朧月
紫苑は、ため息をついて月を見上げた。最近彼はよくため息をつくようになった。
(なんだっけ。なんか忘れてる気がする。月を見たら思い出せる気がするんだけど…あの、月の…あ、今日の晩御飯は目玉焼きがいいな。)
思考の不自然な途切れに気が付かず、紫苑は手に持っていた本に目線を戻した。しかしすぐに、本に影が落ちて目を上げる。
「どうし…どなたですか?うちに何か用でも?」
男の姿を見て、紫苑は首を傾げた。彼が今いるのは、自室である。彼が見ていた月は、窓越しだ。つまり、男は紫苑に気づかれずに室内に入ってきたことになる。
(いや待て、なんだこの人は。っていうかこの人の影、急にパッと現れたよな?)
混乱の最中にある紫苑を眺めて、男は呆れたようにため息をついた。妙に態度が偉そうだ。
「私は月読命だ。知っているだろう。知らないふりはするなよ。」
紫苑は僅かに痛んだ頭を無視して、首を横に振った。彼の中ではすでに、知らない人だと結論づけられていた。
「いえ。なんのことでしょう、月読命さ、ん?神様⁉︎」
さらに混乱している様子の紫苑を無言で眺め、月読命はため息をついた。放っておくといつまでも混乱していそうだ。
「お前、もしかして覚えていないのか?橡のことを。」
紫苑はその声で現実に引き戻され、再び首を傾げた。口の中で橡、と怪訝そうに繰り返すが、すぐに表情を変えた。
「どうしてここに?」
月読命は、急な話題転換になるほど、と頷いた。紫苑の瞳は嘘をついているようには見えない。
「なるほど、忘却の術か。橡も考えたな。私の存在を忘れているようだが。」
呟いてふっと笑った月読命に、紫苑は再び怪訝そうな表情に戻った。だが、咄嗟の判断で押し黙る。
(どうしたんだ?…機嫌を損ねたら神罰とか降りそうだからなんも言えねぇ。)
紫苑が何も言えずにいる間に、月読命は紫苑の頭の上に手を伸ばした。そして軽く撫でる。次の瞬間、紫苑の意識は暗転した。
月夜に、儚げな少女が舞っている。その姿はまるで、天女のようだ。紫苑はその少女に見惚れていた。
(この人…天女みたいだ。)
決められた動作なのか、それとも不審に思ってなのか、少女が紫苑の方を向いた気がしたので、紫苑は慌てて隠れた。
少女は、布団の中で寝ていた。黙っているだけでも人形のようなのに寝ていて身動きもしないのでは本当に生きているのかと疑ってしまいそうになる。
(この人、さっきの天女みたいな人だよな。さっきの方が生気もあったし…どうしたんだろう。)
少女は一度も寝返りを打たない。顔が少し顰められているのが、生きている証拠とでも言えるだろうか。
少女は、妖に向かってただただ突き進んでいた。紫苑はいつの間にか、その隣で枝や妖を斬り払っていた。
(なんだ?体が勝手に動く…この人は、何をしているんだ?誰なんだ、この人は。)
少女は妖の口が開いた瞬間、紫苑に向かって札を放った。
「縛れ、はばめ!蔦の壁を織りなせ!」
凛と響いた呪文詠唱の直後、紫苑の体の自由が一瞬でなくなる。
(何を…仲間じゃないのか?なんでこんなことを…)
「紫苑さん。少しそこで待っていてください…私は、一人でやる。」
少女の紫苑の口が、勝手に動いて言葉を紡ぎ出した。
「…そうか。危なくなったら頼れよ。」
(違う、一人でやれるわけねえだろ、あんな強そうなやつ!何を言ってるんだ、俺は!)
少女の服はボロボロで、普通なら倒れてもおかしくない外見だった。
少女は悲しげに笑って札を掲げた。再び術を使うらしい。しかし妖の姿はもうない。
(逃げられた?追いかけるのか?でもなんで悲しそうに笑って…)
「とっくりやしは夢見てる。とっくりやしは夢見てる。ゆらら、ゆらら、夢見てる。夢を見ながらさびしかないの。夢を見ながらさびしかないの。とっくりやしの木。大きなやしの木。ゆらら、ゆらら、ゆらゆら夢見てる。香れや香れ、イワブキの花。」
紫苑の視界が真っ黒に染まった。しかしすぐに、少し暗くなったが視界が戻った。しばらく紫苑を見た後、少女は札を掲げた。
「この身は依代、穢れなき水面。この身に依て、穢れを払え。」
(嘘だろ⁉︎この人…まさか、命を代償にして…なんでだよ!)
少女から蛍のような淡い、小さな光が離れていった。ふわふわと漂っていたその光の玉は、しばらくして行方を定めたようにぴたりと止まり、スゥッと吸い込まれるように月へと登っていった。体の力がカクン、と抜け、少女は地面に崩れ落ちた。満月の清らかな光が、その小さな体を包み込んだ。
少女が月を眺めていた。紫苑はそれを見て、その儚さにはっと少女の名が口をついて出た。
「瑠…」
「前はそう読んでくださいと言ったので申し訳ないのですが、その名前ではなく、橡とお呼びください。」
森の中に、小さな女の子がこちらを向いて不思議そうな顔をしている。ばれた、と思った途端、手首を掴まれた。
「あなた、だぁれ?」
少し緊張しているような女の子に、紫苑は少し不貞腐れたような顔になり、ひょいと肩をすくめた。
「あーぁ。だれにもばれないようにきたのに。まぁいいや。おれはしおん。おまえは?」
少女はにこりと笑った。どうやら緊張が解けたらしい。
「わたしはつるばみ!ねぇ、しおん、あそんでくれますか?」
紫苑は息を呑んだ。その瞬間、頭に膨大な量の記憶が流れ込んでくる。
(そう、そうだ。この人は…橡だ。なんで忘れてたんだろう。忘れちゃだめだったのに。)
その名を思い出した瞬間、紫苑の意識は刈り取られた。
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