8.自分だけは、なんて
晴臣が八月に仕事でシンガポールに行くのに、パスポートが切れているという。
彼女に会ったのは、パスポートの申請に必要な戸籍謄本をもらいに千佳が市役所に行った時だった。
朝九時の市役所はまだ人がまばらで、それが狙いだったのだが、だからこそ彼女が千佳の目に留まった。
「リョウくんママ!」
窓口に行こうとする千佳の前をゆっくりと、出口に向かって歩いていた彼女は足を止めた。そして黙って声をかけた千佳の方を見る。その顔に、千佳は思わず息を飲んだ。
ぷっくりとしていた頬は見事に痩せこけ、大きな瞳は生気を失いぎょろりとこちらを見つめていた。大きな口には口紅が塗られておらず、白く乾燥していた。みんなに『スライム』と言われた愛嬌のあるあの顔は、どこにもなかった。いつも肩上でまっすぐ揃えられていた髪は、顔を隠すように伸ばされ、櫛を通していないらしく酷く乱れていた。
「だい、じょうぶ……?」
思わず声をかけてしまったことを後悔しながら、千佳はリョウくんママに尋ねた。大丈夫かと聞かずにはいられないほどの、容貌だった。
「引っ越すのよ、来週。だから今日ここに来たの」
千佳の問いかけには答えずに、リョウくんママは口の端だけで笑った。驚きでなにも言えなくなった千佳に、話を続ける。
「秋斗くんママも聞いたんでしょう? うちの旦那の不倫」
この前千佳の家で、リョウくんパパとレントくんママが不倫したとみんなから聞いた。スライムみたいなリョウくんママから旦那を奪った、木村多江みたいなレントくんママの話。
千佳がなにも言えないでいると、それを肯定と捉えたリョウくんママが乾いた笑い声をあげた。千佳はぎょっとして息を飲む。
「みんな言いたい放題だったでしょう。バカな男だとか、ホントに身近でやられたんだねとか」
「まっ、まさか!」
千佳は激しく首を振る。朝の静かな市役所で、なにをとんでもないことを言い出すのだと慌てたが、リョウくんママのバカにしたような、演技がかった笑いは止まらなかった。
「そんな風に言うわけないじゃない! 私はリョウくんママのことが心配で!」
リョウくんママは笑いながら、目を細めて必死で抗議する千佳を見ていた。ひとしきり笑ったのちに、ようやく鼻を鳴らして笑いを止めるとまあねと呟いた。
「そうだよね、秋斗くんママは、お嬢様っていうかおっとりしてるもんね。ずっとそうだったよね」
「え?」
リョウくんママが何を言いたいのか分からず、千佳は眉をひそめる。ちらちらと興味ありげに視線を送りながら、数人の人が通り過ぎていった。
「みんなはね、好き放題言ってるのよ。面白くて仕方ないもん、自分の目の前で起きた不倫なんて」
「そんなことないって!」
「──でもね」
否定した千佳に、リョウくんママは即座に言葉を被せた。
「自分だけは違うなんてこと、ないんだから。そうやって人のこと笑ってたら、自分だっていつか痛い目見るかもよ」
リョウくんママのこけた頬に、冷ややかな笑みが浮かぶ。千佳はくちびるをきゅっと閉じて、息を飲んだ。
自分はこのリョウくんパパの不倫を、面白いなどとは思っていない。だけどあの場で盛り上がってたママたちを止めずに、一緒になって話を聞いていた。興味本意から全て聞いてしまったのだから同罪だった。
「ごめんなさい」
頭を下げる千佳に、リョウくんママは少し目を見開いたがすぐに細めた。パサついた髪の毛をさっと肩の後ろに払って言った。
「私、別れないわ。引っ越して、新しい土地でやっていくの。腹立つけど、旦那はATMだと思って割りきるわ」
この件で、リョウくんは不登校になっていると聞いた。息子のためにもきっとそれがいいのだろう。
「あの女はお金がなくてここから動けないらしいから、それこそみんなで好き放題言ったらいいわ。そしてみんなにも明日は我が身って伝えておいて」
そう言うとリョウくんママは、乾燥した白い手を振って出口へと歩き出した。
「あっ、げっ、元気でねっ!」
慌てて声をかけたが、リョウくんママは振り返らなかった。リョウくんママとは秋斗が幼稚園の時からの付き合いだから、もう十年以上になる。それにしてはあっけない別れだった。電話もSNSも、もうすることはないのだろう。
──自分だけは違うなんてこと、ないから。
自分がそんな目に遭ったらどうするだろう。
泣き叫んで、相手の女を罵るのだろうか。
晴臣と別れるのだろうか。別れて生活など、できるのだろうか。
いい男が現れて、都合よく自分が不倫する夢想はしたことがあるが、晴臣が不倫することなど考えたことがなかった。
──自分だけは違うなんてこと、ないから。
リョウくんママの言葉が、頭に貼りついたからだった。深い意味はない。戸籍謄本の申請をして、発行されるまでの待ち時間を使っただけだった。
「夫 浮気」と、スマホで検索して一番上のサイトをクリックしてみた。
これに当てはまったら要注意!
・急な残業や出張が増えた。
・休日出勤が増えた。
・スマホを手放さない。
・身だしなみに気を遣うようになった。
・夜の回数が減った。
軽い気持ちだったのに。千佳は口を手で押さえた。スマホを持つ手が震える。
──全部、当てはまっているではないか。
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