第13話 トレーラーとジュライホテル
正午まえにアランヤプラテートにつく、先にとっていたホテルにもどる。フロントにはとくにあやしまれていないようだ。部屋の鍵を受ける、昔ながらのガラスの棒に部屋番号がついている鍵だ。
私とジューンはツインの部屋にはいると言葉もかわさず風呂にもはいらず、お互いのベッドにはいって熟睡した。
起こされたのはひとりシングルで寝ていたはずのノックが扉をたたく音だった。
ノックは今すぐに出かけられる完璧なアウトフィットだった。この女はいつ寝ているのだろう。私は昨日の服のまま、ジューンも変わりはない。急いで歯をみがき顔をあらう。服はそのままでいい。
ホテルの外はまだ明るかったが、懐中時計をみるともう夕刻だ、緯度がひくい国ではこんなことがよくある。でも三、四時間は寝られたので体力は回復していた。
私たちはまた昼に帰ってきた道を北にもどり、商品の受け渡し場所へむかった。
そこはかつてカンボジア難民のキャンプがあったところであり、ジューンとノックが少女時代をすごした場所に近かった。
サッカーのフィールドが二面はとれる空き地につくと、ノックはそこまで乗ってきたソンテウをかえした。エンジン音が消えて、ヘッドランプのあかりが遠ざかるとこわい闇がおそってきた。
私はほとんど手の先も見えないくらいくらいの騒ぎなのだが、ジューンとノックは夜目がきくようで落ちついている。
ウシガエルの声となにかわからない昆虫の音がする草原に五分もたたずんだろうか。
ジューンがなにかを見つけて、ジッポのライターを点けて左右にふる。彼女のジッポは皮肉なのかベトナム戦争の米兵のアンティークだった、イタリアの高級ブランドのシャツと同じくらいの値段だ。
彼女たちが気づいて数秒後に私にも小さなあかりが見えた。近づいてきているようなので、気を引き締めるが、ジューンとノックはまだくつろいでいる。
小さく見えたあかりは二トンくらいのトラックかと思ったが、距離が異常にとおかったのだ。あかりが近づくにつれ強力になり、目の裏が灼かれるようだ。数百メートルに近づくのに十五分もかかった。
ちかくで見るそれはトレーラーヘッドだった。うしろにシャーシと二十フィートコンテナをけん引している。
トレーラーというのは、かなり古いが『オーバー・ザ・トップ』という映画で、シルベスター・スタローンが演じる離婚されたが息子をおもうアームレスリングの選手が運転していた。アームレスリング、日本語だと腕相撲になってしまうが、アメリカでは賭けの対象になっていてとても熱いたたかいが描かれる。
トレーラーヘッド、つまりシャーシやコンテナを曳いていない状態では、頭でっかちで恰好がよくないが、その馬力は四十フィートまでの満載のコンテナとシャーシを引っ張れるくらいに強い。そのヘッドに二十フィートコンテナが曳いてある。
そのトラクターヘッドが私たちのいるくさはらに曲がってくると、まるで胴体のようなシャーシと二十フィートコンテナがぐにゃりと物理法則を無視したような曲がりかたではいってきた。爬虫類のようだとおもった、恐竜がいた時代のワニとかこんなうごきをしたのではないか。
運転手と助手は無言でおりて、シャーシの取り外しをする。
あたまのほうのトレーラーとしっぽのほうのシャーシの連結を解くのだが、ヘッド側にはカプラー、シャーシ側にはピンという、南京錠のお化けのような鍵があるので、大の男が二人で汗がでる、まあ夜でも暑いこの地域のせいもあるが。
私は蚊が気になっていた、マラリアもある場所だ。
なぜかジューンとノックは平気な顔だ。日本人の血がうまいのか、たまにはちがう味がいいのか、私に蚊が集中する。蚊やりに今はあまり吸いたくないタバコに火をつけた。
