9.中途半端
事務所の前で、凪は深々と頭を下げた。
埼玉の東の外れ、江戸川を跨げば千葉県という場所にアルファ建設会社はあった。辺りは一面、ねぎ畑が広がっている。アルファ建設は、凪の会社が仕事を依頼し工事をしてもらっている、いわば元請けと請負の関係だ。仕事を与えているのは凪の会社なのだが、今日は凪がアルファ建設へ謝罪に訪れていた。
自分の工程管理や手配のミスを何度もした凪の部下である橋本が、それをカバーするためにこのアルファ建設会社に散々動いてもらっていた。しかしそれに対する施工費用を、彼は一切支払っていなかったのである。理由は、社内で自分のミスが発覚することを恐れたから、つまり隠蔽のためだった。
本来ならその張本人の橋本と一緒に謝罪に出向くべきだが、この件が発覚してからは体調不良を理由に一度も出社していない。入社十年で評価もされていた橋本に、凪は完全に任せていた。先日今シーズン開発の十棟の住宅を、旧図面で手配・施工を指示するという大きなミスが露呈し、芋づる式にこのアルファ建設への不払いも発覚したのだった。
凪は同期で上司でもある部長補佐の相原と、昨日は依頼主であるゼネコンに橋本が犯した大きなミスを謝罪に行き、今日は支払いが滞っている複数の請負先に手分けしての謝罪回りだった。
アルファ建設会社は凪が東京に来てから、八年の付き合いになる。担当の専務に、今回の件に関してまずは電話で謝罪した。
「そうなんだよ、おたくの橋本くん、何度催促しても全然金払う素振りないんだよ。ちょっと出るとこ出ようか考えてたところ。胡桃沢さん、気づいてなかったの?」
専務から冗談めかして、怒りをぶつけられた。当然といえば当然だ。未払いの額は、百万を超えていたのだから。きっと関係を考えて、今まで我慢してきたのだろう。
約束の時間にアルファ建設の自社ビルに入ろうとしたところで、現場から帰ってきた職人に声をかけられたのだった。
「あんたのとこの橋本、調子いいこと言って俺らをタダ働きさせようとしやがったんだよな」
話しかけてきた男の体は、熊のように大きかった。ぎょろりと目を動かし、凪をにらむようにじっと見た。
「申し訳ありませんでした」
相手の横柄な態度に嫌な予感を覚えたが、今はそんなことをどうこう言える立場ではない。凪はさっと頭を下げた。
「あんたに謝られてもなあ」
おおげさなため息をつきながら言う男は、五十過ぎだろうか。紺の作業着からのぞく肌は黒ずむほどによく焼けており、短く刈り上げた髪には白いものが混じっていた。
大抵の請負先は更に別会社へ現場の仕事を依頼するのだが、このアルファ建設は多くの職人も所属しており現場仕事もこなしている。話しかけてきたこの男も、現場職人の一人なのだろう。
「橋本の野郎は来ないの、何であんたが来るの。あんた、なめられてるんじゃないの」
「申し訳ありません、橋本は体調不良で出社しておりませんで。今回のことは課長の私の責任でもありますから」
「へえー」
腕組みをしていた男は顎を上下して、凪を値踏みするように頭から脚まで視線を動かした。
「上司、あんたがあいつの。へえー」
「ですから、あの」
「やっぱあんた、なめられてるんだよ。女が上司なんてやってらんないもん」
凪の頬がぴくりと引きつった。しかしこんなこと、今まで幾度となく言われてきた。影で、時には表情で。言い返したい気持ちを押さえて、凪は目の前の熊みたいな男をじっと見つめた。
「もしなめられたなら、それは私の単なる能力不足です。それに橋本の──」
「こっちもさ、謝罪に女を寄越されても困るんだわ」
凪の言葉を遮り、男が手のひらを顔の前で上下した。帰れの合図だ。
「気の強いのもいいけどさ、こっちからすれば女がキーキー苛立ってるようにしか見えないの」
凪の顔からさっと血の気が失せた。なにも言い返せずに目の前の男を見つめる。男はあごを親指と人差し指でつまんで、目を細めている。その指は太くて、あごに芋虫を這わせているようだと凪は思った。
「何でこんなとこへ謝りに来てるの。事務所でニコニコしながら、パソコン叩いてりゃいいじゃん。それか家で亭主のために飯作るか。女が役目果たせると思ってるのかよ、こんなとこへ謝りに来たって」
吐き捨てるように男は言い、再びぎょろりと凪をにらんだ。凪は震える手で、シャツの胸の部分をつかむ。
「失礼いたしました」
押し殺した声でそれだけ言うと、ヒールの音を響かせて会社の中に入っていった。
町田ユリカのように、責任のない仕事だけをしたいとは思えない自分。
千佳のように、家庭におさまりたいとは思えない自分。
男性と同じラインで働きたいのに、女性だからと出世の遅れる自分。
『女性なのにすごいね』としか評価をもらえない自分。
同じ女からは疎まれて怖がられ、男からは面倒くさがられる自分。
──だから結婚できないんだよ。
最終的にそう言われてしまう自分。
