5
国道に十字にまたがる歩道橋を渡る。片手で冷たい手すりに触れると、指先が鈍く痺れた。風が私のスカートを巻き上げて、雨で髪が張り付いた首筋の上を吹き荒ぶ。道路には、さらに歩道橋に平行に首都高速が流れていて、大型車が灰色の煙を吐き出しながら走る。雨の中の高速は、座礁した巨大なクジラが横たわっているようだ。仲間とはぐれたった一人、砂漠のように熱い砂浜に打ち上げられ風化しそれだけ残ったクジラの骨組み。私はよくクジラの骨の下に逃げ込んだ。それは私を外気の棘から守った。クジラの骨の下に居る時だけ私は孤独を許された。振り込んでくる雨は私の頬が私の涙で湿る前に濡らしてくれた。騒音に耳を澄ませる。国道と高速道路に挟まれたこの場所に一人で立っていると、自分は忙しない時間の狭間で宙ぶらりんになっていると思う。上下で行き交う時間の摩擦を受けて、私はこのまますり潰されるのだと思う。傘を閉じてクジラの骨の下に佇む。私はそうしている間は、何の制約も受けない感情でいることができた。雨に叩かれ裏側が熱を帯びた頬を冷えた両手で包み込み、孤独を味方につける。そうすればもう私はちっとも寂しくない。自分が世界にひとりぼっちなのだと確信している間は甘やかな気持ちになれる。孤独をものにすることとは孤独に依ること。自分が孤独にさえ見放されていると思う瞬間ほど辛いことはない。私は孤独を自分の中にしたためておきたい。
「そっちにはさ、学校も友達も私もいるじゃん。こっちにはなにも残ってないよ。こっちはそっちの愚痴でさえ吐く相手いないんだから。」
澪は常に孤独をものにしたがっていた。澪の孤独とは、物理的に一人になることだ。だから澪はよく私を拒否した。そうしておきながら、私にはそれを許さない。孤独は誰にもあげない。澪は孤独がどれだけ甘やかな気持ちをもたらしてくれるかを知っていたからだ。寂しさも涙も怒りも死も全て自分のもの、そっちには渡さないから。澪はそう言わんばかりだった。しかし孤独がもたらす頬の湿りは私の心も潤したから、私は澪からそれらを奪いたかった。自分だけが浸るな、気に食わない。
澪が携えていたのは絶対的な孤独だった。一種の驕慢だ、痛々しい。けれど孤独が自分だけを取り巻いていると信じて疑わない澪の自意識の過剰ささえ羨ましいのだ私は。私の孤独は相対的なもので、周囲の人間が飼い慣らしている孤独や不幸によって常に姿を変えた。私はその度に苦しんだ。私は澪のように物理的な距離を孤独と捉えるのではなく、精神的な孤立を孤独と捉えるようにした。澪を取り巻いているのは他人の接近で簡単に破壊できるやわな孤独だ。頑固で単純な澪は愛おしい。そう思うことで私は澪に勝っている気分に浸る。こんなことを話したら、人からは不幸体質だと笑われるだろうから誰にも言わない。澪にはなおさら。だから私は無条件に頬を湿らせてくれる雨の中のクジラの骨の下が好き。
クジラは氷原に迷い込み、氷河の裂け目から差し込む一筋の光は細く頼りない。このまま私は暗い海の底に沈んで、息絶えるのだと錯覚する。冷たさに皮膚感覚が麻痺していくのに伴って、体の内側が熱く腫れ上がっていくのを感じる。隅々に膿が行き渡り、高熱でうなされた私の体はよまいごとを並べ続ける。
I字型の剃刀を手首の皺に沿って走らせると、皮膚の上に赤い点がふつふつと並んで浮かび上がる。小さな発疹のようだったそれらが、刃が肉に本格的に食い込んだその途端に滲み出し一筋の線を繋ぎ、しまいにはその線もどくどくと脈打ちながら決壊していくあの感覚は、奇妙な恍惚状態を引き起こす。膿が押し出されて私のよまいごとも止む。頭の芯の火照りも冷めていく。水面に浮かび上がってやっと私は息ができる。
澪がやったのだと言ったら親はなんだか悍ましいものでも見るような顔つきで再び様々な場所に私を連れて行って、様々な大人と話をさせられた。身体中を冒している膿を押し出すため、息継ぎをするため、そう説明したら頬をはたかれた。母はヒステリーに陥り、私の肩に爪を食い込ませそれって誰なのよそんなのいないわよあんたがおかしいのよあんたが自分でしたことなのよおと泣き叫ぶ。父は怯えるような目つきでそれを眺めているだけだ。カフカの、朝突然虫に様変わりしていた青年はきっとこんな気持ちだろうか。いつも通りの自分を、周囲は突然拒絶し始める。変わったのは自分ではなく自分を取り巻く世界の方だ、宙ぶらりんで心細い。彼には唯一、理解者の妹がいてよかった。こんな時に限って、澪は現れてくれない。澪が私のためにしてくれたことなのだから怒らないで欲しいと言うと、母は私を突き飛ばしてこっちが限界なのよと夜なのに家を飛び出して行った。でもまあ、手ぶらだったからすぐに帰ってくるだろうと思う。
自室に入ると、澪が両耳にイヤホンを差し込んだまま、定位置にうずくまっていた。
澪。
呼びかけると顔を上げる。
「修羅場だったね。」
まあ、ちょっと。なんか怖がらせちゃったみたい。
澪は端によって私のためのスペースを空けてくれた。永遠にジムノペディを聴いていると、心地よい倦怠感に包まれる。酔うとペシミストになってしまう母のくぐもった泣き声を、明け方のサティの奥に聞く。
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