痛いの痛いの、飛んでけ!

「──お漏らし、見られちゃった……」

「それよりもっと衝撃的なもの見せられてんだよこっちは……」

「そ、そうだよね……」


 風呂場の扉越しに、控えめなシャワーの音を上書きするように日和の声が聞こえる。

 どこかぎこちなくて、重苦しくて、会話が続かないような予感がするが……


「それに、お前のお漏らしくらい何回も見たよ」

「あーっ! それを言うならヒヨリだって何回も見てるんだからねっ! 一緒に寝てたときなんて、ヒヨリのせいにしてさぁ!」

「いつの話だよ。ははっ」

「あははっ!」


 こんなときだからこそ沈黙よりは笑える話がしたいし、コイツとならそれができる。


「……ねぇ、わっくん。村まで遠かったでしょ?」

「あれからちょっと経って家を出て、11時間くらい。本当にギリギリだったな」

「……お母さんが護ってくれたのかな」

「日和ママが?」

「ううんっ、こっちの話っ! ……ねぇ、わっくん。どうして来てくれたの?」

「お前に死んでほしくないからだよ」

「……ヒヨリが怖いんじゃなかったの?」

「……答える前に一つ聞きたいんだけど、オレの母さんが病気になった時に父さんが魚屋のおじさんとかに酷いこと言われた話、知ってるか?」

「うん、全員処分したよ」


 その躊躇の無さが怖い。いや、もしかしたら日和なりに葛藤していたのかもしれないが。


「ぶっちゃけ今でも怖いと思ってるよ。日和がそんなにもオレを好きでいてくれること……だって、訳わかんねぇんだもん」

「訳わかんなくなんてないよ? わっくんは凄くて優しくてカッコいいんだからっ! みーんなわっくんのことを好きになっちゃうんじゃないかって、ヒヨリ、いつも不安だったんだよ?」


 いつものように、無邪気にそう語るが、オレはまだ、その言葉を受け入れることができない。


「お前の方が何倍もスゲーじゃんか」

「えー、例えば例えば?」

「……でっけーカブトムシを捕まえられる」

「わっくんはたくさんのカブトムシを捕まえられるよっ!」

「勉強もできるし」

「理系科目では勝ってたけど文系科目では勝てなかったよ?」

「スポーツだって」

「武道だったらわっくんには敵わないよ?」

「SOOだって、お前の方がダメージ出るし」

「同じ状態なら多分わっくんの方がダメージ出ると思うけどなぁ」

「……可愛いし」

「えへへっ、ありがとっ! わっくんはカッコいいよ? 見た目も性格も……高校でもモテてるんじゃない?」

「そんなことは……」


 たしかに、言われてみれば日和に負けてない部分がいくつもある。

 それでもまだこのモヤモヤが晴れないということは……


「……そっか。オレ、日和に完全に勝ちたかったんだ」

「……完全に?」

「でっけーカブトムシをたくさん捕まえられて、文系も理系科目もお前に勝てて、武道以外のスポーツもできて……」

「えぇー、ヒヨリだってわっくんに勝ちたいよっ!」

「完全に勝てなきゃ日和のことを護れないと思っていたんだ。一緒に並ぶのが恥ずかしいって」


 いつからそうなったのかはわからない。最初のうちは、純粋に凄いと思っていたはずだから。


「……じゃあ、ヒヨリと勝負するの、楽しくなかった?」

「そんなことない! 日和がでっけーカブトムシを捕まえたときも、テストも、体育の授業も、釣りも、楽しかったッ! すげぇな、負けたくねぇなって、ワクワクした! お前と久しぶりに出会ってゲームした三日間だって、楽しかったよッ!!」

「えへへ、そっかそっかー! でも、日和には完全に勝ちたいんだねー?」

「……ああ、この相反する感情が、段々とお前から距離を置きたくなってしまった理由の一つだと思う」


 日和を護ってあげられるくらい強く、凄くなりたくて、けれどコイツは凄いから絶対に勝てないところがあって。一緒に遊ぶとそれを思い知らされるけれど、ワクワクもして……

 中二の頃のオレはそれを気持ち悪いと思っていた節があるのだろう。


「……でも、それだけじゃないよね。ヒヨリ、わっくんにずっとベッタリで」

「……」


 ……まあ、日和のスキンシップは過度なものだとは思うしそれも原因ではあったけれど。


「ヒヨリは、大好きなわっくんの傍にいると幸せだから、お部屋でもトイレでもお風呂でもどこでも一緒にいたかったけど……わっくんは幸せじゃなかったんだね?」

「……全く嬉しくないわけじゃなかったけど、縛られてるって気持ちの方が大きかったよ。他のクラスメイトと日和抜きで話す機会もなかったくらいだし」

「……ごめんね。ヒヨリはわっくんが居てくれたらそれでいいと思ってたから、わっくんもそうなんだって思ってた。ううん、思い込んでた」


 扉越しに聞こえるその声が沈んで。

 オレは思わず扉に手を当てた。


「……日和が嫌いなわけじゃない。それは断じてない。けど、そうだな。オレが他の人たちとも親睦を深めたい気持ちと、ヒヨリが文字通りずっとオレと一緒にいたい気持ちは相容れない」

