第15話
「上がってください」
「お、お邪魔しまーす……」
わけもわからず言われるがまま入った渚ん家はいい匂いがした。
その匂いはどこか甘く、心をくすぐる香りで、京子の中にささやかな安堵感を呼び起こした。しかし、足を踏み入れるたびに、背中に冷たい汗が伝う。
自分の胸の中で言い聞かせるように大丈夫、と呟いてみるものの、どこかで感じる圧迫感を拭いきれない。
「ここがトイレ、向こうがリビングでその隣が寝室です」
「うん……あの、白沢さん」
「ご飯食べますよね今から準備します」
「あっはい」
京子はその空気に流されるまま、言葉を飲み込んでしまう。聞きたいことも、確かめたいこともあったはずなのに、目の前の彼女の何かを刺激してはいけないような気がして、怖さからその一歩を踏み出せない。
そんな中、渚の手は京子を離さない。それはキッチンに行っても同じだ。まな板とか鍋を準備する最中でも決して離れることはない。
その手の感触は柔らかいはずなのに、不思議と逃げられない重さがあった。
渚……ほんとに急にどうしたの……? さっきまであんなに楽しそうに笑ってたのに……。てかやば、手汗どうしよう……絶対バレてるよね? 手汗ダラダラ女とか思われたらどうしよ……死ぬかも……。
京子は内心で必死に動揺を抑えるが、渚の静かな動きと無言の圧力がその努力を全て無駄にしていく。
「今から料理しますが」
「はっはい」
急に口を開く渚にびっくりして体を震わす。
「何があっても私から離れるな」
そう言って京子の両手で渚自身を包むように移動させ、後ろからハグをする体勢になった。
京子の心臓はさらに大きく跳ね上がり、恐怖と混乱が彼女を支配する。
「え、え? え??」
腕から身体にかけて感じる想い人の温もりはまるで薬物のようだった。いや、それよりもはるかに甘くて、気持ちよくて、危険だった。
渚の体温と匂いが京子を包み込み、心を溶かしていく。
そして振り返り、包丁片手にこう言った。
「もし少しでも離れたら京子のことめちゃくちゃにするから」
「ひゃっ」
またあの目だ。吸い付いて離さない真っ黒なあの目。その瞳には光がなく、ただ底なしの深淵のような暗さが広がっていた。京子はその視線を受け止めるだけで、心が凍りつくような感覚を覚えた。
彼女が言ったその意味はわからない。でも聞き返したらいけない気がした。
キッチンをリズムよく野菜を切る音と、炒める音だけが支配していた。けれど、そこに漂う緊張感は消えるどころか増していく。
「京子、段々体が離れていってる。もっとくっつけないとダメでしょ、されたいの?」
「ご、ごめんなさい」
胸を押しつぶすくらい強く抱きしめた。渚の匂いが嫌というほど鼻腔に絡みつき、逃げることは許されない。
その甘い香りが逆に息苦しく感じられ、京子は無意識に唇を噛んでいた。
「ちょっとお話ししようか。京子、悪いことした自覚ある?」
「ごめっ、ごめんなさい……」
「謝るだけならなんとでもできるよね? 行動で見せないとダメでしょ。なんで抱きしめるの弱めたの? ほんとに反省してる? 今日のアレだってなんなの? 冗談でもあんなこと言ったら誰でも怒るよね。京子ならそれくらい予想できたよね。やっぱあの時ちゃんと監禁しとくべきだったかな。あーあ、躾が必要だね」
包丁を握る手がぴたりと止まって、器用に顔だけを振り向かせて、眼下から色のない両目が京子を捕える。
目はどこか狂気に染まっている。それに惹き込まれるように、京子の体は動けなくなった。
綺麗な唇が口腔を覗かせ銀色の糸を引き──。
「いっっ!!!」
京子の首元から赤いものが滲み出た。痛みを我慢するためにさらに強く渚を抱きしめて、和らげるように腕を緩めない。
京子の首筋に走った鋭い痛みは、一瞬で意識を赤く染め上げた。渚の唇が首に触れた瞬間、柔らかい感触とともに、鋭い歯が肌に食い込む感覚が続く。
噛みついて離さない渚の口元から唾液と京子の血が混ざりあって肌を滑る。
「っ……うぁ……」
京子は思わず声を漏らしそうになるが、痛みを堪えるように歯を食いしばる。
だが痛み以上に、渚の歯が京子の肉をしっかりと捉え、引っ張るような力が生々しい感覚が意識を占めていった。
噛みついて離さない彼女の口はいっそう力を増して、このまま肉まで引きちぎるのではないかとも思える。
吐息が首筋を撫で、噛みついた部分を少しだけ唇で吸うように押し付けたその瞬間、全身が震えるほどの感覚が京子を襲った。
「いっ……ぁ、なぎ……さぁあっ!」
言葉にしようとしたものの、はっきりと声にならなかった。自分の言葉を遮るように、渚の歯がさらに深く食い込む。そのたびに痛みが増し、京子の体は自然とさらに強く渚の体にしがみついてしまう。
渚はようやく首を一度引き、ゆっくりと歯を肌から引き抜く。
冷たい狂気と熱っぽい執着が京子の心をさらに追い詰めていく。
「あ、やば……京子のその顔ほんと……犯したくなる」
渚の囁きが響くたび、京子の心臓は何度も悲鳴を上げた。
京子の感情はぐちゃぐちゃだった。初めて見る渚の怒った姿は有無を言わさないほど怖くて、血が出るほどに痛いのに、でもこんなにも近くにいる大好きな彼女の匂いや体温とか全てが愛おしい。
首から繋がる鈍い銀糸と真っ黒な渚の瞳が異常なほど美しく見えた。
渚の吐息が首筋を這い、滴る血が二人の間に赤い線を描いていく。
自分の血が彼女の唇からその白い首筋を伝って描く様は劣情を湧き立てる。
恐怖と興奮が混ざり合って、もう何も考えられなかった。ただ無心で、本能に従って渚を抱きしめているだけ。
可愛いあの子を病ませたかったがすでに病んでいた やま @inkoinko115115
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