Ⅵ
最後の目的地は彼が希望したところだった。でもその行き先は教えてくれなかった。着いてからのお楽しみだそうだ。その前に、次の目的地までが遠いので先に夕飯にしようということになった。近場で済ませようと駅前のファストフード店に入る。
「晩御飯でこういうの食べるの初めてかも」
と彼は壁に貼られたメニューをしげしげと見る。うちでは珍しくも何ともないことだけど。
「いつもはどんなご飯食べてるの?」
と聞くと、
「栄養重視の味が薄いご飯だよ」
病院みたいな味、と彼が揶揄するので、
「作ってくれるだけいいじゃん」
と言ってやると、彼は少し黙ってから、まぁそうだけどね、と言った。チーズバーガーとポテト、ホットコーヒーを二人分注文して、席にかける。マフラーを取って、コートを脱いで、一息つく。
「そろそろ、親も気づくんじゃないかな」
彼がスマホのロック画面をこちらに見せる。時刻は18時を過ぎていた。昨日カレンダーを見たけれど、あの人のシフトは17時で交代だ。今頃家に帰っていて、私がいないことに苛立っているかもしれない。あの人が苛ついていると思うとぶるりと震えた。学校に電話して、早退したことを知ったら、あの人はどうなるだろう。家のものに当たり散らすのか、私の机を物色して何か手がかりを探そうとするのか、それとも警察に連絡するのか……いずれにせよ、怖い。帰ったら、何を言われるだろう。怖い。ぶたれるかもしれない。そう考えると脚がガクガクと震え出した。でも、でも……私は決めたんだ。もう、あの人の言いなりにはならないって。鳥籠から、抜け出すんだって。届いたハンバーガーに豪快に食らいつく。私は、強いから。最後まで、やり切ってみせる。私は負けない、屈しない。あの人なんかに――。手にぎゅっと力を込めて、改めて誓った。
動揺していたホットコーヒーをちびちびと飲みながらポテトを摘んでいると、彼が突然立ち上がった。
「ちょっとトイレ行ってくる」
そう言って、店の奥の方へ行った。彼がいた前の席には、スマートフォンが置きっ放しになっている。私の心はざわざわと騒いでいた。
……分かっている。いけないことだとは、分かっているけど……。
気になるのだ。私がスマホを覗き見た時に見えた、あれは一体何なのか。勿論、人のものを勝手に見るなんて道徳的にはアウトだ。プライバシーの問題だってある。でも、どうしても、どうしても見ておかないといけない気がして……。彼の姿が見えなくなると、そっとスマホをこちらに引き寄せてみる。いつも以上に手汗が出ているのが分かった。ホームボタンを押すと、すぐアプリの画面になった。ロックはかけていないみたいだ。使ったことがないので慎重に操作したいけど、生憎そんな時間はない。あの文章が書かれてありそうなアプリを探すと、メモ、というアプリを見つけた。これか、と開いてみると、すぐに画面が表示された。これまで彼が書いたメモがずらっと並んでいる画面だった。その上に固定されているメモ。電車の中で見たものに違いなかった。
そのタイトルは……ああ――。
中身まで確認しようとしたが、彼が帰ってくる姿が見え、急いで元の場所に戻す。それから、平静を装ってポテトを口に運んだ。でも心は穏やかではいられなかった。
*
次の目的地に着いたのは21時頃だった。電車の中で、彼に寝ていてもいいよ、と言われたが、とてもじゃないけれど眠れたものじゃない。あのメモの内容が頭をぐるぐると回り続けていた。私はどうしたらいいのか、そればかり考えているうちに、終点に到着した。終点「
「ねぇ、どこ行くつもりなの?」
と聞いてみると、ふふん、と彼は笑って誤魔化そうとしたが
「っていうか、星見ヶ丘って聞いたことない?ここに来た時点で分かっちゃうかなーと思ったんだけど」
とヒントを出してきた。でも、ヒントを聞いてもいまいちピンとこなかった。
「ごめん、ぜんっぜん覚えてないわ」
と言うと、彼は大丈夫大丈夫、直に分かるから、と言ってぐんぐんと進み始めた。段々傾斜が急になっていることに気づく。丘のようなところに登っているようだった。そして、だいぶ上の方まで来ると、木々で覆われていた視界がひらけてきて、それが見えた。
真っ白な観覧車。
丘の一番てっぺんあたりに、大きなものがひとつ見えた。観覧車の真下だけがライトアップされていて、上の方は完全に闇に包まれている。
「聞いたことない?『星空観覧車』」
星空観覧車――あぁ、そういえば、いつだったか、彼が行きたいと言っていた。ロマンチックな観覧車のことか。
「星に一番近づける観覧車だって。予約が取れてよかったよ」
彼は私に微笑んだ。その微笑みが今にも宵闇に溶け出しそうで、私は怖かった。
