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 アリアンヌ王女のための離宮――つうしょうアリアンヌ宮は、ユマルーニュ王国さいなんたんの港町にあった。内海をはさんで向こう側はもう灼熱のガルフォッツォ王国、という地であり、ミグラスの領地や王都よりもだいぶ気温が温暖だった。

 アリアンヌ宮にとうちゃくしたニコラはすぐさま応接間に通されることとなった。勿論、頭のてっぺんから足の先まで完璧な男装姿でキメてきている。

 応接間では、せいながそでのドレス姿の少女がニコラを待ち受けていた。この離宮の主にして、今日この日からニコラがお仕えする相手である、王女アリアンヌ。彼女の姿を見るなりニコラは息をのんだ。あまりにも可憐で愛くるしいようぼうの姫君だったのだ。

 空色のやさしげな垂れ目がとくちょう的な、花のような面立ち。くりいろの巻き毛、がらたい、どこをとってもわいい。緊張気味な表情を浮かべているのもまた可愛い。国王と后が、王女の身近に男を寄せ付けまいとして女だらけのかんきょうを用意したのも大なっとくの可愛さだ。


「お初にお目にかかります、王女殿下! ニコラ・ミグラスと申します、お会いできて光栄ですっ!」


 意気込んであいさつを述べたニコラは、初対面の場で失礼のないようにと、最大級の笑みを浮かべてみせた。だがしかし、それに対して王女のほうは、元々緊張気味だった顔がさらにひどく強ばっていき、しかも顔色までがみるみるうちに青ざめていったので、ニコラはぎょっとした。今にもたおれそうな顔色の王女を支えようとニコラが一歩み出すと、王女はヒッと小さくさけんでこうちょくし、さらに顔面そうはくになった。

 ひめ様っ! お気を確かにっ! とじょたちがわらわらと王女を取り囲み、がちがちに硬直した王女の体を支えながらろうへと連れ出していく。

 取り残されたニコラはこんわくし、同じく室内に残っている侍女にすがるように目を向けると、彼女は申し訳なさそうに肩をすぼめた。


「ニコラ様、大変申し訳ないのですけれど、姫様との顔合わせはまた日を改めて……」

「それは全然かまいませんけども、あの……私が女だということを、王女殿下は……?」

「勿論、姫様の男慣れ特訓のためにつかわされてくるのは女性であると、ちゃんと姫様はご存じでおられます。そうと知ってはいても、ニコラ様が男の方にしか思えなくてあのようにひどく緊張なされてしまったのでしょう。何しろあまりの美男子ぶりですもの」

「そ、そうですか……いや、でもおどろきました、あんなふうになってしまうのですか……」

「ええ、姫様は男の方と向かい合うだけであのように大変な状態におちいってしまう御方で」


 なにとぞよろしくお願いしますと頭を下げられ、ニコラはごくりと唾をのんだ。国王たちの話では、男慣れしていなくて会話もままならない姫君だと聞いていたけれど、それ以上のようだ。会話どころか、相対するだけであんなにも青ざめてガチガチになってしまうとは。


(でも頑張らないと! 陛下に婿を用意してもらえる機会なんて絶対のがせない……!)


 そうしてアリアンヌ宮にまり込んでの特訓の日々が始まったのだった。

 立派な客室をあたえられ、ごうな食事も朝昼晩たっぷり与えられて、ニコラは側仕えというよりほとんど客人のように扱われた。

 ニコラに課せられた役目は、己の客室で毎日、王女と差し向かいでお茶の時間を共にすること。男にしか見えないニコラとガッツリ向かい合って毎日欠かさず交流をもつことで、王女を男慣れさせよう、ということらしい。なのでニコラは勿論、男装姿で王女をおむかえする。わりで用意される高級な仕立ての宮廷服やら騎士服やらをきっちり着用して、毎日小一時間ほど、ニコラは王女と向かい合うことになった。