こんなこと何度も言われてきた。分かっている。それでも頑張ろうって決めて、ここまできたんだから。
男になりたいと思っても、なれはしない。
可愛い女になりたいと思っても、本当の自分がそれを許しはしない。
そんなことはもう、とっくの前から分かっているではないか──
「あれ、凪さんじゃないですか!」
小さくクラクションが鳴り、それと同時に明るく張りのある声が聞こえた。振り返ると道路の端に寄った白い軽ワゴンから、天野が顔をのぞかせた。青い作業着を腕まくりした手を、車の窓からのぞかせている。
「こんなところで、なにしてるんすかあ?」
「スカイツリー見てた」
「はあ?」
上野にある会社から歩いて二十分ほどの厩橋の上に、凪はいた。日が沈みかけた頃にここに来て、ぼんやりと橋の上から隅田川とその向こうの景色をずっと眺めていた。今は辺りもすっかり暗くなり、向こうに見える浅草の街並みに明かりが灯っている。スカイツリーも光り輝いていた。三連のアーチでブルーに塗られたこの厩橋も、ライトアップされている。その光が隅田川の川面に映し出され、ゆらゆらと揺れていた。凪は長いこと、その明かりをぼんやりと眺めていた。
「ちょっ、なんすかそれ」
天野は車から降りると、欄干に手をかけている凪に慌てて駆け寄って来た。
前に会った時よりも更に日焼けした顔からは笑みが消え、真剣な顔で凪を見つめていた。
「別に飛び降りようとなんてしていないってば」
「当り前じゃないすか!」
軽い冗談のつもりだったが、天野は怒りを含んだ口調で即座に返した。
そう、別に飛び降りようなんて思ってはいない。泣いてもいない。ただ少し傷ついただけ。
──女が、役目果たせると思ってるのかよ。
男性と同じように働きたいと思っているのに、私の「女性」が私の仕事の邪魔をする。だからといって家庭に収まることもできない。結婚相手を見つけることもできない自分。
自分の中途半端さを思い知って、ただ少し傷ついただけ。
「何でもないって、ホント」
天野の表情があまりに心配そうで、自分の中の傷ついた心が更にえぐれていく気がした。悲劇のヒロインになって、酔うのは嫌だった。軽く手を振って、天野を車に返そうとする。
「そんな何でもないって──」
天野が言いかけたとき、クラクションが聞こえた。振り返ると、一台のトラックが天野の軽ワゴンを避けて通りすぎていったところだった。
夜の始め、交通量の少なくない時間に橋の上で止まっている車など確かに迷惑だ。
「ほら」
凪が天野を車に戻るよう促す。それを聞き入れずに、天野は凪の手首を何も言わずに握った。日焼けして節くれだった大きな手で、力強く。あまりに自分と違うその手の大きさと力強さ、温かさに凪の心臓は一瞬跳ね上がる。
「乗って」
だから天野が半ば強引に、ワゴンの助手席に乗るよう車に押し込んでも凪は断ることができなかった。
天野は運転席にまわり、扉を閉めるとなにも言わずに車を走らせた。車は会社とは反対方向の、春日通りを東に向かって走っていく。
「天野くん」
一体どうするつもりかと凪が声をかけると、天野はちらりと凪を見て次の交差点を左折した。少し狭い道に入り、しばらくすると道のはしに車を寄せて止める。
「そんな顔してる凪さん、一人残して帰れるわけないだろ」
ギアをパーキングに入れた天野は、助手席の凪に顔を向けた。眉間にしわを寄せ、怒った表情。暗い車内で天野の瞳が外の街灯を受けてキラキラと光っていた。
「仕事してたら色々あるでしょ。そういうやつよ」
凪は顔を下に向けて天野から視線をそらし、小さく笑う。
やめてほしい、こんなこと。今までずっと、一人で乗り越えてきたではないか。なんでこんなよくあることで、心配なんかしてくれるのだ。放っておいてくれないのか。
こんな時に声などかけられたら──
天野が右手を伸ばし、凪の二の腕をつかんだ。温かい大きな手のひらの感触が、スーツとシャツを越えて肌に伝わってくる。凪は顔を上げて天野の顔を見た。
日に焼けた肌、少しつり上がった黒い眉、長いまつ毛に切れ長の目。とがった鼻に、豪快さを思わせる大きな口。
凪のすぐ目の前で、その全てがとても心配だと語っていた。
「無理するなよ」
「無理なんてしてないわ」
首を小さく振る凪の背中に、天野の右手が回され抱きすくめられる。広い胸板を隠す青い作業着が、凪の目の前にあった。一日働いてきた作業着からは、土の匂いと少しの汗の匂いと太陽の匂いがした。
天野の胸のなかで、凪はそっと顔を上げる。
「分かるよ、本当はそんなに強くはないこと」
そう囁いた天野のくちびるが、凪の口を塞ぐ。
「凪さんがそんなに強くないこと、分かってる」
天野はそう言って、もう一度凪に覆い被さるようにキスをした。凪もそれに答え、ゆっくりと手を這わせて天野の背中を抱きしめた。
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