第六話 キュビズム ②

 ふと、思った事がある。

 いや、疑問に思った。

 それを漫画片手に無意識に呟いてしまった。


「んー?何が?」

 私のベッドの上で寝転がりながら、雑誌を広げる真矢は、その雑誌から目を逸らさずに私の呟きに反応した。

「いや、バイト初めて何か変わったのかな、私——て思って」

 バイトを始めて一ヶ月が経過していた。私は週4のシフトで働いていて、それとは別に祝日もシフトが入ったり入らなかったりする。

 季節はすっかりと梅雨の時期になり、バイト先は雨上がりを待つ人達の憩いの場となりつつあった。

 未だに知らない人は苦手だし、ことあるごとに小さな失敗をいつまでも引きずってしまう。

 それでも、と。

 例え僅かでもあっていいから、一つでも何か変わってて欲しいと思った訳である。

「変わったんじゃないの?バイト中ならお客さんに自分から話しかけられるようになったし」

 流石に仕事なのだからそれ位は——、と言いかけたが、以前までの私は、仕事だから、とそれを当たり前だと言えただろうか?

「……そうなの、かな?」

 それでも後ろ向きな私は、自分の出した結論すらも疑う。

「そうだよ、そうそう、少しは成長してるよ」

 と、雑誌を捲りながら面倒そうに答える真矢。

 幼馴染の真剣な話だというのに、その態度はいかがなものか。

 ムッとして読んでいる雑誌を取り上げると、やれやれ、とベッドに座り直した。

「成長したって言葉、何もそんなに疑わなくても」

「だって、バイト程度で変われるなんて思わなくて」

「変わるよ。少なくとも、星香はね。仕事をするっていう責任感とか、普段と話さない人と会話する環境の変化とか。たかだか一日数時間のバイトでもさ、星香にとってそれは一大事でしょ?」

「……そっか、そうなのかな?」

 そこまで真矢が言うのなら、本当に私はほんの少し変わることが出来たんだろう。

 窓を濡らす穏やかな雨が、密かに私を楽しませた。

 雨音が一つ鳴る度に、私はそれを自覚していく。ほんの少し、そうきっと普通の人にとっては取るに足らないことでも、私にとっては大きな一歩。

「——今なら、アンタが苦手な人と話しても、少しは会話が弾むかもね」

 真矢は揶揄うように笑うと、再び雑誌を読み始める。何をそんなに熱心にと、雑誌を覗き見すると、海外のテニス選手のトレーニング特集だった。

 真矢は変わらないな、と少し苦笑して、目を閉じた。確かに、成長したのかもしれない。

 何故なら、窓を打つ雨音を楽しむ余裕が、今あるのだから。

「苦手な人と会話、か」

 とはいえ、苦手なものは苦手だ。真矢のその言葉ばかりは、流石に無いだろう、と。

 彼女の適当な冗談だと勝手にそう思っていた。


 ◇


 そういう会話があった所為だろうか。

 翌日。

 日直だった私は、放課後に授業で使った備品を準備室へ返す途中、姉に匹敵する苦手な人と出会ってしまった。

「あ、星香」

 以前、バイトの帰りに一緒に帰宅して以来、まともに会話する機会の無かった那月先輩とばったり出会ってしまう。

 那月先輩は珍しく一人で、彼女も両手に教材を抱えている。

「星香も日直?」

「はい、那月先輩は……家庭科だったんですね」

 恐らく裁縫か何かの授業だったんだろう。布束の入った段ボールを抱えている。

「……あの、さ」

「はい?」

「えと……最近どう?バイトは」

「そういえばあれ以来、那月先輩来ないですね。佐竹先輩のご実家なのに」

「あはは、佐竹と遊ぶ時は佐竹が外に出たがるし、佐竹がバイトしてる時は私達が行っても邪魔になるだけだからね」

 まぁ、そう言われるとそうか。

「バイトは楽しいですよ。私、佐竹先輩にバイトに誘われて良かった、って思ってます」

「そっか。うん、なら佐竹も喜ぶと思う。確かに、星香は少し前と比べてちょっとだけ変わったよね」

「そうですか?あんまり自分じゃ分からないかも、です」

「でも何でバイトを?佐竹に誘われたってだけじゃないでしょ?」

「私、姉と正反対に思われるのが嫌だったんです。別に姉の様になりたい訳じゃないんですけど、でも姉と比べられるのが少し嫌で」

「あはは、まぁ、紗夜先輩は人気者だし、あの性格だしね」

 なら、姉の居ない学校へ進学すればよかったじゃない、と言われるとそれまでだ。

 だが、別に姉妹仲は悪い訳じゃないし、あまり姉を意識し過ぎていると思われるのも、なんか嫌だった。

 那月先輩はあんまり私と姉を比較しないけど、心の中できっと私と姉を比べているに違いない。

 それは仕方のないことだ。

「だから、って訳じゃないですけど。変わりたかったんです。せめて、普通の人と同じになりたくて」

「普通?」

「私は、努力してようやく普通に手が届くかどうかの人間なんですよ」

 そんなことを急に言われても、那月先輩は困ってしまうのだろうな。

 そう思いながら彼女を見ると、困惑でも同情でもなく、柔らかく笑っていた。

「でも、妹の星香に言うことじゃないけど、紗夜先輩も普通じゃないよ。私も普通じゃない、と思う。そもそもさ、星香の普通って何?」

「それは……普通のことを普通に出来る人です」

「じゃあやっぱり私も普通じゃないね。勉強どころか料理だって裁縫だって何も出来ないし。でもさ、人によって得意不得意はあるものだし、それが全部普通レベルって人は逆に普通じゃないと思うよ」

 それはそうかもしれない。

 でも、

「私には得意なことなんて、無いですから」

「そんなこと言ったら、私もだよ」

「でも、私は那月先輩と違って、性格も後ろ向きで暗いですし、人見知りだし」

 私は追い込み漁の如く、那月先輩との会話の中で何故か自分の弱さを吐露していく。

「でもそれって、紗夜先輩と比べて、でしょ?」

 一応関わりの薄い先輩の私とも会話が出来てるし、本当にネガティブな人間なら生きることを諦めてる、と。

 那月先輩は言う。

「その部分は紗夜先輩が人と違いすぎるだけ。そりゃ、誰だってあの人と比べたら人見知りだしネガティブだよ。でもさ、それでも、星香がどうしても紗夜先輩と比較されたく無いって思うなら、こう考えてみてよ」

 と、廊下の途中で足を止めて那月先輩は振り返る。

 相変わらず美人だ。すれ違う男子達が見惚れてしまうのも仕方がない。

 端正な顔立ち。ちょっと羨ましいけど、私みたいに目立ちたくない人間にとっては、重荷にしかならないだろうな。

 そんな彼女が、私を見ている。

 そして、私にこう言った。


「紗夜先輩と正反対って、別に悪い意味でも無いってさ。少なくとも私は、紗夜先輩に少しも似てない君が好きだよ」

 

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