カンボジア側からの運転手はけっきょくなにも言わずにトレーラーヘッドだけを運転してかえった。残ったのはシャーシと二十フィートコンテナ一本だ。トレーラーがじゅうぶんはなれてから、ジューンがサブバッグから非常用の懐中電灯を取りだした。
その懐中電灯はおそらく軍用品で強い光源をもっていた。それで空中に何度か合図をおくる。暗闇に目がなれたせいか、今度は私も遠くのひかりをみつけられた。ホテルで私とジューンが寝ているあいだにノックが手配したであろうトレーラーヘッドがきた。運転手はありがたいことにタイ人だ、言葉が通じるのは安心する。
トレーラーヘッドとシャーシを連結するのは私も手伝った、さっき見てわかった範囲だけだが。ヘッドの助手席を倒すとかなりひろい二列目の座席があった、ジューンとノックがここに座り荷物もおく。私は助手席だ。
運転手がトイレは大丈夫かと訊いた、壮年で口ひげを生やしたごつい男だ。
「しばらく休憩はないぞ」
イサーン訛りのタイ語で念をおし、ギアを一速にいれた。腹のしたから響くようなエンジン音が吹きあがってくる。
トレーラーというのは、おそろしくつよい動力で、自重より長く重いシャーシとその上のコンテナを運ぶ。
私はトレーラーに乗ったのは初めてだったが、運転手の気配りが乗用車とはちがった。
まず停止から十キロに加速するのにとても時間をかける。また右左折では充分に前後をみる。ブレーキは数百メートルまえからかけないと効かない。何十トンという被牽引車をひくとこれだけ気をつけないと運転できない。
彼はウボンラチャタニからきたヌンと名乗った。ヌンは一という意味だ、日本人からするとずいぶん簡単な名前だが、これはチューレンというタイ人のあだ名である。
ジューンやノックも本名ではない。ウボンラチャタニはタイ東北の都市で、むりやり日本で例えるなら仙台か、どちらも私は行ったことがないが。
ヌンがしばらく休めないと言った意味はすぐにわかった。二十フィートコンテナを牽引したトレーラーが入れるガソリンスタンドがすくないのだ。
国道に入って二時間も走ったか、ようやく大きいスタンドに駐める。給油はまだ必要ない、トレーラーヘッドのガソリンタンクはおそろしく大きい。
私とジューンとノックは萱でつくられた東屋に腰をおろしてひと息ついた。ヌンがインスタントの紙コップのコーヒーに砂糖の小袋とクリープをたくさんもってきてくれた。
私たちはありがたくたっぷりと砂糖とクリープを注いで、プラスチックの混ぜ棒をつかう。インスタントとはいえ、タイ国内にかえってきた安堵もあり、コーヒーのにおいが絶妙だ。
ヌンは会話が聞こえないていどに離れてコーヒーをのんでいる。ジューンが、
「まあ、無事にかえってこれたのはよかったな」
と口をひらき、コーヒーで乾杯するような手つきをした。私とノックもそれにあわせる。
気温も高いが、熱い紙コップのインスタントで甘いコーヒーはうまかった。脳みそがリラックスする。ノックが、
「どうする、見てみるか」
「このへんではまずいだろう」
と私、とりあえず自分たちのテリトリーまでもどってから、積み荷は検品することにした。清潔なトイレで顔をあらって、歯もみがく。すっかりさっぱりして車にもどる。
セダンならその夜中についただろうが、トレーラーがバンコク近郊にはいったのは翌朝の早朝だった。私は早起きなので、助手席でぐっすり寝たあと四時にはおきた。
うしろの二人は熟睡だ。サムットプラカンというバンコクの南東に位置する県の港町にトレーラーは駐まった。やはりなにもない空き地だ。
車の駐まった気配にジューンとノックもおきる。皆で空き地におりて躰をのばす、関節がばきばきと鳴った。
運転手をかこむような立ち位置で、シャーシのうえのコンテナのロックをあけさせる。
