第9話 独りじゃなかった

『……なぁ瑞花。頼みがあるんだ』

『突然改まってどうした?』

『もしもこの子が、葉鳥が、自身の力ではどうしようもないことに巻き込まれたその時は、助けてやってくれないか?』

『……何か視えたんじゃな?』


 瑞花さんの言葉に対して、父さんは曖昧に笑った。視えるってどういうことなんだろう。妖怪が視える、ではなさそうだ。もしかすると未来でも視えたのかもしれないけど、考えても分からないよね。


『……まったく、人間とはか弱い者じゃ。じゃが、お主の頼みなら喜んで引き受けよう。葉鳥が困った時も、お主らが困った時も、わしを呼んでくれたらいつでも駆けつけるぞ』

『ああ、ありがとう』


 すやすやと眠る赤ちゃんの僕を起こさないように、病室内は静かな会話と穏やかな笑顔に包まれていた。


 僕が瞬きをするごとに景色は変わっていく。初めて僕が寝返りに成功した時、初めて立ち上がった時、歩いた時、一人でご飯を食べた時、オレンジジュースを机にぶちまけた時、台所で水遊びしている時……。そのどれもに笑顔があふれていた。本当に穏やかな時間。


 ダメだ、この先の未来に行っては。この愛しくて懐かしい穏やかな時間が終わってしまう。そう考えるが、瞬きを止めることはできない。


 ある時、瞬きをしても景色が変わらなくなった。そこにいるのは小学1年生の僕。そう、この日の僕は、行ってはいけないと強く言われていた森に入ってしまった。鬼が出るといわれる森に、興味本位で入ったのだ。そうしたら見事に迷い、帰れなくなってしまう。とっくの前に日は沈み、時折葉のこすれる音がする不気味な森。


『誰か、誰か助けて……』


 精神的にも肉体的にも疲れ切った僕は、そう呟いた。その場にうずくまり、どれくらいが経った時だろうか、父さんと母さんが見つけ出してくれた。安心した僕は大声で泣いてしまう。鬼が出るといわれる森に子どもの泣き声が響き渡る。

 慌てて僕を泣き止ませるが、時はすでに遅かった。——鬼に見つかってしまっていたから。


 それからのことは思い出せないし、見ることはできない。気づいたら瑞花さんの腕の中にいて、父さんと母さんから引き離されるところだった。そう、ここで父さんと母さんが言うんだ。とても大切なことを。


『僕たちは見守ることしかできないけど、きっと近くにいるからね』

『私たちの可愛い子。幸せになって』

『『——葉鳥、愛しているよ』』


 どうしてこんなに大切なことを忘れていたんだろう。父さんと母さんは僕に独りじゃないって、幸せになってって、愛しているよって、確かに言ってくれてたのに。どうして僕は独りになろうとしたんだろう。幸せになってはいけないと思っていたのだろう。父さんと母さんに愛されてないって思っていたのだろう。


 ふっと世界が暗転した。真っ暗闇のあの悪夢の世界。


『——オマえのセイだ。おマエのセいでぼクタチは』

『おまエノせイデワタしたチハしンダ』

『オマエガコロシタンダ』


 黒い何かは父さんと母さんの声を使って言う。だけど、これは違う。これは僕が、僕と暗鬼が作り出した幻だから。本物の父さんと母さんはこんなことなんて言わないから。


「僕の大切なものを、大切な記憶を、勝手に奪わないで」


 そう呟くと、あの黒い幻は消え去り、真っ黒な世界は真っ白になった。そして、だんだんと真っ白な世界が遠くなっていく。


『思い出してくれてよかったよ。さすがは葉鳥と瑞花だ』

『ふふ、そうね。向こうへ帰ったら、葉鳥は独りじゃなかったってことがきっと分かるわ——』


 そうだね。今までも、これからも、僕は独りじゃない。父さんも母さんも、瑞花さんも、藤さんもイセさんまでいるんだから——。

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