 はじめはひどいものだった。ニコラの向かい側のソファに腰掛けた王女はお茶の時間のあいだずっと、青ざめた顔を深くうつむけて、石像のごとく固まるばかりだった。じろぎせず、紅茶にも類にも一切手をつけられず、勿論、声だって一言も発せられない。

 ニコラはなんとか己の存在に慣れてもらわねばと、とにかく話しかけ続けた。舞踏会でニコラを巡って巻き起こった令嬢たちのこうそうの話やら、結婚前の友人メラニーがたま輿こしに乗るためくわだてていたさくぼうの話やら、思いつく限りの手持ちの面白話をろうしまくった。

 あいづちも反応もない相手に向かってひたすらしゃべりまくるのはなかなかの苦行だったが、それでも懸命に毎日話しかけ続けているうちに、王女の変化は少しずつだが現れ始めた。

 徐々に顔を上げられるようになってきて、時折、ほんのいっしゅんながらもニコラと目が合うようになった。ニコラの話に対して、の鳴くような声で相槌らしき言葉を発してくれるようにもなった。顔色もマシになってきて、焼き菓子をいくつか摘まむ余裕も出てきた。

 そしてある日のお茶会で、ついにそのときはやってきた。ミグラスていろうれい使用人たちが次々ぎっくりごしわれた際にかたぱしから抱き上げて救出し続けていたら最後にはニコラまでぎっくり腰になってしまった、というちんそうどうの話を披露したときのことだ。

「まあ、大変……! もうニコラ様の腰のお加減はよろしいのですか?」と、王女のほうから、ニコラに声をかけてくれたのである。しかも顔をしっかりとあげて、ニコラの目をまっすぐに見ながら、である。ニコラはかんきわまって思わずなみだしそうになった。かべぎわに控えて見守っている侍女たちなんてつうに全員泣いていた。ニコラはかつてのぎっくり腰多発事件に大感謝した。

 そこからは、もう速かった。ニコラに対する王女の緊張ぶりは急速にほどけていったのである。気がつけば、ニコラがアリアンヌ宮にやってきてからひと月あまりがとうとしていた。季節はすっかり、夏のさかりのただなかとつにゅうしていた。


「ごきげんよう、ニコラ様」


 定刻の午後二時、ニコラの客室に、控えめなほほみをたたえた王女が現れる。


「お待ちしておりました、殿下!」

「本日もお付き合いくださってどうもありがとう。よろしくお願いいたしますね」


 目を合わせて言葉をわしながら、ふたりはソファに差し向かいに腰掛ける。間のたくじょうにはすでにお茶の支度が完璧に調ととのっている。


「連日暑さが続いていますけれど、ニコラ様、おつらくはありませんか?」

「いえいえ、特に辛いなんてことは全然! この暑さのおかげで果実もひときわ美味おいしく感じられますし! こちらでいただくしんせんな果実はいつも本当にみずみずしくて美味しくて、ありがたく味わわせてもらってます!」

「本日のかんきつはガルフォッツォ産の希少なものなのですって。独特の酸味が癖になるのだとか。さっそくいただきましょうか」


 実になごやかにお茶の時間が始まる。王女はくつろいだ様子で、ゆったりとティーカップをかたむけている。どうぞたくさん召し上がって、料理長まんのこちらの焼き菓子もぜひ、とあれこれニコラに話しかけてくれて、可憐な笑みもしげもなく向けてくれる。

 ニコラはかんがいぶかかった。当初のガチガチぶりがうそのように、王女は今や、すっかり打ち解けてくれている。おのずと笑みがこぼれるニコラと同様に、壁際に控えている侍女たちもうれしげに微笑んでいた。彼女たちのみならず、アリアンヌ宮の面々は皆、心底あんしているようだ。何せ、男とまごうニコラを相手にここまで打ち解けられたのだ、王女は今や男慣れをほとんど習得できたといっていい。輿入れに向けて不安の芽はなくなったのだ。

