんだ」

陽子には何のことだからわからなかった。……しばしどうしようか考えた。

「ちょっと待っててください。私外へ出ますから」

そう言って通話を切った。

外出の支度をして、チェーンを外さずにドアを少し開ける。

刹那、ドアを力強くグイっと引かれた。

「きゃっ」思わず陽子の口から漏れる。

塚本が無理矢理入って来ようしている。 ――チェーンを外さなくて良かった……。

ガチャガチャとドアを乱暴に開けようとするが、……開かないことがわかると大人しくなった。

「ドアから離れて! 一階の玄関前で待ってて下さい」陽子が強く言うと塚本は舌打ちをしてエレベーターの方へと歩いて行った。

少し間を空けてドアスコープからその姿が見えなくなって、細く開けたドアの隙間からも塚本の姿が消えたのを確認して素早く外へ出て鍵を掛ける。

エレベーターを使うのは塚本が潜んでいるかもしれないと思って階段を下りる。

「なんでしょう?」陽子は塚本の姿を見つけて言った。

塚本は無言で一枚の紙切れを差し出す。

早瀬明が塚本健一から百万円を借りたという借用書だった。押印もある。

「まさか、なんでこんな大金を?」陽子は驚きで何も考えられなくなって、呆然としていると、「ふふふ、あんたには言えなかったんだろうな。バーの女に貢いでたなんてよ」

塚本がいやらしい笑みを浮かべて答えた。

「そんな、嘘です。こんな、……」陽子には信じられない。 ――あのひとが、不倫相手にこんな大金を……

塚本が顔を近づけてきて、「あんたも色々あるだろうから今月一杯は待ってやる。それ以上はダメだ。出るとこへ出てもこっちには証拠があるんだ、素直に払うんだな」

整髪料かコロンなのかわからないが塚本特有の嫌な臭いが鼻をつく。陽子は思わず一歩引いた。 ――冷静にならなきゃ…… 陽子は呼吸を整える。

そして思った。 ――自分を受け入れなかった復讐だろうか? そうよ、きっとこれは偽物なんだわ……

「すぐにはそんな大金用意できないので時間を下さい。それと、これをコピーさせて……」陽子は言った。

「ああ、良いだろう。そこのコンビニでコピー取れ」


 陽子はコピーを抱えて家に戻り白湯小百合に家に来て欲しいと伝えた。



 小川三次は白湯から塚本の話を聞いて、定時を待って一緒に早瀬宅へ向かった。

借用書を見る限り、百万円の借金は実在しそうだった。

「筆跡は先輩のものですか?」三次が訊く。

「えぇ、似てると思うわ」

「この印鑑は? 今、あります?」

白湯が言うと陽子さんが奥の部屋へ行って、これだという印鑑を持って来た。

白紙に押してみる。

「確かに似てるな」三次はそう言って重ねてみる。

「良く見えないな」

「窓ガラスに当てて透かして見たら?」

白湯の言うままにしてみると、「ああ、大体重なるな、……けど、ちょっと違う気もする」

白湯と陽子さんも同じ意見だ。

「これじゃ断定はできないよ。あいつに頼んでみるか……」三次はすぐに一ノ瀬に電話を入れた。

「それ今夜中に署へ持って来てくれ。……そうだなぁ、二、三日は時間くれよ。それと、忘れんな、今回は特別だからな」一ノ瀬はなんとか鑑定を引き受けてくれた。

「塚本は奥さんから離婚届を渡され、今は愛人のところへ居候してるらしいわ」と、白湯。

「仕事は?」と、三次が訊いた。

「探してるらしい。けど、五十代も半ばを過ぎたら守衛くらいしか無いみたいね。『放射線技師なんてなかなか空きが無くて』って言ってたようよ」

「なるほど、懲戒処分で解雇こそされなかったけど休職扱いの自宅謹慎処分らしいから金に困ってこんなこと考えたんだな」

「えぇ、私もそう思うのよ」白湯が肯いた。

黙って聞いていた陽子さんはほとほと困り果てたって顔をしている。

「小川さん、そういう女が村雨以外に実在するのか確認しましょうよ。亡くなったときには別れてたかもしれないから、遡って調べた方が良いわね」と、白湯。

「確かに、村雨は装飾品をあれこれ身に着けるタイプじゃないし、贅沢な暮らしはしてないようだと一ノ瀬も言ってたから先輩も小遣いの範囲で付き合ってたと思うんだ」

「私が職員に聞取りしたときも金のかかる女という風なイメージは湧かなかったわ。だから、他にいるとしたらという前提で調べたら良いと思うのよ」

「おう、だけど、どうやって調べるんだ。村雨のほかにもいるか? となると街中訊き回るのか?」

三次が具体的に考えるその調査はえらく大変そうに思えた。

「そんな面倒くさそうに言わないでよ。高校時代から友人を探して訊いて行ったら、どっかでそういう話が出てくるんじゃない?」

さすが白湯だ三次の疑問を一発で解決してくれた。

「ふむ、男の友達には女ができたら喋るか、いるとなったら村雨の写真を見せてこの女か? と訊けば良いんだな……なるほどな、わかったやってみる」

「えぇ、頼むわよ。私は、職員に訊いてみるわ」

「二人ともありがとう。あななたちが助けてくれなかったら、私は、今頃……」

陽子さんは溢れ出る涙を誤魔化すように台所に立って、「夕飯食べていってね。大したもの無いけど用意したのよ」

「え、そんな悪いから良いですよ」白湯はそう言いながら食卓テーブルの上に並べられつつあるおかずを涎を流さんばかりに覗き見している。

「おいおい、白湯、涎が垂れてる」三次が冗談で言うと、白湯が慌てて口を拭う。

「ふふふ、仲良いのね。さ、こっちへ来て、食べましょう」

みそ汁をよそって陽子さんが座る。



「早瀬は兄貴分気質で、同期の中で世話役だったな……」多くのクラスメイトはそんな風に先輩の事を言って、恋人はいても浮気なんてしたこと無かったと断言する。三次の調べた結果だ。

