終電が来るまで、残り15分。

 ホームに降りて、ベンチに腰掛ける。ホームには私達二人以外に誰もいなかった。


「今日は楽しかったよ、ありがとうね」

彼が穏やかな笑みを浮かべて言った。その微笑みが酷く遠いものに感じた。でも、いつ話を切り出すべきなのか、分からなかった。時間がないのだ、ということは分かった。


「私もだよ。初めて、こんな冒険をした。君とできて、よかった」

またできるかな、そう聞くと、彼は困ったように笑った。


「君は、いつもそうだよね。未来の話をすると、寂しそうにする」

そうかな、と彼は電光掲示板に目をやったまま相槌を打った。誤魔化してるつもりなのだろう。思い切って、聞いた。


「君は、どこから逃げるつもりなの」


冷たい風が、頬を撫でる。マフラーの端が風になびいた。彼は私の隣から立ち上がって離れてゆく。私に背を向けたまま、彼は何も言わなかった。私は彼にまた問いかける。


「私はね、あの人の束縛から逃げるため――あの人が創り上げた小さな世界から抜け出すために、君の誘いに乗った」



君は――何のため?

君は――何から逃げようとしているの?


――答えは、もう分かっていた。でも彼の口から聞きたかった。私の悪い予感が、総て嘘であって欲しいと願っていたから。笑って、君は妄想が激しいね、と私をからかってほしかった。でも、彼は、何も言わなかった。

 時折見せる、何を考えているのか読めない淀んだ瞳。捻くれ曲がった、アイロニカルな物言い。しかたなく取り繕っているような微笑み。社会に失望していて、親を、そして自分自身を憎んでいる、彼。



君は――





凍てつく夜風が、彼のコートの裾を攫った。彼がこちらを振り向いた。冷たい目をして、口元がぐにゃりと歪んでいた。



「どうして」


――そう思うわけ?


彼は、その冷笑を崩さないまま聞いた。


 疑いなら、ずっと持っていたと思う。話し始めた頃から陰のある人だった。その疑いがある程度強い確信に変わったのは、メモを見た時だった。長文の書かれたそのメモのタイトルは、『遺書』だった。その言葉を見るなり、これまでの彼の反応や態度が段々繋がっていったのだ。あの時のあの顔は、あの言葉は、もしかして……彼は死のうとしているんじゃないか、私はそう考えてしまったのだ。この旅だって、彼にとっては最後の思い出作りだったのかもしれない。したいことをしきってから、死のう、そういう考えだったのかもしれない。


「スマホ、やっぱり見えてたんだ」

と彼は更に唇の端を吊り上げた。この期に及んで、勝手に見たなんて懺悔はしない。する余裕はない。私の考えが正しければ、彼はこれから死ぬ。彼だってそれなりの覚悟を持って逃げ出したはずなのだ。このまま帰ってしまえば、ただの家出になってしまう。だから彼は、この旅の最後に、死ぬつもりなんじゃないか――そう考えると、恐らく……彼は――。


「俺はね、幸せになっちゃいけないと思うんだ」


唐突に彼が言った。彼の目はもはや生気を宿していなかった。凍えるほど冷たい瞳だった。


「ずっと、そう思ってきた。そう思い込むことで、総てを受け入れてきた。恵まれてるやつは、幸せになっちゃいけない。憎まれて、苦しまないといけない。でも、もう疲れたんだよ。誰かに憎まれるのも、自分を憎むのも、もう疲れたんだ」


じゃあどこか遠くへ行こうって、逃げようって――」




――死のうって思った。




「君を誘ったのは、君なら俺のことを分かってくれると思ったから。俺と君は似た者同士だもの。俺の苦しみとか諦めとか絶望とか、全部を分かってもらうことはできないってのは分かってた。でも、ここから逃げ出したいって、そう思う気持ちなら、君は肯定してくれるだろうって、そう信じてた。君がこの計画に乗ってくれて本当によかった。感謝してる。」