なかにはおが屑と木箱がいくつか固定されている。バールのようなものをジューンが駆使して箱をあけていく。なかにはさらにおが屑がはいっていたが、小銃やライフル、拳銃など注文どおりの商品が確認できた。
運転手はそそくさとトレーラーヘッドを切りはなして、不格好なヘッドだけでかえっていった。
私たちとの相対取り引きにあらわれたのは中国人、たぶん広東人だ。このあたりの大陸人は、貼りついたような笑顔をする。日本人やタイ人のような含羞をふくんだかんじではなく、百パーセント営業用の貌をもっている。
「これがそうかね」
ホテルからトムに事情を説明し、不承不承の彼に私が自分とジューンで責任を取るという条件で華僑との連絡を頼んでおいた。
頭領ふうが言って、部下に中をあらためさせる。頭領はあいかわらずの笑顔を私たちにむけている。ここでコンテナの中がおが屑だけだったら、私たちの身が危険だった。
広東人は七、八人の男だけのグループで我々より強力な火器を身につけているはずだ。それこそ私たちがはるばるもってきたウージーの自動小銃くらいありそうだ。
副官ふうの男が耳うちし、頭領がうなづく。借金取りがもっているようなセカンドバッグから札束をとりだす。やはり五百バーツの旧札だ。これをプラスマイナスで言うと、コストは回収されて、余剰利益はトムにいく。しかも在庫をもたないよい方法だ。
リスクとしては、あきらかにヤワラートという中華街のマフィアにかかわってしまった点、今まではぎりぎり守っていたタイの法律をやぶっている点だ。
関税法や銃刀法など、トムはタイの国内法をまもることを大切にしていた。それはたしかに褒められたビジネスではないが、ルールにはしたがっていた。今回の取り引きはあきらかに異常値であり、彼の美学から逸脱していた。
華僑たちは運転手も中国人のトレーラーヘッドで、シャーシごとコンテナをもっていった。
ジューンがふだんあまり吸わないタバコに火をつける、クロンティップという地元の強い紙巻きタバコだ。二、三服ふかして、ノックにわたす。ノックは一口ふかくすって、私にくれた。タバコを受けとる指がふるえた。
私たちは無言のまま大通りの方角へと空き地をあとにした。じわじわと心地よさがはい上がってくる、もう安全だ。光の列にむかって歩いていくと国道にでた。国道沿いにすこし戻るとバス停があった。
バス停に併設されたユーカリの木材でできた簡易なサーラーとよばれる東屋でバスをまつ。長距離バスではなく、バンコク市民の足になる普通バスの路線だ。バスはすぐにきた、幸いに空いていた。
二人がけに私とジューンが、一人席にノックがすわる。おばちゃんの車掌がカチカチと小銭とチケットをいれる鉄製の円柱状の箱をならしてくる。私が小銭をさがすまえにノックが三人ぶんを終点まで買ってくれた。
窓際のジューンの目がもうとじかけている、私も眠気にはさからえなかった。
つぎに起きたときにはもうバスはバンコク都内をはしっていた。タイの県を日本語に訳すとき、バンコクだけは都ということがある。たしかにバンコク県では間がぬける。
水門というタイ語のプラトゥーナムにちかづく、窓外のショッピングセンターに郷愁をおもえる、ふだんはあまり来ないが。
バスをおりてタクシーにのりかえる、不愛想な運転手もなつかしい。まずはノックをカオサンまでおくる。
ノックは肌の色は暗めだが、それでもすこし青い顔をしている。ジューンはまだ血色がいい、私もそれほど疲れていなかった。これからジューンと二人で中華街のトムに報告に行かねばならない。
乗ってきたタクシーにそのままヤワラートへ行くように指示する。七月二十二日ロータリーのまえのジュライホテルでおりる。
古いエレベーターで八階へ、トムの部屋をノックすると、
「おう」