 ニコラも胸をなで下ろしていた。これでお役目は果たせたといえるだろう。約束どおり、国王に褒美の婿を世話してもらえるはず。もう婿探しに苦労することもないのだ。


「わあ、本当ですね殿下、この柑橘の独特な酸味は確かに癖になる感じが!」

「ええ、めずらしい味わいが致しますわね」


 ほっそりした指先で上品に柑橘を摘まんでいた王女が、ふと顔を上げる。


「そうでしたわニコラ様、明日のことなのですけれど。わたくし明日はこちらにうかがえない

のです。大変残念なのですけれど」

「あ、はい承知致しました! ですけど本当に毎日たくさんの講義で大変ですねぇ……」


 輿入れを控えた王女は実にぼうで、諸外国の言語や歴史をみっちり学んだり、ガルフォッツォ王国風の各種衣装をあつらえたりと、分刻みで毎日めまぐるしく過ごしているという。男慣れ特訓のためにける時間は毎日ほんの小一時間しかなく、近頃ではそれも時折なくなったりすることがあった。もっと優先すべき講義の予定がとっぱつ的に入るのだ。

 しかし王女は、しょうの中にややゆううつそうな色を浮かべて、首を横にふった。


「明日にきゅうきょ入った予定は、使者との面会なのです。わたくしとしてはニコラ様との時間を優先させたいのですけれど、父王のもとから来る使者をおろそかにはできないものですから」

「陛下の使者がこちらに……?」

「ええ、男の方が。わたくしの……今の状態を確かめたいようです」


 ああ、とニコラは納得した。男慣れ特訓をひと月あまり続けてきた王女は今どのくらいの成長具合なのか、国王の使者が成果を見に来るということらしい。それで王女はどことなくものげな様子なのだ。


「大丈夫ですよ殿下、ほとんど男の外見な私とここまで完璧に打ち解けておられるんですから! 男の使者が相手だって、面会もかんだんも余裕でこなせちゃいますよ絶対!」


 ニコラが両のこぶしをにぎって力説すると、王女はくすりと笑い声をもらして深く頷いた。


「どうもありがとう。ええ、わたくしもニコラ様との日々を経て、かなり変わることができたと思っているのです。今までのあまりにひどい有様と比べたら、本当にちがえるほど」


 王女がるように、空色の目をせる。


「わたくしときたら肉親である父王とさえも、まともに相対することができなかったのですもの。硬直して俯くばかりで会話もできず……兄も五人もいるのですけれど、どなたに対してもやはり同じ有様で。顔を合わせる機会がもっと多かったなら違ったのかしら……」

「あまりお会いになることはなかったのですか?」

「ええ、何しろこちらの離宮と王都とではきょがありますでしょう? 父王や兄上たちがこちらに訪ねてきてくださったのは数えるほどで……それぞれにおいそがしいことですし。それでも母上はよく来て下さっていたのですけれど」


 王女はふと言葉を切って、悲しげに微笑んだ。


「父王はともかく、兄上たちがわたくしをあまり訪ねてこられなかったのは、距離や多忙だけが理由ではないのですけれど。こちらによくたいざいしていたわたくしの母上とはち

わせしないようにと、兄上たちははいりょしておられたから……」

「え、お后様と王子殿下たちが鉢合わせしてはまずいのですか?」

「母上はあまり良い感情を持っていないのです……自分ではない女たちが産んだ王子たちに対して」


 ニコラは無言で納得した。なるほど、今の后が生んだは、このアリアンヌ王女のみであるようだ。他の王子たちの生母は、先妻なのかめかけなのかはわからないがとにかく他の女たちであって、自分以外の女が産んだ御子たちの存在が后は気に入らないのだろう。


(そういえば謁見の間ででも、なかなかもち焼きな感じだったっけ……陛下も見境ない女好きみたいな言われ方してたなぁ……メラニーだったら王家のそこらへんのみ入った事情も抜かりなくあくしてそう)


 しばらく会えていない情報通な友人を思い出してニコラはふときょうしゅうにかられてしまった。


(つまり王女殿下は、五人の王子殿下たちと異母兄妹の間柄なんだなぁ……その異母っていうのも複数人いるみたいだし複雑そうな関係性だけど……でも少し羨ましいなぁ、そんなにきょうだいがいるのって)


