第四話 海月の骨 ①

 恐らくそれは、海月の骨のようなものだ。

 本来存在するはずもないもので、それでも、もしかしたら、と思うもの。

 昔の人は「命あれば海月も骨に会う」——なんて、冗談めいて言っていたが私にはその言葉は酷く不気味に聞こえる。

 どれだけ長い時間をかけたって、存在し得ないものに出会うことなんてないのに、それでもそれを夢見続けろ、と言うのだから。

 それはなんて残酷な話なのだろうか。

 もしかしたら——そんな儚い希望に縋り続けながら、淡い期待を抱き続けながら、それでも叶うことのない現実から目を背け続けろ、なんて。

 だから、私は海の月の骨を、もう探さない。

 普通の人間であればいい。

 だから、私はお姉ちゃんが苦手だ。お姉ちゃんは特別だから、近くにいると、もしかしたら私も——なんていう勘違いをしてしまう。


 きっと那月先輩も同じだった。

 一目見ただけで、誰もが美人だと思う容姿。人の好みは千差万別だけど、それでも世間一般という標準があったのなら間違いなく美人のカテゴリに入れざるを得ない、その美貌は。

 私にとって眩しかった。私と違って、容易に何かにとっての特別になれる存在。

 普通であることを続けることすら、息切れしてしまう私にとって、あまりに眩し過ぎる。

 だから、彼女が笑みを見せる度に。

 私は反射的に目を背けてしまうのだ。


「いやー楽しかったねぇ」

 真矢がニコニコと笑いながら私達の数歩前を歩く。

 どうやら、保科先輩と余程気が合ったらしく、カラオケにいる間はずっと側に居て談笑していた。帰りにはチャットIDまで交換していた。

 テニス狂いの真矢ではあるが、部活の先輩とは一歩引いて付き合う癖のある彼女からすると、かなり珍しい光景だ。

「保科ちゃんは面倒見がいいからねぇ。ギャルっぽい見た目なのに意外と勉強出来るギャップは紗夜ちゃん先輩的にはかなり評価高いよ」

「紗夜姉、なにその紗夜ちゃん先輩って……」

 比較的家の近い真矢と私達姉妹は、当然帰宅する道は殆ど変わらない。既に那月先輩達とは別れて、各家庭の晩御飯の準備の匂いが鼻腔をくすぐる夕暮れの住宅街を三人で帰る光景は大して珍しくも無かった。

「この間、漫画でそう呼ばれてるキャラクターがいて羨ましかったんだよね。で、誰かこう呼んでくれないかなー、って」

「へぇ、私が呼ぼうか?」

「やーだー。紗夜姉呼びがいい。星香はお姉ちゃん、としか呼んでくれないし」

「そりゃ、他に姉がいたらそう呼ぶかも知れないけど……」

 現状、お姉ちゃんは一人だし。紗夜姉なんて呼ぶ必要も理由も無い訳で。

「でさ、星香は楽しかった?」

「カラオケ?うーん、楽しかったってより、なんか変に緊張しちゃったな」

 友人の前で歌うのすら、少し苦手だというのに。

 出会ったばかりの先輩の前でカラオケなんて、楽しめる訳ないよ。

「でも……、佐竹先輩が気を遣ってくれたから、ちょっとだけ、いつもより緊張しなかったかも」

「あの眠そうな表情の先輩?」

「うん……。すごい優しかったよ?一人で歌うの嫌だなって思ってたら、気を利かせて二人で歌おうって言ってくれたし」

 佐竹先輩は、少しだけ、ほんの少しだけ——私に似ているのかも知れない、と思ってしまう。

 具体的に何が、っていう訳じゃない。

 けど、普通の人にとっては、人前で歌うことを躊躇ってるなんて勘づくことすら出来ないだろう。それを言わずとも察することが出来た、ということは、佐竹先輩は私に近しい価値観を持っている人なのかも知れない。

「佐竹ちゃんに気に入られたのかな?あ、那月ちゃんは?どうだった?」

「那月先輩……?うーん、どうだろ」

 第一印象は苦手な人、だった。なんとなく見た目からして私とは合わないんだろうな、って。

 実際今日一緒にカラオケに行って、やはりその印象は変わらなかった。

 ああやって、姉と肩を組んで堂々と楽しそうにはしゃげる——そういう類の人間は根本的に合わないのだ。

 それでも、何度か話しかけられる中で、何故、という疑問が浮かぶ。

 今日、カラオケに誘われた経緯もそうだけど、こんなみんなの人気者という感じの人が、何故私なんかを気にかけるのだろうか、という疑問。

 私のような人間は、そういう人の隣にいると余計惨めに思えてならない。そして、ああいう人気者は似たり寄ったりの明るい人達と固まって過ごすのが好きだ。

 そうやって、この社会は棲み分けが自然と出来ていくはずだ。

 だというのに、那月先輩は、その枠を無視して私の方へとやって来た。そういうところは、やっぱり姉に似ている。

 ああ、そうか。

 那月先輩は、姉に似ているから苦手なんだ。

 姉は身内だから、苦手といっても別に嫌悪感がある訳じゃないけど。

 身内じゃない姉だと思えば、彼女のことを苦手だとも忌避感を覚えるのも納得がいく。

「やっぱり……少しだけ、苦手、かな」

 と控えめに言うと、姉は笑った。

「そっか、やっぱり——そうだったんだね」

 と。

 私の感じた筋違いの罪悪感を吹き飛ばすように笑う姉の目は、何故だろう、少し悲しそうに見えた。


 それは、姉妹だからこそ分かるような微細なもの。

 だけだ、私は姉がそういう目をすることなんて初めて見て。


 それは、私が存在しないと思っていた海月の骨の、その一つであることは間違いなかった。

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