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 座礁したクジラの骨の下に佇みながら、私は澪の姿を探していた。近所の公園、図書館、コンビニ、駐車場、澪と二人で出かけたところは全て探した。行動範囲の狭い私たちのことだから、しらみつぶしに場所を巡っていけば必ず会えるだろうと慢心していた。澪がいなければ私が息継ぎをできないように、澪も私がいなければイヤホンを外して外に出かけることはできないはずだと確信していた。しかしこの歩道橋には、一度たりとも澪を連れてきたことはなかった。忙しない道路と高速の間に無心になってぶら下がることが自分には必要だったのだ。

 だから、歩道橋がちょうど分岐するところの欄干に、澪の姿を認めた時は、自分の秘密基地が侵略されたことへの怒りではなく、ついに自分と澪の境界がなくなってしまったのだと諦めにも似た気持ちになった。

 道路を覗き込むような形で腰から二つ折りになって欄干にぶら下がった澪の背中は、土砂降りの中取り込むのを忘れられたシーツのように所在ない。

 澪。

 その力ない背中に呼びかけながら私は澪と同じ姿勢になってみる。道路では、赤やオレンジや白の光が、すり替わるように両方向に流れていく。

 横に顔を向けると、水浴び中にうっかり溺死したカラスのように、水滴を滴らせ続ける黒髪に覆われた澪の顔がある。触れたら、卑怯だ、と怒るだろうか。死んだカエルに触れようとしたら澪は怒った。触れても無抵抗と分かりきっているものに安易に触ることは干渉してはいけない部分に踏み込むことと同じ、無理やり汚いものを塗りつけるような、暴力と同じだということなのだろうか。数年前、祖母が亡くなった時、遺産分割がフェアではないと母と叔母の両者の間で揉め事が起こり、母は自分の死んだ母親に対する悪口を言っていた。「死んだ人のこと悪く言っちゃいけないのに。」とその時澪は独りごちていた。世の中、愛し合い恨み合い褒め合い貶しあい噂し合いながら人々は相互に関係を築いていく。片方が死んだらそれは成り立たず、一方通行の好意も悪意も、行き着く場を失いそれは世界の暗黙の秩序を狂わせる。だから、死んだ人の悪口はもちろん、懐古話さえ良からぬこと、それが澪の考えだった。

 澪、ごめんね。

 私は冷たくなった澪に触れた。澪の背後から抱き抱えるようにして欄干から離すと、まだ弾力のある皮膚に私の指が沈み込み、その感覚に鳥肌がたった。重力に逆らわず、しなだれかかってくる澪を背中におぶると、色を失った澪の唇が私の頬の間近にあった。

 戦時中、生き残った自分は腐乱死体を、その唇や傷口から湧き出る蛆や集ってくる蝿や強烈な匂いに何度も嘔吐しながらおぶって安置所まで運んだ、何往復もした、生き残った兵士は少なかったから、死んだ人の何百万分の一くらいしか生きているのはいなかったから何百回も往復しなければならなかった、その度に吐かなければならなかった、黒焦げのもあったし、とても人とは思えない、茹蛸みたいに真っ赤っかになってるのもあったし、抱き上げようと腕を引っ張ると粘液を滴らせながらずるっと皮膚が剥がれて何度試してもおぶれないものもあった、だから初めて助かる見込みのある少女をおぶった時、自分の顔の横にあるのは黒焦げでも茹蛸でも爛れたのでもなく、血潮の通った人間だと実感した時、どれだけ嬉しかったか。

 曽祖父の話を思い出す。私は、再び、澪以外の誰か、生きている誰かをこの背中におぶることはあるのだろうか。

 私は高速道路のおかげで雨が遮られる場所まで戻った。

 ここさ、澪来るの初めてでしょ。

 慎重にかがみ込んでから澪を濡れた歩道橋に横たわらせ、肩を撫でるようにして澪の服を脱がせた。澪が羽織っていたシャツの胸ポケットからプレイヤーが転がりでるのと同時に、澪の耳からもイヤホンが外れた。座ったまま澪の上半身だけを抱え起こそうとするが、澪はびしょ濡れのコンクリートに同化しようとするかのように重たく、うまくいかない。諦めて再び澪を仰向けに寝かせ、私も澪の薄い体に覆い被さる。澪の感触は、私にとてつもない安心感をもたらしたが、これを味わってしまってはもうこの先一生、この安息には巡り会えないと思って怖くなる。澪の肩に縋りつき、お願いだから置いてかないでと間抜けで、ベタで、役立たずな言葉を繰り返し、息継ぎをするように上を向くと高速道路を残して自分だけがぐんぐん落下していくように思えてまた澪にしがみつく。嗚咽が喉を穿って、私の視界も砕け散った。薄いガラスが何枚も何枚も現れて視界を覆うが、その度に割れて破片となり澪の裸に突き刺さっていく。澪の鎖骨の窪みに私から流れ落ちる涙が溜まる。もうあと少しでこの涙も乾ききってしまうのだろうか、このガラスの破片が突き刺さる先にあるのは澪の身体ではなく、歩道橋の地面で、私の涙は雨粒と同じように公平に吸収されてしまうのだろうか。

 私は再び澪の上半身を抱え起こす。首が座っていない、雨を吸収しすぎて重みを増した澪を引き止めておこうとその薄い肩を掻き抱くと、二人分の重さを受け止められなくなり私は仰向けに倒れた。視界が九十度回転する。軽い眩暈とともに、クジラの骨組みが視界に広がる。澪の髪の毛が、私の首に張り付く。澪を感じられて安心する気持ちもある一方、その感触があまりにも鮮明なことに戦慄している自分がいる。澪の背骨の窪みに自分の人差し指を走らせる。彫刻刀ですっと入れたように完璧な線だった。

 そのままの姿勢で、転がったオーディオプレイヤーを手繰り寄せ、左耳にイヤホンを差し込む。濡れた髪を耳にかけてやり、片方は澪の右耳に入れる。私たちの上下を行き交う自動車の轟音に負けないよう、かちかちとボタンを押して音量を上げる。

 ゆっくりと、苦しみをもって、サティのジムノペディが流れ出す。今この瞬間にもゆっくりと朽ちていっている澪と、まつ毛で涙を払い落とし続けることしかできない愚かな私をかろうじて繋ぎ止めていてくれる。夜が近づいて少し衰えた自動車の騒音を、片耳のサティの奥に聞く。

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ゆっくりと、葬って ハナダイロ @yaki_yaki

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