洗脳
美来くんは、謝ったらすぐに許してくれた。
「ごめんね、飲んでたからつい言い過ぎちゃって」
って、優しく抱きしめてくれた。
「じゃ、スズ頑張ってね」
「うん!美来くんも」
美来くんのアパートから一緒に大学へ行き、3号棟の前で別れた。
一限目から講義が詰め詰めな月曜日。
ピアノばかりの授業じゃない。
必修の科目もあるし、選択の科目ある。
総合A棟の5階の講義室は大きくて、色んな学部の人が集まってくる。
心理学の授業。
この先ピアノを職業にするとして、心理学は必要な気がした。
意味不明
難しすぎて何言ってるかわかんない
無理
2カ所あるドアを開けると、大きな4面のホワイトボードに向かって扇状に下る形の講義室。
何席あるか知らないけどすんごい広い。
先生はマイクで話すし、あんま後ろすぎるとホワイトボード見えない。
心理学を受ける学生で、もう三分の二は埋まっていた。
友達同士楽しそうな人が大半。
でも一人の人もいる。
「よし…」
密かにガッツポーズで気合いを注入。
下を向かず
机と机の間の下る階段を
堂々と
一人ですが何か?
一席空けて座れる席をみつけ、そこに座った。
リュックを下ろしノートとテキストを出して、フフンと足なんか組んでみて、スマホをタップ。
『おはようございます』送信
ブブブ
『腹減ったね』
本当に秒で返ってきた。
『まだ朝ですよ』送信
『今日は社食の限定定食のために朝食抜きなの』
『美味しそ~!』
そんな、なんの内容もないようなラインをしてくれた。
仕事中だと思う。
なのにちゃんと返ってくる。
だから私は、堂々と一人で座っていられた。
先週までがウソみたいに別にぼっちでもよかった。
世界が変わったみたいに、授業が頭に入って
指がスラスラと
鍵盤の上を踊った。
「いいですよ青井さん
音にはっきりと迷いがないですね」
「ありがとうございます!」
フフン
褒められちゃったけど何か?
こんなに楽しかった日はなかったかもしれない。
あんなに苦痛だった大学が平気だった。
.
「うわ!美味そうなにおいする~」
帰ってきた美来くんは、狭いキッチンをのぞき込んだ。
「あ、でもレトルトだから
味付けたのは私じゃないけど」
「麻婆ナスまじ大好き」
「ほんと?美来くんナス好きだから
好きかな~って思ったんだ」
「なんか楽しそうだな、スズ」
「うん!今日はちょっと楽しかったの!」
ご飯と麻婆ナスだけ。
家だったらもっとおかずあったな。
お汁と小さなおかずと…って
むしろ麻婆ナスは小さなおかずポジションだった気がする。
「スープもあったらよかったな」
「あ、うんそうだよね
ごめんね、今度は作るね」
ん?なんかモヤる。
美来くんは美味しそうに食べてくれた。
自炊はあまりしないけど、一緒にご飯を食べながら今日の話をするのは楽しい。
「パネル描いてるやつあったじゃん?
あれが明日には出来そうでさ」
「うそ!早いね!」
「出来たら写真送るね」
「うん!楽しみ!」
「スズは今日どうだった?」
「今日はね~、柚木教授の授業だったんだけどね」
「マジ?スズあの教授嫌いだっただろ?」
「大丈夫!頑張ることにしたんだ~」
「ふーん…」
「美味しいね」
「うん、まぁまぁ」
夕飯を食べて片付けて、洗濯を干していたら美来くんはキャンバスに向かっていた。
色んな色を重ねて、ジッと見たかと思ったら離れて眺めたり、そうかと思ったらパレットの上に色を作ってそれをまた重ねる。
集中してるみたいだったから、こっそり帰ろうと思った。
「スズ帰るの?」
「あ、うん
ごめんね邪魔した?」
「泊まってよ」
「でも美来くん描きたいかなって思って」
「今日はスズと寝たい」
腕を通したリュックを美来くんは床に落とし、始まりの優しいキスはなく、べたべたに口を覆った。
流行のオーバーサイズのTシャツは乱暴に引っ張られ、デニムのショーパンはホックも外さずにずり下げられた。
何の前触れもなく、思わず息をとめてしまうくらい痛みが走った。
「俺が好きなやつ
いいって言うまでやって」
「うん…」
苦しくて苦しくて
涙が出る
吐かないように我慢するのが精一杯
「泣くほど気持ちいい?
スズはホント好きだね俺とするの」
なんか怖い
いつもと違う
「スズには俺しかいないだろ?」
「美来くんしかいない…」
痛くて痛くて
だけどやめてなんて言えない
美来くんがいなくなったら
私、生きていけないんだもん
美来くんの速い呼吸が収まるのを、痛みを我慢してただじっと待った。
それさえも悟られないように、美来くんの息に合わせて。
「顔、こっち」
顔を上げると、生ぬるい何かが降りかかった。
「スズ…ずっと俺といてね
俺しかいないんだから、スズには」
「うん」
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