「どう?俺にしてはなかなかいいところ選んだと思ったんだけど」
と彼が首を傾げて私の顔を見てくるので
「いや、めっちゃびっくりした!」
とさも驚いたような仕草をした。それならよかった、と彼ははにかむ。スタッフに案内されて、ゴンドラの中に二人で入った。それじゃあいってらっしゃい、と言われてドアの閂がかかる。私達の乗ったゴンドラがゆっくりと動き始めた。
「いまさらだけど、高いところって大丈夫?」
と彼がおずおずと聞いてきたので、へっちゃら、と返した。ゴンドラは地面から離れて、次第に上へと登ってゆく。確かにいつか聞いた通り、ゴンドラの回る速さはゆっくりだった。それでも着実に地上を照らすライトからは離れてゆき、ゴンドラの中身が暗くなってゆく。窓の外を見る。冴え渡る黒の中に、光るものを見つけた。ひとつ、ふたつ……数多の星が、そこにはあった。感嘆。吐息が洩れる。煌めく夜空がが私達を包んでいた。まるで私達もこの夜空の一部みたいだった。私達も星なんじゃないかと、そう思った。ゴンドラは更に昇り、次第に、一番明るい星へと近づいてゆく。瞬く星が、もう、こんなにも近い。それなのに――
こんなにも遠い。
「星って、可哀想だよね」
静かに呟いた。どうして、と彼が聞いてきた。
「あんなに近くにいるように見えるのに、実際はとっても離れているでしょ。星はずっと孤独なんだよ。誰とも巡り会えないまま、孤独に生きて、孤独に死んでいく。可哀想じゃない?」
「自分は独りでいるのが好きなくせに、星の孤独は憐れむんだ」
「私はね、確かに、下手に干渉されるくらいなら独りでいたい。でも、私が私の全部を明かしてしまってもいいと思った人とは繋がっていたい。そういう人の近くにいたい」
私は、星にはなりたくないな――そう言ってみた。本当の孤独にはなりたくない、初めてそう思った。それはきっと、あなたがいたからだ。目の前に座る彼のことを見つめる。この人になら縋ってもいい、涙を見せてもいい、本心でそう思える人と、巡り合ってしまったから。だから、あなたのことも独りにしたくはなかった。あなたを、遠い星にしてしまいたくなかった。私達のゴンドラが、一番真上に来た。今、あの星のいちばん近くにいる。彼のいちばん近くにいる。だからこそ、今、はっきりさせておきたかった。
ねぇ――と私が話を切り出すより先に、彼が言った。
「俺は、星になりたい」
ゴンドラが丁度降りだした。
「誰にも手の届かないところに行きたいって、そう思うんだ。行かなくちゃ、いけない、とも思う」
幸せになっちゃ駄目なんだよ、俺みたいなやつは――。
やるせなさの滲む声だった。
「瑞希はさ――」
彼の言葉が突然私に向いた。
「俺が憎い?」
何の問いかけか、どういう意味なのか、分からなかった。
「憎いわけないよ。と、友達だし」
とワンテンポ遅れて返す。
「皆は、俺のことどう思ってるんだろう」
彼はこちらを見ないまま、そう言った。彼の言う「皆」が何なのか分からず、黙ったままでいると、彼は言った。
「皆、俺のことが心底疎ましくて、目障りで仕方ないんじゃないかな」
彼はこちらを見ていた。空よりも真っ黒な瞳は、私を見つめていた。ゴンドラが静かに、落ちてゆく。
「どうして……そう思うの」
「俺は恵まれてる子、そうでしょ?」
彼が歪な笑みを浮かべたのが分かった。私も、確かに彼に言った記憶がある。
「でもね、その『恵み』とやらは、俺にとって全然嬉しいものじゃなかった」
彼は言い切った。
「ただの重荷だったんだよ。これまで生きてきて、ずっと、そのせいで苦い思いをしてきたんだから。羨望の眼差しは痛いほど浴びてきた。でもそんなのちっとも嬉しくなかった。ずっと妬み嫉みの言葉をかけられ続けて、挙句の果てには、それはお前の成果じゃないだろうと言って、世間知らずのお坊ちゃまに一言物申してやったと勝手に気持ちよくなられる。そんなのお前に言われなくたって、一番俺が分かってるよ、俺が。それにな、俺がどんなに努力したところで、総ては家庭環境のおかげ、親の七光り、才能を受け継いでるんだから当たり前、そんな言葉で片付けられる。こんな生き様がほんとに羨ましいか?」
彼の顔が、また歪んだ。
「俺はこんなのいらなかった。求めてなかった」
彼はこうも言った。
「俺は、あの人達が憎いよ。俺を人並み以上に恵まれた子にした、あの人達が憎い」
だから、復讐するんだ――彼は乾いた声で笑って、それから告げた。
「でもね、いちばん憎いのは、俺だよ。俺は、俺が憎い」
恵まれている、自分が憎いんだ――。
彼の鉛のような言葉とともに、ゴンドラが、地上に下りた。
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