「じゃあ、離れた方がいいってこと?」


 オレが扉に手を当てたことに気づいて、日和が扉にもたれかかる。

 小麦色の背中がボンヤリと見えて。鼓動が早まるのを感じる。


「ううん、日和がオレのことを想ってくれているように。オレだって、お前のことをかけがえのない存在だと思っている。そんな存在を失わないように、互いに歩み寄ってみよう」

「歩み、寄る……」

「今度はオレも逃げないから。それに、日和だってもう無理やりくっ付こうとはしてこないだろ?」

「……ん。わっくんがやめろって言ったら我慢する。けど、ヒヨリ、わっくんに甘えたいよ? ギューってしたくなるし、イチャイチャしたいよ?」

「……うん、オレもヒヨリが好きだから、いいよ。流石にずっとはしんどいけど、オレだってヒヨリと一緒にいたい」

「……それじゃ、今っ──わぷっ!!」

「やってくると思ったよ。ほら」


 扉を開け、生まれたままの姿で抱きしめようとしてくる日和にバスタオルを投げ渡す。

 とりあえずこれで身体を拭かせて早急に着替えてもらおう。

 ……見えてない見えてない。予備動作があったからちゃんと顔を背けた。


「えぇー、ヒヨリはわっくんのお嫁さんなんだよー? って、こういうのが良くないのかな? ……わかった! ちゃんとわっくんの言うこと聞くよっ!」

「……おう」


 日和の声と布が擦れる音だけが聞こえる。様子はわからないが、服を着てくれているのだろう。


「……わーーっ! これで大丈夫だよねっ!!」

「うんうん、大丈……って、違うッ!!!」


 なんて考えていたら、日和が抱きついてきた。

 着替えてから、ではなく、ただバスタオルを一枚巻いただけの状態で。

 ……オレの伝え方が悪かったのか、コイツがまだ自分にとって都合の良いように受け取っているのか、はたまたその両方か。


 花の香りのようなボディソープの香りがして。

 ヒヨリの胸がオレの肩辺りに当たる。その感触がやけに柔らかくて、それだけじゃなくて弾力があって。

 パニックになりそうだ。


「えっ、なんでなんでっ!? ヒヨリ、ちゃんとバスタオルを巻いたよ!?」

「タオルで身体を拭いて着替えろって言いたかったんだ! SOOでは息ピッタリだったじゃねーかよ!」

「あっはは、たしかにっ! いっつもアレくらい通じ合えたらいいのにねーっ!」


 こっちの非常事態を知ってか知らずか、のほほんとした口調で更に身体を密着してくる日和。

 先ほどまでシャワーを浴びていたのだからそれはそうだと言う話だが……その身体がやけに温かくて。


「……日和が生きててよかったよ」

「……へ?」


 思わず、安堵の言葉が漏れ出た。

 日和が助かったときにも口にしたけれど、今出てきたものは、しみじみとした絶対的な安心感からくるもので。


「オレ、さ。嫌なことは結構あったけど、死にたくなったことはないから日和の気持ちはわからない。死ぬな、なんて烏滸がましいことは言えないから……仮にお前があの首吊りを止められて絶望していたなら、責任を持って日和が死ぬのを手伝うつもりでいたよ」

「そっ、そんなこと、ないよっ! わっくんとお義父さんに助けられて、すっごく嬉しかったっ! 生きてていいんだって、わっくんはヒヨリに死んでほしくないってことがわかって、嬉しかった!!」

「ああ、オレは日和に死んでほしくない。でもこれだけじゃ、ただのエゴで……だから、オレが日和の『生きる理由』になりえるのなら、オレはお前にずっと生きてくれって望む! オレもずっと生き続けるッ! そして、もうお前から逃げたりはしないッ!!」

「わ、わっくん……!」


 まるでプロポーズのような言葉になってしまったが、日和にそう思われたって構いはしない。コイツが生きていてくれるなら、それでいい。


「……日和ママと日和パパのことは大体察しがついてる」


 父さんが車を用意するまでに母さんから聞いた話──両親と写った写真が送られる機会がめっきり無くなったこと。そして、部屋にあった二人の遺影。父さんから聞いた村の闇……


「……!」

「今まで辛かったよな。このことを知らせれば、オレはすぐにでも村に戻ったかもしれないのに」


 大好きだった両親が殺された日和の気持ちを考えれば、例えどんなに怖くてもオレは村に戻ったことだろう。

 てっきり日和は両親と村で幸せに暮らしているものだと思っていたから……

 けれど、日和にとってはそれじゃダメだったんだろう。


「話せばわっくんは戻ってきてくれると思ってた。だって、わっくんは優しいから……でも、可哀想って、思われたくなくて。『ヒヨリが可哀想だからいやいや戻ってきてくれたのかな』なんて考えたくなくて。それで、話せなかったの」


 ぎゅ、とオレの服の袖を掴む日和。

 口の端を結ぶその様子がいじらしくて、オレは……


 日和を抱きしめた。

 左手を背中に回して、右手は後頭部に。


「痛いの痛いの飛んでけー! ……なんて言葉でどうにかできるものじゃないのはわかってる。けど、こうさせてくれ」

「……っ!」

「これは、可哀想だから唱えている呪文じゃない。元気になってほしくて、笑ってほしくて唱えてる魔法の呪文なんだ……もちろん、無理にとは言えないけど」

「……もっかい」

「……え?」

「もっかいやって」


 日和の顎が肩に乗って。耳元でそう囁かれる。


「……ああ、いいぜ」

「……えっへへ」



「痛いの痛いの、飛んでけ!」

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