調整池
住んでいるアパートの向かいに調整池があります。大雨のあとはその池に溢れそうなほど水が溜まるのです。
ある朝、僕は見たんです。
その日は、前日の台風が嘘のように晴れていました。調整池にはいつにも増して水が溜まっています。
その反対側、小高い雑木林が広がっている手前に。
黒い人の影が蠢いているんです。
全部で影は五つ。ウネウネと奇妙な動きをしています。
両手を左右に広げ、クネクネと。
細い体を曲げながらグニョグニョと。
足は力が入っていないようにニョロニョロと。
異様な光景でした。
見間違いだったらどんなによかったか。
場違いな場所でダンスの練習をしている若者だったらどんなによかったか。
気色悪い。
最初に僕が思ったことでした。でも、あんな影、ある訳ないんです。
だって、池の途中から既にその雑木林の木々は生え始めているんですから。
人が立てる場所なんてないんです。
その日から、たまにその黒い影を見るようになりました。決まって雨の日のあと、池の水がいっぱいになった日。
あの存在が何なのか、何をしているのか、全く分からなかった。
ある日、いつもの様に貯水池のほうをぼーっと眺めていると。
家の周りに、貯水池を囲む様に人が立っているのに気がつきました。もしかしたら以前からいたのだろうか?
三、四人程度でしょうか。点々と、其々は離れて、貯水池と道路の際にあるフェンスにもたれかかっています。
手には何かの受信機のような、アンテナが立っている機器を持っています。機器から伸びたケーブルを耳元にあてています。
あのクネクネを見ているのか。直感でそう思いました。
気づかれないようにしていますが、時折目線をそちらに向けている。間違いなくあの影には気づいている。
そう考えるとその人達に興味が湧いてきました。何をしているのか、知りたくて堪らない。
思い切って声をかけるべきか。もう少し様子を見るか。
迷っているうちにいつの間にか影が消え、妙な人達も足早に去っていきました。
結局、あの人々が何だったのか、分からないまま時間が経っていきました。
初めてあの影を見てから次の月のことです。
住んでいる地域に今年最大級の台風20号が直撃することになりました。台風の進路は遅く、大量の雨が振り返りました。雨は夜通し続き、朝になる頃には調整池の水は溢れんばかりとなっていました。
警報が出る中、各種公共機関が運行を休止するなど、各地で対応が取られていたのでした。
僕はというと、池の影のことが気になって雨が降る中様子を見に出かけたのです。
調整池を眺めると、そこには相変わらず影が踊っていました。
いつもより溌剌と、より活発に。
五体の影は手足が千切れんばかりに伸ばし、脈打つようにグネグネと。
心なしかいつもより大きく、そして手足が長く見えます。
この池の水を吸っているのではないか。そんな風に思いました。
すぐに周りを見回すと。
あの男達は。
──いた。
食い入る様に黒い影の方を。
全身ずぶ濡れでフェンスに掴みかかり、顔を限界まで近づけています。
前にも見た四人でした。
異常だ……と思いました。
そのうちの一人がフェンスを乗り越えようとよじ登り始めました。
この大雨の中ではどう考えても無茶です。
流石に止めにかかりました。
「あ、危ないですよ!やめてください!」
走り寄って服を掴みます。すると男が振り返りました。男は、固まっていました。僕の方を見て怯えていたのです。
「う、う、う……うわぁあああああ!!!」
その反応にこっちが驚いてしまい、つい手を離してしまいました。
男はフェンスからずり落ちてわなわなと震えているようです。
「あ、あの…大丈夫ですか、落ち着いてください」
その瞬間。
「ああああああぁぁぁぁ、申し訳ございません、大佐殿ぉお、およね様ぁああああ!!どうか、どうかお慈悲をぉおお」
「えっ……ど、どういう」
呆気にとられている間に男が起き上がります。
「うわあぁぁぁあああああ!」
凄まじい速さで男は走り去って行ってしまいました。
後に残された僕は、ただ放心するばかりでした。
気がつくともう、クネクネと蠢く影も、それを取り囲む人間もいません。
あの影は一体何だったのでしょうか。
あの男達は一体何をしていたのでしょうか。
あの男が口にした、大佐殿、およね様とは何だったのでしょうか。
今では確認する術はありません。
ああ、それから、あの台風の日の翌日、調整池で三体の遺体が見つかったようです。
あの日に池を囲んでいた四人の男達、僕が声をかけてしまったあの男を除いた人数です。
そうそう。たまにですけどあの影を見るんですよね。
今その影は八つに増えてます。
まだ増えるんですかね。
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