と応えがあった。なかにはトムのほかに中国人ふうの壮年の男がいた。こいつも貼りついたような笑顔だ。
ジュライホテル七階の食堂から椅子がはこびこまれており、トムとおそらく広東人が上座にならび、私とジューンが対面にすわる。
これも食堂からはこんだテーブルに紹興酒とグラスが四つおいてある。ろくに寝ていない夜のつづきの朝から紹興酒は迷惑だったが、かたちだけ乾杯する。
七階の食堂というのは、私がタイにきたばかりのころに洗礼をうけたが、長老とよばれる長期滞在日本人の巣窟だった。
当時はまだ、「俺は難民キャンプでボランティアをしていた」といった世代の男たちがいた。女性はまったくいなかった。マッチョなかんじで私は苦手なタイプだったが、終らない酒宴につきあったりもした。
そういう男たちとはべつに、会社員のリタイア組もいた。いまのタイでリタイアというと悠々自適みたいな印象があるが、ジュライホテルのリタイアは、どちらかというと日本社会からのドロップアウトという人たちだ。
私のような旅行者も出入りしていたし、とにかく雑多な出自の日本人がお互いの経歴や押し出しによって序列をきめて、最高会議が長老会と揶揄される七階の食堂で大きな顔をしている連中でおこなわれていた。
話がますます逸れるが、このしばらくあとにジュライホテルは閉鎖された。なぜ閉鎖になったかは謎のままだ、ホテルが閉まったあとも再開発などはぜんぜん無く、十年ちかく廃屋のビルになっていた。
いざ「ジュライが閉まる」と決まったときに、長老会議で三つの派に分裂したという。一つはあくまでバンコクに残ろうというグループ、彼らはカオサンやほかの日本人の溜っている宿場に行ったが存在感は霧散していった。
つぎにジュライくらいの値段のホテルと中華街の女の値段を重視したグループは、タイ北部の古都であるチェンマイ方面に移動して、その後の地域社会での地位をそれなりに築いていったようである。
もっとも先鋭的で若いグループがプノンペンを目指して、「カンボジアに行った日本人バックパッカーは必ずおとずれると言われた伝説の」、ホテルキャピトールでその黎明期をつくったそうだ。閑話休題。
中国人はジュライホテルの部屋で、貼りついたような笑顔に爛々とした目で商談にはいる。
「君たちの英雄的な活動に感謝する」
中国語は英語とおなじ主語述語形容詞の順なのであたまのなかで訳すときに、NHKの英語講座のようにきこえる。
その後の細かい話はトムが訳した、
「君たちとはトムをエージェントとして契約したい」
「支払いはトムにして、そこから割り前をもらってほしい」
「国境外のことは私たちはしらない」
この三点が主張だった。トムはもうすでに中国人がわで通訳をしており、私とジューン、ノックは請け負うがわの構図になっていた。それも不満だったが、三つ目の条件は非道いとおもった。
「カンボジアがわでなにかあっても助けてくれないんですか」
私は率直にきいたが、ジューンとノックからあちゃーという声がきこえそうな気配があった。その質問は無視された。
結局は私がトムの代わりをすることで落ちついた。つまり私のバンコクでの裏日本社会でのランクが一つあがり、トムはその集金チェーンからいち抜けたかたちだ。
その権力委譲のセレモニーは、ジュライホテルのトムの部屋に私が引っ越すことだ。
スクンビット通りのプール付きのホテルを解約して、はじめにきたときのホーキンスのバックパックに荷物をつめた。
金庫の拳銃二丁は、ジーンズのパンツのうしろに差した、ここがいちばん安全だ。銃弾の箱は、バックパックのうえに丸めて括りつけた寝袋のなかだ。
ホテルの支配人はいつものパリッとしたアウトフィットから、バックパッカーふうのいでたちになった私に瞬間、目をむいたがさすがプロで、にこやかな笑顔で清算をしてくれた。このひと月で二十万バーツ、六十万円もホテルに落としていたことに愕然としつつも、セカンドバックからキャッシュではらう。
