Epilogue
窓から吹き込む春風が、机の上に置かれたルーズリーフを掬い取った。間一髪でキャッチして、2つ折りされたそれを開く。
『星見ヶ丘で待ってる』
見覚えのある字だった。その文句の下には、約束の時間が指定されている。誰からの手紙かすぐ分かった。私は手紙を胸元に握りしめて、窓辺に立って朗らかな空を見上げる。
あれから、前の席は空席のままだ。あの日以降、彼とは一度も会っていない。何があったのかも分からないまま、冷たい、暗い季節は終わりを告げた。
あの日――私達は終電で高校近くの駅まで戻ってきて、そのまま別れた。電車の中では一言も口を利かなかった。1人で家に帰るのは正直怖かった。あれだけ反抗してやると思っていたのに、旅が終わった途端そんな気力も失せてしまっていた。恐る恐る玄関を開けると、電気がまだ点いていた。彼女は独りぽつんと、リビングに座っていた。テレビは点いていなかった。もう2時を過ぎているというのに。朝早くから仕事もあるだろうに。私は彼女のことがよく分からなかった。彼女はドアを開ける音で気づいたのか、こちらを向いた。
「おかえり」
消え入るような声で、あの人はそう言った。返事はしなかった。強がって無視してみるものの、内心ずっとビクついていた。何せこんなに遅い時間に帰ってきたことがなかったのだから。いつもは1時間遅れるくらいで怒るくせに、今日は私を問い詰めるわけでもなく、そそくさと寝室に入っていった。
それ以来、母は私と必要最低限のことしか話さなくなった。私が反抗する術を覚えたからなのか、彼女の過干渉は治まったみたいだった。手出しをしてくることもなくなった。とは言っても、相変わらずご飯は作ってくれないままだし、話しかけても無視される。いわゆる冷戦状態がここ3ヶ月ずっと続いている。でも、無駄に干渉されるよりはいい。ぶたれるよりも全然ましだ。
進路も今のところは自分で決めている。給与型の奨学金を借りられる大学を受験する予定だ。大学の寮に入って親元を離れることも考えている。そのためには、勉強に励まないといけないのだけれど。幸い、志望している大学は現段階で合格見込みが充分あると言われた。あとは慢心しないように残り1年を頑張ろう、というところだ。
あの人には、何も相談していない。でも、一度だけ進路調査の用紙は見せた。親の署名と判が必要だったから仕方なくだ。顔を合わせないで済むように、あの人が夜勤の時に、机の上に置いて寝室に行った。翌朝、彼女が隣でぐっすり眠っているのを起こさないようにリビングへと行くと、ちゃんと署名も捺印もされていた。それに重ねて、チラシの紙が置かれていた。裏の白い部分に書き込みがあった。
『みずきちゃん、がんばってね』
ミミズの這ったような文字で、たったそれだけ。その紙だけはどうしても捨てられなくて、お守り代わりに手帳に挟んでいる。許さないという感情と、それでもという感情は矛盾しないのだと思った。
そんな出来事もあった2年生の終わりに、突然彼からの手紙が来た。多分朝早くに来て手紙を置いて行ったのだろう。彼の様子を想像して微笑ましく思う。ルーズリーフに記された彼の筆跡をもう一度、目で追った。約束の時間は、金曜日の夜、最後の便に乗って来て、とのことだった。3ヶ月ぶりに、彼に会える。聞きたいことは山ほどあった。言いたいことも沢山あった。はやる気持ちを抑えきれず、彼との再会に思いを馳せる。優しい光に照らされた彼の筆跡を懐かしんで、指でなぞった。
*
約束の金曜日。約束通りの時間に電車に乗って、終点まで行った。星見ヶ丘駅で降りると、ホームから覗く空は真っ暗だった。彼は、あのときと同じベンチにいた。
「先に来てたんだ」
「1本前ので来た」
「メガネかけてないじゃん」
「君が壊したからね。あの時、レンズ割れちゃったんだ。それを機にコンタクトに変えたの」
「その節はほんとにごめん」
「いいよ、気にしてない」
「でも、似合ってるよ。そっちのほうが断然イケてる」
「おいおい、それじゃあこれまでイケてなかったってことかよ」
彼はからりと笑う。その笑顔に、3ヶ月前の仄暗さは感じられなかった。間が空いても、変に緊張せず話ができて安心する。
俺さ、と彼が切り出した。
「4月から、カナダに行くことになった」
あまりに突然のことで、え、と声が洩れる。やっぱりそうなるよね、と彼は言った。
「親父の転勤でさ。外資系だから海外もあり得るんだよね。最初は親父だけ単身赴任の予定だったんだけど、俺たちもあっちに行くことになった。ほら、国際教養云々もあるだろ。そういうのにはもってこいの機会じゃないかって。4月から向こうの高校に通うんだ」
