【 魔王? なにそれ 】
その日、魔界の最西端、パンサラサ海にぽつんと浮かぶ小さな島の唯一の村〝イナガ〟は、朝から騒々しかった。
狩りで得た魔獣の毛皮を床に敷き、その上で眠っていたアモルは、村長のおっさんに目が回るほど揺さぶられて起こされ、わけもわからぬままに外に連れ出される。
魔鶏も鳴かぬ夜明け前。いったいなんだよ、と悪態をついても許されるだろう。だが、アモルがいくら文句を垂れても、いつもなら叱るはずの村長は黙り込んでいた。ちらりと見えたその横顔は、やけに強張っている。
よく見れば、村の全員が遠巻きにこちらの様子を窺っていた。これは、本格的におかしいぞ、と思い始めた頃、村長は足を止め、掴んでいたアモルの手首を放した。
見慣れた、門の前だった。
外側に、強い魔力の気配が蠢いている。洗練された、綺麗に磨かれた銀食器のような気配だ。なるほど、とアモルは納得する。
農業と狩りで生活を成り立たせているイナガの者にとっては、あまりにも異質な集団だ。何事かと不安にもなるだろう。
「あー、なんか用ですか?」
いちおう、門番だ。不審者なら門の中に入れるわけにはいかないと、アモルは一歩、進み出る。すると、集団の中からひとりの魔族が、同じ様に一歩だけ前に出た。薄闇の中にぼうっと浮かび上がる白い肌に落ちる陰影が、精巧な人形のような美貌をより際立たせ、一瞬目を奪われる。
美しい。美しすぎる魔族だ。
「はじめまして、アモル様。本日より魔王となる貴方を、我々、魔王城付き使用人一同、お迎えに上がりました」
あ、絶世の美女かと思ったら、絶世の美青年だった。
恭しくお辞儀する魔族の声が思いの外に低かったが、アモルは内心で「……アリだな」と思う。が、美青年の言葉の意味を遅れて理解し、こてんと首を傾げる。
「……魔王? なにそれ」
❋ ❋ ❋ ❋ ❋
美青年はセリュールと名乗った。代々、魔王の執事を務めている家系らしい。
美青年とは名前の響きまで美しいんだな、とぼんやり思いながら、アモルは空飛ぶ馬車の窓から、流れていく白い雲を眺める。
思い浮かぶのは、最後に見た老人の笑顔だった。
(じいさん、死んだのか)
セリュールの言葉が真実なら、アモルに新しい生き方を教えた師匠は、魔王だった。しかし、昨夜、彼は死んだのだとセリュールは言う。最期の言葉が「イナガにいるアモルという青年を次の魔王に指名する」だったらしい。
まったくもって、意味がわからない。
「なんでおれ? 自分で言うのもあれだけどさ、ほんと雑魚だよ、おれ」
顔を正面に戻し、まっすぐに美青年を見つめて白状するが、彼は動揺するどころか真摯な眼差しで見返してきた。
翡翠色の瞳が吸い込まれそうなほど美しい。
美形の真顔の圧に耐え切れず、先に目を逸らしたのはアモルだった。
「はい。感じる魔力が極々微かなので、薄々そうかなと思っておりました」
「いや、そうかなって。ならなんでおれを魔王城に連れて行くんだよ」
「それが前魔王、シュトラーセ様の遺言ですので」
「……じいさんの名前、はじめて知ったわ。めっちゃ高貴な響き……ってそうじゃなくて」
「なんでしょう?」
首を傾げるセリュールは、とぼけているわけではなさそうだった。
不思議そうに、アモルの次の言葉を待っている。
大丈夫かよ、魔王配下。
「遺言なら、あんな辺鄙な村の、素性も知らない雑魚魔族でも魔王にすんのかよ、あんた」
「はい、します」
「え、即答? いやいや、ちょっとは考えろよ!」
「もう、散々考えました」
肩の力を抜き、セリュールはぴんと伸ばしていた背中を背凭れに預け、そして苦笑した。ちょっと幼い笑い方だ。
飾り気のないその表情が彼の素なのだと、アモルは感じる。
「シュトラーセ様から貴方のことを聞いて、すぐに素性を調べました」
「えっ、マジで? なにそれめっちゃ気になる。おれって実は初代魔王の血筋だったりとか、魔界転覆を目論む闇の組織に造られた魔造魔族だったりとか、そういうドキドキワクワクな主人公補正設定あったりする?」
「ないですね。ごく普通の一般的な生まれの平均的な魔族です」
「ないのかよ! ちょっと期待したおれがバカみたいじゃん!」
「ちなみに、貴方の出稼ぎしているご両親ですが、出稼ぎ先でそれぞれ別の魔族と知り合い、いい感じになっているようですね」
「こんなところで最悪な情報聞いちゃったよ!」
出稼ぎ場所、教えましょうか、と言われたが、アモルは脱力しながら断る。
幼い頃、村にアモルひとりを残して消えた両親のことは、とっくに割り切っている。そもそも、アモルはすでに自立しているのだ。今さら会いたいとも思っていない。
はあ、と溜息を吐き出し、ずり落ちかけた椅子に座り直したアモルは、窓枠に頬杖をつく。
考えてしまうのはやはり、昨日、普通にいつもどおり別れた老人のことだった。
「……なんでじいさんは、おれを指名したんだよ」
おれに、何を期待したんだ。
なんで何も言わなかった。
どうして、死んでしまったんだ。
代わり映えしない毎日に、彩りを与えてくれた老人。
別れの言葉すら言えず、永遠に会えなくなってしまうなんて。
彼の望みを叶えることが、せめてもの餞になるのではないかと思って、とりあえずセリュールについて来たけれど、彼の望みがわからない。
ぼんやり靴先を眺めるアモルの耳に、くすりとセリュールの笑い声が聞こえた。
「貴方を指名した理由はわかりかねますが、執務を抜け出して遊びに行くときのシュトラーセ様は、とても楽しそうでしたよ」
貴方に会うのが、よほど楽しみだったのでしょう、なんて。
そんなことを言わないでほしい。
(じいさん………)
やけに風通しのよくなった胸が不快で、アモルは乱暴に目を擦り、ふて寝するように目を閉じた。
『いつか、出会えたらいいな』
老人の声が脳裏で木霊して、なかなか睡魔はやってこなかった。
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