第3話 噂

「お母さん、頭おかしくなっちゃった。助けて」突然小百合のスマホにみなみちゃんが訴えてきた。

小学校低学年の娘の書くような事じゃないと感じて、「わかった。すぐ会いに行くから待ってて」

そう返信して病院を早退して地下鉄<北24条駅>で下車し徒歩五分ほどのみなみちゃんの住むマンションへ向かった。

「あのー、陽子さん、みなみちゃんから連絡がきて、……」

小百合はスマホを出してみなみちゃんの書いた文書を見せた。

「えっ、こんな事」

陽子さんは相当にショックだったのだろう顔を強張らせ涙を滲ませる。

「多少の成長を感じてはいましたけど、ここまで成長とは、私もびっくりしました」

「みなみに見抜かれてたなんて……小百合さん聞いてくれる?」陽子さんが恥ずかしそうに言った。

「えぇ、私みたいのでよければ」

「あのひとが不倫してるみたいなのよ」

言われてドキッとした。地下鉄のホームでのことが頭を過る。

「お相手を知ってるんでしょうか?」

「病院の看護師らしいの、……でも、それ以上は言ってくれなくって」

「言ってくれないって、どなたが?」

「科長の塚本健一です。私らの仲人なの」

「でも、どうして仲人さんがそんな余計な事を、……あ、ごめんなさい、余計だなんて……」

「良いのよ。でも、私、嫌いなの塚本科長。用もないのに家に上がり込んでジロジロ私を品定めするみたいに……、何かいやらしいこと考えてるような気がして、部屋には入れないようにしてるのよ」

「それなら、陽子さんと不倫でもしたいと思って、わざとそんな事言ったんじゃないですか?」

陽子さんは一瞬引きつったような笑みを浮かべただけで唇は動かなかった。

「でも、他からも耳に入って、……四、五年くらい前かしらねぇ、あの人が変わっていったの」

塚本の話を膨らませたくなかったのか陽子さんは夫の話に戻した。

「何かあったんですか?」

「何か悩みでもできたのか、帰って来てから沈んでることが続いて、訊いても何も言ってはくれなかった。だから、……でも女の人とは思えなかった。仕事のことだろうと思ってそれ以上訊かなかったの」

小百合は五年前を思い浮かべたが、院内で特に事件とか事故とかの心当たりは無かったし、院内でそれまでと変わった様子は無かったように思えた。

「そのうち飲み歩くことが増えてきて、何かやけになってるような感じがあって、二、三年前頃かしら一度香水の匂いをさせて帰ってきたことがあって、訊いたら先輩とバーへ行って女性と踊ったと全然隠す風でもなく言ったから信じてた」

「それが不倫の相手だったってことなんでしょうか?」

「えぇ、そうかもだけど、わからないわ。小百合さん病院にあのひとと何かありそうなひとに心当たりないかしら?」突然に訊かれ小百合は戸惑った。

「え、えぇ……」

一瞬、ホームでのことを思ったのだが、言っても良いものだろうか……? 考えていると、「あるのね。正直に言ってくれない?」陽子さんに見詰められ、

――見抜かれた……、と思い「確証はないんですけど……」小百合はホームで見たことを話した。

「そ、病棟の彼女ね。家にも遊びに来たことあるわ」

「男の人って、どうして優しいい奥さんがいて、可愛い娘さんもいるのに不倫なんてするんでしょうね」

そう言ってしまってから、陽子さんを前にしているのに、さも自分が主人公のように腹を立てていることに気付き、「ごめんなさい、奥さんの気持も考えないで……」

「いえ、良いのよ。お話ができて良かったわ」

陽子さんは小百合が言い過ぎたりすることがあっても決して怒らず優しく包み込んでくれるのだった。

「ただいまぁ」

玄関の方からみなみちゃんの元気な声がした。

「おじゃましてます」小百合が声を掛けると「あ、来てくれたんだ」

そう言って小百合とお母さんの顔を見比べて「お話訊いてくれたんだね、ありがとう」

「なに、生意気言ってんの、さっさと手洗いしておやつでも食べてなさい」

目尻を下げお母さんの顔に戻った陽子さんが言う。そんな顔を見てると、この娘を生甲斐にしてるんだろうなと感じる。

小百合は心の中でそっと思った。 ――でも、なんか寂しいな。元には戻れないのかしら……

「お母さん、明日の支度はできてるの?」

みなみちゃんに不意に言われ、陽子さんがはっとして壁に貼ってある学校のスケジュール表に目を走らせた。

「あら、忘れてたわ。そうそう、明日は二泊で宿泊研修に行くんだったわ」

「あ、そんな忙しい時にお邪魔しちゃってすみません。失礼します」

小百合は慌てて腰をあげた。

「いや、大丈夫なの、バッグに詰めるだけだから。必要なものは先週末に買ってあるし、だから、コーヒーでも淹れるからみなみと一緒におやつでも食べて行って、あの子も喜ぶし」

