5 佐藤 大郎 ②

 平凡な私の、平凡でない奇跡。

 ふと思う。私の名前に点があったら、この二人に出会えなかったのかもしれない。そう考えると、不便しか感じなかったこの名前が、これで良かったと思えてくる。


「そういえば、明日は夕飯要らないよ。上司が大事な話があるって」

「あら、昇進かしら」

「ははは、だったらいいんだけどね」


 私の仕事ぶりは可もなく不可もない、平凡なものだったはずだ。昇進からもクビからも遠い位置にいる。その点、上司からどんな話をされるか不安ではあった。

 転勤だったら断ろう。単身赴任で家族と離れ離れになるのは嫌だし、連れていくにも妻は体が弱いから、住む環境を変えたくない。



 次の日、上司に連れられて向かった応接間には、明らかに堅気でないスーツの男たちが座っていた。

 上司は丁重な物腰で、彼らに私を紹介する。


「こちら、佐藤です。弊社の新しい担当になります」


 これは後から知ったのだが、自分の勤め先は、指定暴力団のフロント企業だった。


 弊社は秘密裏に様々な形でバックアップをしており、その弊社窓口の人間が失踪していた。次の担当者として、可もなく不可もない、この私に白羽の矢が立ったのだ。

 白スーツの男が名刺を見て言う。


「佐藤大郎……いい名前ですね。覚えました」


 私に拒否権は残されてなかった。フロント企業だなんて知らなかったし、仕事についても何の説明もなく彼らに紹介された。既に逃げ道は塞がれていたのだ。

 最初の仕事は帳簿の偽造だった。弊社は資金洗浄の役割も担っていた。それから、架空の社員への保険証の発行、携帯電話の契約、口座の開設など、およそ合法とは程遠い仕事の数々を任された。


 さらに、暴力団幹部に呼ばれて酒の席を共にすることもあった。明らかに彼らの息がかかったバーに呼ばれ、あろうことか幹部の白スーツの男にお酌される。


「佐藤さん、いつもお世話になってます」

「いえ、そんな……」


 その時、部下がやって来て、男に耳打ちする。

「すみません、佐藤さん。野暮用がありまして、少し席を外しますね」


 その後、バックヤードから白スーツの怒声が聞こえ、それから何者かの弱々しい命乞いの声が聞こえてくる。

「てめえ自分がしたこと分かってるのか! ……家族がどうなってもいいんだな?」


 それから、鈍い打撲音が立て続けに響き、やがて白スーツの男が戻ってくる。


「いやあ、すみませんね。部下がヘマやらかしたようで」

「……ええ、大丈夫です」

「そうですね。佐藤さんなら、我々の期待を裏切るような真似はしませんよね?」


 平凡な私の日常は、とうに失われていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る