シヨリン式
紫陽_凛
2025/04/06 お察しの通りこれは日記である
フォロワー様の自主企画「創作論ポータル」に参加しようと思って重たい腰を上げたが、企画が終わったのかそれとも消したのか見当たらなかった。残念。
商業化、書籍化したい人のための創作論ポータルと銘打っていたので、底辺商業作家(仮)の言葉なんて誰も要らんじゃろ……と思って足踏みしていたのがいけない。思いたったら即行動するべきである。肝に刻む。
・・・
【もしあなたが商業作家になりたいと思ったらまずデビューし、一冊の本を出さなければならないし、デビューが決定したとしても自転車をこぐように次々安定したペースで原稿を書かなければならない。自転車がこげて初めてプロになる。】
これは私があなたがた(読んでいるあなたがたのことである)がもしそうであれば、というつもりで書いたのではなく頭の中のデッカイ掛け軸の言葉を大声で読み上げたに過ぎない。そう、自転車をこげていないのだ、私は。デビュー作という名のチャリにまたがったままペダルを踏み出せない弱々しい作家なのだ私は。ほんらいこんなクソたるい日記など書かずに原稿に向き合うべきなのだ、がははは!
実のところきのうまでは踏ん張って書いていたのだけど、労働に忙殺され、今日は深くまで考えられない。GPTに設定を壁打ちする元気もない。ひとまず文字だけでも打っておこうかと思って日記をしたためているだけなのだ。文章書いておかないとなんとなく落ち着かない性分で。そのため特定のフォロワーからよく「目がバッキバキ」とか「目がぐるんぐるんしている」とか言われる。失礼な。至って正常である。
編集者さんとの原稿のやりとりがあったとしても、返信待ちの間に短編を三本書いたりする。「短編じゃなくて別の長編のプロットでも練ってろ」ってそりゃそうだ。プロになるための
文章書きとしての歴を単純に考えるなら十七年目、最初の十年くらいは黒歴史だ。ものになったのはこの七年くらいの間になる。この間に何があったかというと、「書きたいものを書く自分」から、「(他人に)読ませたいものを読ませる自分」に変化したのが大きい。
実は物語を書くという営み自体は自分自身の中で完結する非常に孤独なものだが、そこに読者という客体が登場すると話は別になる。これは実に高等なコミュニケーションだ。これは物語の共有というよりも、「物語にあらわされたなんらか」の共有の話になってくる。物語を「書いてあるとおり」に受け取る人はまずいないと思ってくれていい。人の数だけ物語は増えていく。ぶっちゃけ誤読もある。しかし誤読する自由もあるし、解釈する自由もある。それが読書の営みというものだ。
――なのでシヨリンのスタンス的には「どうとってもらってもかまわないよ」が一番しっくりくる。常に【?】と書かれた穴の開いた箱の中に、りんごやゴリラやラッパを仕込んでは、触った人に「どう思います?」と尋ねるのが私のスタンスだ。
「これはりんごだね」という人もいれば、「ゴリラじゃねえか!」と叫ぶ人もいる。ラッパを握りしめて「これはへびですね」という人もいる。さまざまだ。
もしあなたがたが「どうしてもこの通りに読んで貰いたい!絶対この解釈でなければならない!」と思うのなら、試してみるといい。かなり難しい。それは詳細な解説になってしまうかもしれないし、一から十まで読者を操るだけの小説になってしまうかもしれない。かなり難しい。読書の営み自体を愛する人たちからはおそらくそうした小説は好まれないだろう。ページを繰り広げ、またもどり、読み直してまた戻ってくる。そうした指先上のことや読む順番のことまでは作者にコントロールできないではないか?
確かに、自分が伝えたいこと、伝えたい情景、伝えたいことばはあるかもしれないけれど、独りよがりはいけない。それがちゃんと伝わるかどうかを考えて見てほしい。そしてその「書きたいこと」を最も効果的に表せる方法は何かを考えながら書くと良い。
今日のシヨリン式
自分がどうではなく、「読者」に読ませたいものは何か考えよう。
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