もうひとつは、君になら託せると思ったから――彼は言った。


「最期にはどうしても、目撃者が必要だったんだ。このつまらない悲劇を見届けてもらえる、心優しい人、後のことを託せる人といったら、君しか思い浮かばなくてさ。俺が自分で選び取った結末だって、証言してくれる人が欲しくて、君を巻き込むことになってしまった。本当にごめんね。」


こんなことに付き合わせてごめんね。本当にごめん――。彼は何度も謝った。


「恥ずかしいことを打ち明けると、最期はちょっとおしゃれなことをしたかったんだ。逃避行の末の自殺って、映画みたいで、なんだかロマンチックだなって。笑えるような理由でしょ。笑ってくれていいよ。実際滑稽だもの。主役がこんなじゃ、客だって来ないよな。結局、おしゃれにも何にもならなかった。でもいいんだ。もういいんだ」


総て言い終えると、彼は満足した表情を浮かべた。


「じゃあ、後のことは頼むね」


終電が間もなく来るというアナウンスが流れて、彼は黄色い線の近くまで歩み寄っていった。






「ふざけないでよ」


口を衝いて出た。


胸の奥で渦巻いていたこの感情。それは、哀れみでも悲しみでもない。初めての感情だった。あの人にさえ、抱いたことのないものだった。


「ふざけないでよ」


もう一度、言葉を確かなものにするために言った。立ち上がって、彼を睨む。


「何が似た者同士だ。ふざけんな!私達はぜんっぜん違う。私は、抗うために、戦うために逃げたの。あんたは戦うべきものから逃げてるだけじゃない!ただの臆病者、弱虫よ!いっしょにしないでよ!」


彼に詰め寄って思い切り睨みつける。


「あんたの気持ちなんて、これっぽっちも分からない、分かってたまるか!」


不思議そうな顔をして、彼は私を見下ろしていた。その顔が、憎くて、憎くて仕方なかった。私は、初めて彼に対して憎悪を感じた。まだ世界の一部しか知らないくせに、世界の理を悟った気になって、スカしてる。死に急ぐ、大馬鹿野郎。


どうしてあんたはそんなに悲劇に焦がれているの。恵まれた人間は素直にその恵みに溺れていればいい。幸せで満たされてしまえばいい。それなのにどうして、幸せな自分を追い詰めようとするの。不幸になりたがるの。ただかまって欲しいだけじゃないか。可哀想って言われたいだけじゃないか。


「だいっきらい」


彼をきっと睨んだまま、言った。


嘘だ。


あなたのことが好きだ。大好きだ。あなたがそばにいてくれたから私は逃げ出せた。一歩前に踏み出せた。あなたになら縋ってもいいと思えた。あなたの体温が愛おしかった。だからこそ、許せないんだ――。


私は気づけば、手を上げていた。彼の頬をありったけの力を込めてぶった。乾いた音がホームに響いて、重い空気の中に沈んでゆく。どうしてなのかは自分でも分からなかった。初めて、人をぶった。彼はあまりに唐突なことで驚いたのか、蹌踉めいて尻餅をついた。衝撃でメガネが弾き飛ばされて、カランと音を立てて地面に落ちる。彼はそれを取ろうともせず、頬に手を当てたまま、私を見上げている。


「だいっきらいなんだよ、あんたみたいな奴!」


思いっきり、感情をぶつけた。


「恵まれた分際で、不幸になろうとしないでよ!」



電車の警笛が響き渡る。間もなく、列車が入ってくる。


「勝手に苦しめばいいし、憎めばいい!でも――」


幸せから逃げないで――。


「あんたは、幸せになっていいんだよ!」


あなたに生きていてほしい。あなたに幸せになってほしい。


だから、お願い――。







 電車が恐ろしいスピードで暗闇の向こうからこちらに迫ってきていた。轟音が夜の静寂を切り裂いてゆく。鉄塊は私達の前を疾風の如く駆け抜けた。彼がくれたマフラーがはためく。


 私は、冷たいコンクリートの上に膝から崩れ落ちた。



 ぷしゅーという気の抜けた音とともに目の前のドアが開く。


 私の前に、手が差し出された。


「帰ろっか」


掠れた声で、彼は言った。私はその手を取る。大きな手の平は、まだ温かかった。

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