異世界放浪記 孤高の王譚

@Schwarz0417

序章

第1話

 朝、俺は期待と不安が入り混じった気持ちで玄関を出た。新品のスーツはまだ少し硬く、襟元に触れるたびにくすぐったい感覚がする。


 昨日の夜は緊張のせいでろくに眠れなかった。寝つくことができたのはほんの数時間で、正直言ってまだ頭がぼんやりしていたが、それでも今日は特別な日だと思うと胸が高鳴る。


 社会人としての第一歩、初めての出勤日だ。学生時代に頑張った甲斐があり、内定をもらったのは誰もが知る大企業。誰もが羨む仕事が待っているのだと、何度も自分に言い聞かせてきた。それでも、いざその瞬間が来ると、やはり不安の方が強い。果たして自分は無事にやり遂げることができるのか、皆に迷惑をかけることはないか、そういった心配が頭をよぎる。


「行ってきます」と一言呟いて鍵を閉め、静かな住宅街を抜けて駅へと向かう。道端には春の花が咲き誇り、その淡い香りが鼻をくすぐる。いつもより明るく感じる朝の陽射しが、まるで今日という特別な一日を祝福しているかのようだ。空の色も、どこか鮮やかで、青空が広がっている。


 駅に到着すると、通勤客たちの慌ただしい足音や、電車が到着を告げるアナウンスが耳に入る。人々はそれぞれに足早に動き、目的地に向かって急いでいる。


 その中で俺も、今日から新たな生活が始まるのだと、少し浮き立つような気持ちで電車に乗り込んだ。窓越しに流れる景色を眺めながら、何度も見たはずの風景が今日はなぜか違って見える。緊張しているせいか、胸が早鐘を打っているのを感じる。


 電車が揺れるたび、胸ポケットに入れた名刺入れを触り、確認する。「大丈夫、忘れ物はない」と自分に言い聞かせながら、座席に腰を落ち着ける。目を閉じて深呼吸をするものの、なかなか緊張は解けない。それでも、その緊張感が、むしろ心地よい高揚感に変わってきた。


 これから自分が何を成し遂げるのか、何を感じるのか、それだけで心が少しずつ動いていく。


 会社の最寄り駅に到着し、改札を抜けたとき、俺は思わず深呼吸をした。少し冷たい春の空気が肺に染み渡り、背筋が自然と伸びる。歩道に出ると、並木道の木々が風に揺れ、若葉の緑と春の陽射しが絶妙に重なり合い、辺りは柔らかな光に包まれている。すべてが新しく、すべてがこれから始まることを告げているようだ。


 スーツの裾を整え、靴音を響かせながら歩き出す。他の通勤客たちもそれぞれの目的地へ急ぎ足で向かっている。俺の歩調もいつの間にか速くなっていた。それがまた、緊張から来るものだと自分でもわかっているが、それを楽しむ余裕も出てきた。

 時計を見ると、まだ少し余裕がある。それでも、早く会社の建物を目にして安心したいという気持ちが背中を押していた。


 歩道には、スーツを着たサラリーマンやカジュアルな服装の若者たちが行き交い、誰もが目的地に急ぐ様子だ。朝特有のせわしなさが漂う中、俺はふと目の前のショーウィンドウに映った自分の姿に気づいた。新品のスーツを着て、背筋を伸ばした自分が窓越しに見える。少しだけ顔が引き締まった気がした。その姿に思わず微笑み、窓越しの自分と目を合わせて小さく頷くと、再び歩き出した。


 道沿いに並ぶカフェやベーカリーからは香ばしい匂いが漂い、軽やかなジャズが小さなスピーカーから流れていた。普段なら立ち寄りたくなるような魅力的な空間も、今はどこか遠く感じる。右手に握った会社案内の地図を確認しながら、決して迷わないように慎重に進んだ。途中で立ち止まることなく、無駄な時間を過ごすことなく、ただただ目的地へと向かっている。


 大通りに差し掛かると、ついに会社のビルが目に入る。そのガラス張りの外観が朝日を反射して輝いている。胸の中に温かいものが広がり、何とも言えない安心感が訪れる。ここまで来たんだ。これが自分の新しいスタートだと思うと、自然と背筋が伸びる。


 信号が青に変わるのを待ちながら、しばらくそのビルを見上げる。車の行き交う音や、周囲の通勤者たちの足音が耳に届く。緊張感が一層高まり、ついに自分がその一員となる瞬間が来たのだと、心の中で確認するように深呼吸を一つ。信号が青に変わった瞬間、俺は一歩を踏み出す。


 その瞬間、突然左から異様なエンジン音が聞こえた。「危ないっ!」と誰かが叫んだ。その声が耳に届くと同時に、目の端に映ったのは、焦った顔のドライバーがハンドルを握り、俺に向かって猛スピードで迫ってくる姿だった。


「――え?」と短い疑問を抱く間もなく、猛烈な衝撃が身体を押し潰した。


 足元が宙を舞い、景色がぐるりと反転する。

 体は硬いアスファルトに叩きつけられ、頭に鈍い衝撃音が響く。


 目の前の世界がぶれる中、遠くから誰かの悲鳴や怒号が聞こえてきたが、その内容は理解できない。痛みよりも、何か大切なものが途切れていく感覚が強く感じられた。


「...始まる、はずだったのに...」


 ふいにこぼれたその言葉は、耳に届く前に消え去った。

 胸の奥で渦巻く無念が、ふっと薄れていくような感覚を覚えた。


 意識が薄れ、視界が白く染まっていく中、最後に空を見上げると、透き通った青空が広がっていた。その青さに、不思議と心が落ち着くような感覚を覚える。最後に一つだけ、微かな願いが心の中でひとりごととして漏れた。


「...もう一度...やり直せるなら...」


 微かな願いを胸に、世界は静かに閉じていった。


※ 初心者です。誤字報告やアドバイスお待ちしてます。

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