新卒で<原杉総合病院>に就職して亡くなるまで働いていた。

陽子さんとは同期だ。入社後の親睦会で親しくなって五年付き合って結婚している。

「その間も、結婚してからも先輩は陽子さん一筋だったみたい。ただ、原杉菜七先生がまだインターンだった頃から先輩を好きになったようで、食事とかに誘ってたようよ」と、白湯が言った。。

「えぇ、それは主人から聞いてます。院長の娘だし医師なんで無下にはできないので三回に一回は付き合ってたわ。でも、その時は、必ず私に『悪いが食事に行く』と言ってた」陽子さんが言う。

「さすが、先輩。ところが、菜七先生は結婚する積りがあったようで、医師仲間にも随分と宣伝していたようだ。それで、先輩は、陽子さんにプロポーズする前にはっきりと菜七先生に自分の意志を伝えたらしい」

「えぇ、その事も私に言ってたわ。その時の菜七先生の様子も聞いた」

「こっから先を聞き出すのにちょっと苦労したんだ……」三次がちょっと自慢げに言うと、「何勿体ぶってんの、さっさと言いなさいよ」白湯に脇腹を突つかれた。

「わ、わかったよ。病院の事務長の集まりってのが年に数回あって、そこで俺が、鬼山と仲良くなったうちの一人を小料理屋で食わせて飲ませて鬼山の話を聞き出したんだ。その中で菜七先生の話が出て、早瀬先輩に振られたショックを恨みに変えて『復讐してやる』みたいなことを女医仲間に話したのをたまたま居合わせた鬼山が聞いていて、恩を売ろうと考えた鬼山が先輩に罠を仕掛けたと自慢してたんだと」

「へー、どんな罠?」白湯が三次の思い通りの質問をした。

「それが医薬品の横流し」三次は鼻高々に言った。

「でも、いきなりそんな事言ったって先輩は断るでしょう」

「普通に頼んだらな。ふふっ」

「こら、じらすな」

「はは、悪い。始めは、単に荷物運びをやらせたらしいよ」

「え、それが罠」白湯は首を傾げて言う。

「ああ、運んだ荷物が横流しする医薬品だったんだ。もちろん先輩はそんなこと知らずに命じられるまま運んだらしい。で、何回もやらせた後に真実を打ち明けて、『お前はもう加担してるんだ、逃げられないし、警察へ行っても俺は仲間だと主張する。それに、大事な家族に何かあったら大変だろう?』そう脅して追い込んだようだ」

「それで、あの人悩んで苦しんで、酒とかギャンブルとかに手を出しちゃったのね」陽子さんが眉をひそめる。

「えぇ、女遊びも始めは鬼山が女に金を握らせて酔った先輩を誘惑させ、絡んでいる写真を撮って、それも脅しに使って、横流しを強要させてたようだ」

「ひどい! 早瀬先輩かわいそう……」白湯の声が怒りで震えている。

「だから、先輩には村雨以外に女を作る余裕なんて無かったし、実際そう言う女はいなかった」

それが三次の調査結果だった。

「そう、あのひと……私には全然そんな事言ってくれなかった……」

陽子さんが肩を震わせて泣き出してしまった。

三次は、一緒に涙を溢れさせている白湯を見ていると、無性に可愛く思えて抱きしめたかったが、堪えてじっと見守っていた。

白湯は次第に感情が高ぶってきたのか泣き方の激しさを増して、陽子さんと同じように肩を震わせ声を上げて泣き出した。

陽子さんがそれに気づいて、白湯を抱きしめ二人は抱き合ったまま大声で泣き続けた。

 ふたりとも心の真ん中にいたはずのお母さんや旦那が突然亡くなって、心細さや悲しさや色んな思いを気丈に押さえていたタガが外れ感情が迸ってしまったんだろう。

――それにしても、白湯がここまで感情を露わにしたのを初めて見たな。見かけによらず人の気持ちを大事に考える優しい奴なのかもしれないな……

三次はふたりが落ち着くのをじっと待っていた。


「事務長は院長の友人でボディーガード的存在だから病院の金を好き勝手にできるんだろうな」

三次は少し静かになった二人に話しかけてみた。

……少しの間があって、白湯が顔を上げ、「そう言えば、そうね。だけど、いくら事務長でも使われていることに変わりないわよね。その関係だけでお金を自由に使えるとは思えないけどなぁ」

「ってことは、何か院長の弱みを掴んでるとか、もう少し院長との関係を少し調べて方が良いってことかな」

三次はこれまでの調査結果を思い浮かべて、

「先輩の事件を機に病院内を調べたら横流しに横領があったと思えば、医療ミスまで。それに加え、暴力団の名前も出てきて、……ところが、それぞれの事件の背後に事務長の名前がでてくる。

院長がまったくの無関係だとするとああまで大ぴらに金を動かせないだろう。

つまり、院長と事務長はグルで背後に暴力団がいるという構図だ。ま、まだ想像の世界なんだが……」

と、自分の考えを言ってみた。

「でも、それって先輩の事件と何か関係あるのかしら?」白湯はそもそもの疑問を投げてきた。

「ああ、きっとその関係者の中に犯人はいるはずさ」

言ってはみたが三次にその自信は無かった。

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