いつも使っていたホテルつきのハイヤーをことわり、流しのタクシーにのった。
「ヤワラートまで、中央駅についたらあとは言うから」
なつかしい指示をだして後部座席で寝ようとしたが、ハイヤーはかるいジャズだが、流しのタクシーは高音のタイ演歌でぐったりとする。
フアランポーンと呼ばれる中央駅がみえたら、ジュライはすぐそこだ。直進すると泥棒市場だが、ほそい路地にはいってもらって、七月二十二日ロータリーにむかう。
七月二十二日はタイの戦勝記念かなにかであるが詳細はしらない。その名前のついたロータリーの正面にジュライホテルはあった。
当時はジュライのほうが有名で、ジュライロータリーでもつうじた。
一応説明しておくと、ロータリーは円形の道路で、イギリスで言うピカデリーサーカスなどのサーカスと同義だ。
つまり車はラウンドな流れに自由に出入りする。これは日本でみたことがなかったが、合理的な仕組みだとおもった。
ジュライホテルの一階は広い空間になっている。ロビー、と言えばきこえはよいが、クワイティヨという汁そばの屋台が我が物顔で道路に面した一等地で営業している。
その奥にがらんとしたコンクリ打ちっぱなしのすみにレセプションというのか、受け付けがある。あきらかにやる気のない男がすわっていて、私の顔をすこしみた。
そのまま古いエレベーターでトムの部屋の階にあがる。このエレベーターの古さはこのホテルの歴史をあらわすごとく、スムースなエレベーターに慣れている日本人の肝をひやす。昇降のはじめとおわりにガタン、と音がするのはエレベーターの仕組みを理解するには適しているが、静音モーターに守られている日本人はなかなかドキドキする。
エレベーターの出入りは自動扉でなく、乗り降りする人が木のとびらを開いて閉じる。昔のアメリカ映画のような蛇腹の木組みで、オノマトペでなくほんとうにガラガラと音がする。
昇降中のフェールセーフといった概念はなく、従業員などは扉を閉めずにのっている。私はもちろん閉めるが、蛇腹なので隙間から昇降機の内がわがみえる、意外に速くてこわい。
トムの居室のある六階でガラガラとおりて、扉に手をたたくタイミングで内側から扉がひらいた。
トムは無精ひげを剃りおとし、若者が好むブランドの開襟シャツにデニムのパンツ、足もとはなんとスニーカーだった。いつもより四、五歳はわかくみえる。なによりそれまでの厭世的なつめたい笑みではなく、あかるい笑い顔におどろいた。
「よう来たな」
と冷蔵庫から瓶のコーラをすすめる。
「ここの家電はそのままつかってええで」
トムの部屋には大きな冷蔵庫やテレビ、ビデオデッキとステレオなどがあった。電気ケトルやフライパンなども置いていってくれるそうだ。
「それでこれが鍵やで」
真顔にもどって鍵の束をわたす。
「どれがどれかわかっとるな」
私はざっと鍵たちの特徴をみて、車のキーや金庫の鍵などを確認した。トムに目顔で了解をとって、小型の金庫をあける。偽造パスポートやその他のビジネスに必要な書類が今までどおりに整理されている。私は、
「それじゃあ、これもどうぞ」
と背中からガバメントとリボルバーの二丁の拳銃をかえす。トムは手をふって、
「そんなもんはもうこわして川にでも捨てておけ」
「トムさんはこれからどうするんですか」
「ぼくは学生になるねん」
わざとらしい言いかたに思わず笑ったが、彼は本当にこのあと大学院に入学した。
タイ一等のチュラロンコン大学に併設されたサシン経営大学院で政治学を学ぶそうだ。
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