情報量が多くて、話についていけない。ぽかんとしている私に彼は決定的な一言を放った。
「つまり、君とも会えなくなるってこと」
まともに相槌も打てず、そっか、とだけ呟いた。
「俺、決めたんだ。恵まれた者なりに生きるって」
彼は晴れ晴れとした顔で続ける。
「いつまで経っても強くはなれないかもだけど、それでも自分なりに向き合ってみる。もう一度やり直してみようと思う。帰ってきた時に、胸を張って君に会えるように」
うまく目を合わせられなくって、彼の手元を見ていた。彼の鞄にいつぞやのよわむしくんがついていることに気づいて、また、胸が苦しくなる。この気持ちが何なのかは、いちばん自分が分かっている。頑張って、と辛うじて声に出た。
「俺がいなくなっても、寂しくない?」
彼はおどけて言う。寂しくないよ、精一杯の嘘をついた。
「観覧車に乗ったときにした星の話、覚えてる?」
彼が聞いてきた。覚えているに決まってる。君との大切な思い出なのだから。忘れるわけない。
「星は孤独だって話、あの後、俺考えてみたんだけどね。案外寂しくないんじゃないかな。煌めくためにあんなに命を燃やしてる。俺たちからでもその光が見えるってことは、きっと星同士も見えてるんだと思うよ。つまりさ、遠くにいたって、同じ思いがあるなら心は繋がっていられるんじゃないってこと」
くさいかもしんないけどさ、と彼は照れ隠しか、顔を背けた。彼にとっては、慰めのつもりなんだと思う。そう考えただけで目頭が熱くなる。立ち上がって夜空を見上げた。視界がぼやけるけれど、涙を零さないように上を見上げる。ぼんやりとしか見えなくとも星が輝いていることは分かった。あの星たちは今日も、美しく煌めいている。
「終電まだかなー」
と早く帰りたがるふりをした。本当はまだ帰りたくなかった。まだ何も伝えられてないし、ちゃんとした別れもできてないのだから。けれど、無情にも警笛が鳴った。
「瑞希」
誠也が後ろで私の名前を呼んだ。
背中に温もりを感じる。それが彼の体温だと気づいた時には、もう遅かった。涙が頬を伝い落ちる。必死で抑えていた感情が溢れ出した。彼が私を優しく包み込んでくれた。私の前で交差する彼の腕に、手をやる。温かくって、優しくって、嬉しくって、辛くって……。
「あのとき、俺を引き留めてくれてありがとう。それから、ごめんね」
彼は落ち着いた声でそう言った。返事をすると、涙声になってしまいそうで、何も言えなかった。
「俺、君にありがとうとごめんねを言ってばかりだけど、今日は他にも伝えたいことがあったんだ」
彼の吐息が私の耳を擽る。
「瑞希、君が――
その先は電車の轟音と被ってよく聞こえなかった。でも、確かに受け取った。私には分かった。私もあなたにそれを伝えたくて、ここに来たのだから。大きな音に被って聞こえないのをいいことに、私も、彼に告げる。
あの時だいっきらいって言ったけど、私は、本当は――
「あなたが――
電車が停車して、大きな音は止んだ。
「さっき、なんて言ったの」
と彼は抱きついたまま、真横から顔を出して聞いてきた。いつか見た、イタズラっ子みたいな笑みを浮かべている。
「その顔、絶対聞こえてたでしょ」
「えー、もっかい言ってほしい」
彼は駄々をこねる。電車のドアがぷしゅーっと音を立てて開いた。
「電車、乗ろうよ」
いまだに抱きついたままの彼に涙声で言った。
「もう少しだけ、このままでいたい」
彼はそう言う。
「終電、乗り過ごしちゃうよ」
呆れながら返すと
「帰りくらいどうにかなるよ」
彼はまたまた楽観的なことを言った。逃したらどうやって帰ればいいんだろ、と一瞬面倒くさいことが頭をよぎったが、今は考えないことにした。こんな日もあっていいじゃないか。
「じゃあ、もう少しだけ……」
電車が行ってしまった後、再び暗闇になった夜空を見上げる。まるで私たちもこの星空の一部になったみたいだった。
あぁ、私たちも、星なんだ――。
あのときも、確かそう感じた。でも、今考えることは違う。
離れていても、私はあなたの光を糧に生きてゆける。その光はきっと、何光年先でも私の元に届く筈だ。私も、あなたにとっての星になれるといいのだけど――。
そんなことを考えながら、夜空を見ていると、一際明るく光る星を見つけた。それとは離れたところに、もうひとつ。同じくらい明るく瞬く星。煌めく星々に願いをかける。
幸せなあなたが、今度こそ、素直に幸せを噛み締められますように――。
今は、ただそれだけを願っている。
【了】
Blessed Star 見咲影弥 @shadow128
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