第8話 長男、ですよね

「履歴書の字がきれいですね」

 開口一番、意外なことを言われた。

 字がきれいだと言われたことは、ほとんどない。と言うか、いつも字は真剣に書かない。書き殴っている。ノートの字など、後から自分でも読めない。最近はノートも取らない。 

 履歴書は、久し振りに、高校へ入ってからでは恐らく初めて、真剣かつ丁寧に書いた。だからきれいだと言われたのだろう。と言うか、字のきれいさ以外に褒める所、目立つところが見つからなかったから言われているような気がする。

 しかし、本気で書くとおれも字が意外ときれいなのだな、と思い、思わずそのまま口から出てしまいそうになるが、それを言ってしまうと日頃勉強していないことがバレバレなので「そうですかね」と言うにとどめておくが、そうですかね、と言ってから、この語尾の「ね」は面接を受ける側が目上の人間に言うにあたって正しい言い方なのかな、また無意識のうちに失礼な言動をしてしまったか、と思ってしまう。

 次に、履歴書に書いてあることをいちいち言ってくる。趣味・特技の欄を見ながらである。

 スポーツの欄に、剣道と書いた。

 中学時代の部活動であるが、創部一年目で部員が集まらなかったために一年生からすぐ試合に出られたが、一瞬で負けることが続くばかりの三年間に過ぎなかった。練習試合でも一度も勝てなかった。練習しても、上達するということがなかった。

 三年生の時に入ってきた小学校時代から道場へ通っている一年生に負けた。段位も取れなった。それが唯一のスポーツ経験で、小学生の頃から球技が苦手だったために、ほぼスポーツ全般が嫌いだった。なので話題がスポーツに及ぶと気持ちがげんなりとした。

 が、顔には作り笑顔を張り付けて、剣道について話すが、勢い、良い話にはならない。

 下手でした。一年生にも負けました。

 面接官の男性が笑い、脇の椅子に座る女性の案内役のような人も笑った。場が和んだと考えて良いのか、馬鹿にされていると考えるべきなのか。運動もできない奴と思われているのか。

「あなたの夢は何ですか」

 突然、履歴書の話題から外れ、禿げ頭の男性はこんなことを言い出す。

 夢。会社に入ろうと思っているのだから夢も何もないのでは、と思ったが、少し考えて、「ひとりぐらしです」と答えた。

 それが目下の目標であることは間違いない。思わず口から出たが、正直に言ってしまって良かったのだろうか、とまた言ってしまってから後悔のような感情が湧き起こる。

「長男、ですよね?」

 男性から、即座に返される。

 ああ、また長男が出たか、と思う。

 しかも、このでっぷりとした日本社会の価値観そのもののを体現しているような男性の口からこんな言葉が出ると、社会の入り口の扉は大きく強固かつ非寛容で型にはまった厚い壁のような扉で、強い力で跳ねのけられ、入ることを拒まれた気がした。

「そうですが、うちは長屋で狭いんで、壁の隙間から隣りの家が見えるぐらいなんで、小さな頃から一人暮らしが夢だったんです」

 何も言わないわけにもいかず、また当たり障りなくやり過ごす言葉も思いつかないので、育った家のことをぶっちゃけるしかなくなる。口調が少し情けなくなり哀れさを誘ったせいか先ほどに続いて笑いが起こり、少しほっとする。

 さらに「学校の欠席日数が多いですね、身体は大丈夫ですか」と言われてしまう。

 学校からの斡旋の就職なので、当然ながら調査書が回され、さぼりまくっていたことが数字ではっきりと示されている。そんな物を回されたら採用されるわけがない、と今さらながら、気付く。入社しても欠勤しまくる人物と思われるに決まっている。

 しどろもどろになる。病弱だと思われたくもない。

「アルバイトで忙しかったんで」

と苦し紛れの言い訳をするしかなかった。「入社したら心を入れ替えて頑張ります」

と言ってみるが、広い会議室に言葉が空しく響いた。

 その空しい響きを引き摺りながら、帰りも京阪京津線に乗り、秋めく三条通りから見える山々や樹々、建物を眺める。

 山科から蹴上へ差し掛かるまではむき出しの山の斜面や中途半端なコンクリートが景色の中に横たわり、先程の世間そのものの面接官の男性との噛み合わない会話の嫌な後味を反芻しながら、どんよりとした気持ちで眺めた。曇り空だった。

 蹴上から三条へ差し掛かり都ホテルの前あたりを通る頃、三条通りは急に『京都』の装いになる。蹴上から山科に掛けては古くは刑場だったらしく、地名に当時の名残が残っている、というのは学校の授業で聞いた気がする。

 蹴上は文字通り罪人が蹴り上げられながら山を登らされる場所で、九条山を登り、今日面接した会社のある山科を越え、四宮へと至るのだが、四宮とは死の宮、つまり罪人の死体置き場だったと言われる。

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