Ⅶ
終電が来るまで、残り15分。
ホームに降りて、ベンチに腰掛ける。ホームには私達二人以外に誰もいなかった。
「今日は楽しかったよ、ありがとうね」
彼が穏やかな笑みを浮かべて言った。その微笑みが酷く遠いものに感じた。でも、いつ話を切り出すべきなのか、分からなかった。時間がないのだ、ということは分かった。
「私もだよ。初めて、こんな冒険をした。君とできて、よかった」
またできるかな、そう聞くと、彼は困ったように笑った。
「君は、いつもそうだよね。未来の話をすると、寂しそうにする」
そうかな、と彼は電光掲示板に目をやったまま相槌を打った。誤魔化してるつもりなのだろう。思い切って、聞いた。
「君は、どこから逃げるつもりなの」
冷たい風が、頬を撫でる。マフラーの端が風になびいた。彼は私の隣から立ち上がって離れてゆく。私に背を向けたまま、彼は何も言わなかった。私は彼にまた問いかける。
「私はね、あの人の束縛から逃げるため――あの人が創り上げた小さな世界から抜け出すために、君の誘いに乗った」
君は――何のため?
君は――何から逃げようとしているの?
――答えは、もう分かっていた。でも彼の口から聞きたかった。私の悪い予感が、総て嘘であって欲しいと願っていたから。笑って、君は妄想が激しいね、と私をからかってほしかった。でも、彼は、何も言わなかった。
時折見せる、何を考えているのか読めない淀んだ瞳。捻くれ曲がった、アイロニカルな物言い。しかたなく取り繕っているような微笑み。社会に失望していて、親を、そして自分自身を憎んでいる、彼。
君は――
「死ぬつもりなんでしょ」
凍てつく夜風が、彼のコートの裾を攫った。彼がこちらを振り向いた。冷たい目をして、口元がぐにゃりと歪んでいた。
「どうして」
――そう思うわけ?
彼は、その冷笑を崩さないまま聞いた。
疑いなら、ずっと持っていたと思う。話し始めた頃から陰のある人だった。その疑いがある程度強い確信に変わったのは、メモを見た時だった。長文の書かれたそのメモのタイトルは、『遺書』だった。その言葉を見るなり、これまでの彼の反応や態度が段々繋がっていったのだ。あの時のあの顔は、あの言葉は、もしかして……彼は死のうとしているんじゃないか、私はそう考えてしまったのだ。この旅だって、彼にとっては最後の思い出作りだったのかもしれない。したいことをしきってから、死のう、そういう考えだったのかもしれない。
「スマホ、やっぱり見えてたんだ」
と彼は更に唇の端を吊り上げた。この期に及んで、勝手に見たなんて懺悔はしない。する余裕はない。私の考えが正しければ、彼はこれから死ぬ。彼だってそれなりの覚悟を持って逃げ出したはずなのだ。このまま帰ってしまえば、ただの家出になってしまう。だから彼は、この旅の最後に、死ぬつもりなんじゃないか――そう考えると、恐らく……彼は――。
「俺はね、幸せになっちゃいけないと思うんだ」
唐突に彼が言った。彼の目はもはや生気を宿していなかった。凍えるほど冷たい瞳だった。
「ずっと、そう思ってきた。そう思い込むことで、総てを受け入れてきた。恵まれてるやつは、幸せになっちゃいけない。憎まれて、苦しまないといけない。でも、もう疲れたんだよ。誰かに憎まれるのも、自分を憎むのも、もう疲れたんだ」
じゃあどこか遠くへ行こうって、逃げようって――」
――死のうって思った。
「君を誘ったのは、君なら俺のことを分かってくれると思ったから。俺と君は似た者同士だもの。俺の苦しみとか諦めとか絶望とか、全部を分かってもらうことはできないってのは分かってた。でも、ここから逃げ出したいって、そう思う気持ちなら、君は肯定してくれるだろうって、そう信じてた。君がこの計画に乗ってくれて本当によかった。感謝してる。」
もうひとつは、君になら託せると思ったから――彼は言った。
