第2話 我が名はゼロ
◆
「――《
空気が震え、空間が歪む。
一瞬、色が失われたように見えた。風も、音も、気配すらも消えたような静寂。
まるで――世界から切り離されたような感覚。
そして、その中心には、漆黒の外套をまとい、仮面をつけた男が静かに佇んでいた。
「……っっっぶは!!」
最初に笑ったのはミナだった。
驚きではない。恐怖でもない。
それは――ワクワクを抑えきれない、爆発的な喜び。
「ちょっ……ちょっとぉ!? え!? マジで!? うっそ……アレ、ホンモノじゃん!!」
口元に手を当ててガクガク震えながらも、ミナの目は異様なほど輝いていた。
口角が、自然と釣り上がる。
瞳孔が、わずかに開ききる。
「うわ、え、ヤバ……やっっっば……!」
いつものようにいたずらを仕掛ける時のミナの笑顔――
それとは、まるで違う。
まるで猫が、気まぐれに本気で狩りを始める直前の、あの目。
いや――獲物を見つけた、女の目だった。
そんなミナの発狂寸前のテンションのすぐ横で――
リリィは、ただ、茫然と立ち尽くしていた。
「……ゼロ様」
口が自然と動いた。
思考の前に、心が先に動いた。
リリィの紫の瞳が、わずかに震える。
頬にかかる銀の髪が風もないのに揺れて見えたのは――
彼女の心が、嵐のように波立っていたからかもしれない。
(ゼロ様が……来てくれたんだ……)
今まで幾度となく現れてはリリィを守ってくれたのは――
ほかではなく、このゼロという仮面の男だった。
胸がぎゅっと締めつけられる。
安心でも、不安でもない。
それは、好きという感情が限界を超えた時の――心臓が悲鳴をあげるような、熱い痛み。
リリィは両手を胸の前で組んだ。
知らず知らずのうちに、祈るような仕草になっていた。
(また……私を、助けに来てくれたの……?)
それは、質問というより願望だった。
恋する乙女なら、きっと抱かずにはいられない――そんな幻想だった。
しかし、この瞬間、それが紛れもない現実だった。
「……なんて、圧だ」
その姿を目にした瞬間、ジークの背筋に電流のような緊張が走る。空気が変わった。いや、空気すら震えているように感じた。
まるで、世界そのものがあの男の存在を中心に回っているかのような――そんな錯覚すら覚える。
痛む脇腹を押さえながら、ジークは木にもたれ、荒く息を吐いた。
血がにじむ口元をぬぐい、それでも彼は、立ち上がることも忘れて――ただ、あの仮面の男を見つめていた。
「化け物かよ……」
言葉が震える。自分でも情けないと思う。でも、それ以上に、口から漏れたその言葉は、紛れもない本音だった。
「我が名はゼロ――世界の執行者である!」
低く、静かに。それでいて全てを断罪するような声が空気を裂いた。
その瞬間、ゴブリンジェネラルの小さな目が見開かれる。
本能が叫ぶ。逃げろ、と。
ずしん、と地を揺らして半歩、後退した。
「ギ……ギギィ……?」
声が震える。呼吸が乱れる。
正体も知れぬはずの人間一人に、己の体が怯えていた。
凄まじいほどの威圧感。
まるで自分という存在そのものが、否定されたかのような感覚。
自らが築き上げた“力”のすべてを、瞬時にして押し潰されたような錯覚。
「ギギアアアアアアアアッ!!」
だが、次の瞬間――
その恐怖が、ゴブリンジェネラルの原始的な怒りを燃え上がらせた。
突如として、屈辱が脳内を焼き尽くす。
怯えたことが、許せなかった。格下のはずの人間に、膝を折りかけた自分を。
咆哮と共に、巨体が跳ねるように前へ出る。
握りしめた斧を天に掲げ、全身の筋肉を爆発的に駆動させて――
ゴブリンジェネラルは、渾身の力で斧を振り下ろした。
それはまさに、“砕く”というより“潰す”ための一撃。
「――《
その言葉と共に、ゼロの右手に揺らぎが走る。
まるで空間そのものが滴り落ちるように――漆黒の刀が、静かに
それは光を放つことも、影を作ることもない。
ただ、存在するという事実だけが、場の空気を一変させた。
次の瞬間、ゴブリンジェネラルの渾身の一撃が炸裂する。
大地が裂け、空気が震え、轟音とともに地面が陥没する。
土煙が巻き上がり、視界を完全に覆い尽くした。
「ギギアアアアアアアアア!!」
ゴブリンジェネラルは勝利を確信していた。
あの異様な仮面の男を、この手で叩き潰したという、圧倒的な達成感。
だが――
「ギ、ギィ……?」
土煙の中、違和感が芽生える。
手応えが、軽すぎた。
斬り裂いたはずの感触が、あまりにも希薄だった。
やがて、風が煙を払う。
そこにいたのは――無傷のゼロだった。
「……その程度か」
低く、冷ややかな声が響く。
ゼロは片手で漆黒の刀を構え、まるで一歩も動いていなかったかのように、斧の刃を受け止めていた。
斧と刀がぶつかるその一点だけが、時を止めたように静止していた。
「ギィ……ギギギギギィィ……ッッ!!」
ゴブリンジェネラルは、もはや理性を失い、無秩序に斧を振り下ろし続けた。
怒り、恐怖、屈辱――その全てが入り混じった無力な暴力が、ただ無駄に空を切る。
だが、それらはすべて、ゼロの刀が描いた完璧な軌道によって、無情に弾き返されていった。
「終わりにしよう」
ゼロの静かな言葉が、耳の奥に響く。
「ギ、ギ……ギィイ……?」
ゴブリンジェネラルの動きが止まる。
その言葉が、恐怖を何倍にも増幅させた。
だが、もう遅い。
気づいた時には、ゴブリンジェネラルの視界が反転していた。
あまりにも突然で、意識が追いつかない。
疑問が湧く間もなく――ゴブリンジェネラルの頭が、胴体から落ちて地面に転がったのだった。
◇
リリィは、目の前で繰り広げられた衝撃的な光景に、ただ呆然と立ち尽くしていた。
頭の中が真っ白になり、言葉も出ない。驚きと恐怖、それに加えて、言葉では言い表せない感情が胸の中で膨らんでいった。
ゼロが振るった漆黒の刀は、あたかも最初から存在しなかったかのように、静かに消え失せていた。
「……風が、泣いている」
ゼロの低く静かな声が、空気を震わせるように響いた。
その言葉が何を意味するのか、リリィには分からなかった。ただ、胸の奥にじんと染み込むような響きを残す。
理解はできない。けれど、ゼロ様の口から発せられたその言葉には、きっと深い意味があるに違いない――そう信じて、リリィは必死に思考を巡らせる。
しかし、次の瞬間、現れた時と同じように――
ゼロは音もなく、闇へと溶けるように姿を消していった。
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