陽子さんは眼差しでみなみの話を聞いてあげてと言ってる気がして、

「はい、じゃちょっとみなみちゃんの部屋へ行ってきます」


 夕方、小百合は小川に電話で陽子さんの悩みの話をし、「あの彼女が本当に不倫相手なのか確かめて欲しいのよ」とお願いした。

「お、わかった。あちこちで訊いてみるな」

小百合は訊きずらい話なので一言言われるかと思っていたが、すっと受けてくれたことに驚いた。 

――まだ私の知らない小川さんがいるのかもしれないわねぇ……



 小川は、先輩の同僚や独身会のメンバーに噂について訊いた。

「奴は不倫してるな。もう二年以上になるんじゃないか、詳しく知らんが病棟の看護師らしい。あんな良いカミさんいるのに何気に食わないんだか知らんが、良い身分だぜ」

同僚らがそっと教えてくれた。

「……それにな、大きな声じゃ言えんが、薬品類の横流しをして小遣い稼ぎをして女に貢いでるって噂もあるんだ」彼らはさらに声を落として囁いた。

「まさか、そんなことしたらすぐにばれるんじゃ?」

「それがな、おかしいんだ。管理課や、まして事務長がわからないはずないのに、目を瞑ってるって話もある」

「え~、それ、作り話じゃ? 病院ぐるみってことになっちゃうじゃない」

「ああ、それが事実ならな。だけど、証拠が有る訳じゃないから……単なる噂だ。う、わ、さ。ははっ」

個人名を特定して不倫相手だと言った職員はいなかったが、小川が白湯から聞いていた病棟看護師が不倫相手に間違いないだろうというところまで確認できた。

ただ、薬品の横流しについては目ぼしい話が訊けてないので、何か掴めないかと放射線課へ行ってみる。

「ちょっとネットワーク機器の点検に来ました」

小川はそう声を掛けて課内に入り雑談をしながら職員に機器の不具合が無いかなど聞いて回った。

その際、自席で院内SNSを見ていた早瀬の後ろを通り、スマホでも誰かとSNSのやり取りをしているところを覗き見た。

文章全体はわからなかったが「遅れるな」とか「十七日だぞ」とかを読み取れた。

乱暴な言いように友人などではないなと感じ、想像した。 ――もしかして、横流しの相手? 今月の話しだとすれば十七日は明後日だ。『遅れるな』だから待ち合せしてるという事か? ……

しかし、十七日は平日だから会うとすれば夜か? 「くそ、時間が見えたら」

思わず呟いてしまった。

「何か言ったか?」早瀬に聞かれてしまい慌てて「あ、いえ、ソフトの設定時間の事です。すみません」

頭を下げて部屋を出た。ドキッとし冷や汗を掻いた。

 夜、小川は早退した白湯に今日の出来事を伝え、「明後日、定時になったら早瀬を一緒に尾けよう」


 翌日夕方、白湯が「場違いな感じの男がどこの受付も通らず階段を上がって行った」と、連絡してきた。

急いで八階の管理課を出て階段を降りようとすると、ひと目で<その筋の人間>とわかる歩き方をする男とすれ違った。様子を窺ってると同じ八階にある院長室に入る。

数分で部屋を出た男は、再び階段を降りて一階の会計の隣にある事務長室のドアをノックもしないで入った。

 なかなか出て来ず定時になり、急いで帰り支度をして白湯に状況を伝え一階へ戻ると事務長の帰るところに出くわした。男の姿は無い。

「あの男帰ったか?」

白湯に訊くと「姿を見せてない」と返信がある。

地下駐車場へ行ってみるが、……男を見失ってしまったようだった。

「くっそー、あの場を動かなければ良かった」後悔したが時すでに遅し、仕方なく自車で白湯を待つことにした。

 五分ほどして早瀬の声が聞こえた気がして起き上がり辺りを見渡すと、斜め向かいの黒の<SUV>の横で例の男が早瀬と喋ってるのが目に入った。

ちょっと距離があって話を聞くことはできない。今車を降りたら間違いなく気付かれると思い、写真を撮って少しだけ窓を開けて聞き耳を立てる。

パンパンに膨らんだスポーツバッグのようなものを早瀬が男に渡す。

その場面も写真に撮る。

そこへ白湯が小走りできた。

「ごめん、待たせた?」大きな声が地下駐車場に響き渡る。

早瀬らは一瞬こっちを見て二台の車に分乗しタイヤを軋ませながら出ていった。

「まずい! 気付かれた」小川は思わずハンドルを叩いた。

「どうしたの? 何がまずいの?」白湯は何も知らずとぼけた顔をしている。

「あー、もう、今、早瀬が例の男に荷物を渡してたんだよ。その男を尾けたら横流し先がわかるだろう」

腹立たしかったが、白湯は何も知らなかったのだからしようがない。

「そうだったの、知らずにごめん」


 その翌日、早瀬のスマホで見た日だ。昼前に白湯から「例の男が来た」と院内SNSに書き込みがあった。

急いで一階へ降り白湯が示す方向を見ると、あの肩を揺らしながら独特の歩き方をする男がいた。

何処の外来受付をするのでもなく手ぶらで放射線科近くのトイレに入った。

小川も続いて個室に入る。

しばらくして、ひとつ空けた個室のドアがノックされドアを開ける音が聞こえる。

ぼそぼそとした話し声が聞こえ、「金」、「今月分」などの単語が聞こえた。

いずれも早瀬の声ではない。

「じゃ、また来月」と言った後、そのドアが開いてひとりが出て行き、少し間を空けてもうひとり出ていった。

後を追ってトイレを出て白湯に訊くと、「玄関前に停まってた車に乗って帰ったわよ」

またしても逃げられてしまった。

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