「最期にはどうしても、目撃者が必要だったんだ。このつまらない悲劇を見届けてもらえる、心優しい人、後のことを託せる人といったら、君しか思い浮かばなくてさ。俺が自分で選び取った結末だって、証言してくれる人が欲しくて、君を巻き込むことになってしまった。本当にごめんね。」
こんなことに付き合わせてごめんね。本当にごめん――。彼は何度も謝った。
「恥ずかしいことを打ち明けると、最期はちょっとおしゃれなことをしたかったんだ。逃避行の末の自殺って、映画みたいで、なんだかロマンチックだなって。笑えるような理由でしょ。笑ってくれていいよ。実際滑稽だもの。主役がこんなじゃ、客だって来ないよな。結局、おしゃれにも何にもならなかった。でもいいんだ。もういいんだ」
総て言い終えると、彼は満足した表情を浮かべた。
「じゃあ、後のことは頼むね」
終電が間もなく来るというアナウンスが流れて、彼は黄色い線の近くまで歩み寄っていった。
「ふざけないでよ」
口を衝いて出た。
胸の奥で渦巻いていたこの感情。それは、哀れみでも悲しみでもない。初めての感情だった。あの人にさえ、抱いたことのないものだった。
「ふざけないでよ」
もう一度、言葉を確かなものにするために言った。立ち上がって、彼を睨む。
「何が似た者同士だ。ふざけんな!私達はぜんっぜん違う。私は、抗うために、戦うために逃げたの。あんたは戦うべきものから逃げてるだけじゃない!ただの臆病者、弱虫よ!いっしょにしないでよ!」
彼に詰め寄って思い切り睨みつける。
「あんたの気持ちなんて、これっぽっちも分からない、分かってたまるか!」
不思議そうな顔をして、彼は私を見下ろしていた。その顔が、憎くて、憎くて仕方なかった。私は、初めて彼に対して憎悪を感じた。まだ世界の一部しか知らないくせに、世界の理を悟った気になって、スカしてる。死に急ぐ、大馬鹿野郎。
どうしてあんたはそんなに悲劇に焦がれているの。恵まれた人間は素直にその恵みに溺れていればいい。幸せで満たされてしまえばいい。それなのにどうして、幸せな自分を追い詰めようとするの。不幸になりたがるの。ただかまって欲しいだけじゃないか。可哀想って言われたいだけじゃないか。
「だいっきらい」
彼をきっと睨んだまま、言った。
嘘だ。
あなたのことが好きだ。大好きだ。あなたがそばにいてくれたから私は逃げ出せた。一歩前に踏み出せた。あなたになら縋ってもいいと思えた。あなたの体温が愛おしかった。だからこそ、許せないんだ――。
私は気づけば、手を上げていた。彼の頬をありったけの力を込めてぶった。乾いた音がホームに響いて、重い空気の中に沈んでゆく。どうしてなのかは自分でも分からなかった。初めて、人をぶった。彼はあまりに唐突なことで驚いたのか、蹌踉めいて尻餅をついた。衝撃でメガネが弾き飛ばされて、カランと音を立てて地面に落ちる。彼はそれを取ろうともせず、頬に手を当てたまま、私を見上げている。
「だいっきらいなんだよ、あんたみたいな奴!」
思いっきり、感情をぶつけた。
「恵まれた分際で、不幸になろうとしないでよ!」
電車の警笛が響き渡る。間もなく、列車が入ってくる。
「勝手に苦しめばいいし、憎めばいい!でも――」
幸せから逃げないで――。
「あんたは、幸せになっていいんだよ!」
あなたに生きていてほしい。あなたに幸せになってほしい。
だから、お願い――。
電車が恐ろしいスピードで暗闇の向こうからこちらに迫ってきていた。轟音が夜の静寂を切り裂いてゆく。鉄塊は私達の前を疾風の如く駆け抜けた。彼がくれたマフラーがはためく。
私は、冷たいコンクリートの上に膝から崩れ落ちた。
ぷしゅーという気の抜けた音とともに目の前のドアが開く。
私の前に、手が差し出された。
「帰ろっか」
掠れた声で、彼は言った。私はその手を取る。大きな手の平は、まだ温かかった。
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