 ニコラの両親はニコラ同様あまり貴族向きではなく、ちっぽけな領地の管理ですら手に余って四六時中あわあわしているような人たちであるのでニコラの結婚問題に気持ちを割く余裕もなく、そこらのことはだいぶったらかしにされていた。だからせめて頼れる兄弟がひとりでもいれば良かったのになぁとニコラはよく思ったりするのだ。


「わたくしも、いつか……」


 ぽそりと呟く小声が聞こえて、ニコラは王女のほうへ目を向けた。王女は、うれいを帯びた空色の垂れ目で、窓の外を見つめていた。

 アリアンヌ宮の三階に位置するこの客室からは、海がわたせる。おだやかな内海が。その向こう側には、王女の輿入れ先である灼熱のガルフォッツォ王国が広がっている。


「わたくしも母上のようにりんさいなまれるのかしら……わたくしの夫になる御方も、わたくし以外の女性をでたりするのかしら……」


 遠い未来を見据えるような目で内海の向こうを見つめながら独りごちる姿に、ニコラは胸が痛くなった。


(そっか、この方も輿入れしてガルフォッツォの王太子になったあとにはいずれ王妃の立場になる身なんだ、お母君と同じように。そりゃ色々心配にもなるだろうなぁ……自分ときょうだいと両親との複雑な関係性を自分の未来に重ねたら……)


 内海の向こう側にあるガルフォッツォ王国の港町までは船でほんの数時間もあれば着くという。距離としては近くとも、しかしそこは異国だ。言葉も文化も気候も大きく異なる地。そんなところへ嫁いでいくだけでも不安はきないだろうに、そのうえ未来のそういった心配までかかえなくてはいけないとは。それもまだ十四歳という若さで。


「そんなことはないですよ殿下! 殿下のような御方を伴侶に迎えたら、もう他の女性のことなんて絶対に目に入らなくなるに決まってますからっ!」

「まあ、ニコラ様……どうもありがとう」


 王女は微笑むが、そこにはまだ物憂げな陰がく残り、ニコラはなんだか切なくなる。


(この夏が去ったら、この方はもうあちらの地か……幸せに暮らしてほしいなぁ……ごこんやく者の王太子様、てきな人だといいな)


 ニコラはひそかにそういのった。このひと月あまりの間にニコラは外見のみならずひとがららしいこの王女のことをすっかり好ましく思うようになっていた。


(うーん、でもお相手の王太子様、ガルフォッツォの男の人だからなぁ……)


 何しろ、灼熱のガルフォッツォ王国といえば情熱の国だと、ガルフォッツォ男といえば無類の女好きだと、いつだったかメラニーも言っていた。そんな国の王族ともなれば、けたはずれのとんでもない女好き、みたいな人だったりするのではないかと心配になってしまう。


「あのっ、殿下、あちらの国へお輿入れなさったあとにお辛いことなどありましたら、良かったら私のこと、どうぞ呼び出してやってくださいね! いや、私じゃ何もできませんけども、ちょっとした気晴らしの相手くらいにはなれるかもしれませんので……! お心も少しは軽くなるかもしれませんし!」

「まあ……その言葉だけでわたくし、今とても心が軽くなりましたわ。ニコラ様は、これまでにガルフォッツォ王国にこうされたことがおありなの?」

「あっ、いえ、それはないんですけども……他の異国へも渡航経験はまったく……で、ですけども殿下がお呼びとあればすぐさま飛んでいきますからっ!」

「ありがとう、ニコラ様……心強いですわ、本当に」


 王女は嬉しげに微笑んで、ティーカップをそっと持ち上げた。ニコラも、この王女のために自分のできる限りのことをしようとしみじみ思いながら、かわいたのどを紅茶でうるおした。

 この日課のお茶会でふるまわれるのは、紅茶も菓子類も非常に美味な高級品ばかりである。初めのうちはそれを味わう余裕もなかったものだが、今ではその味も香りも見た目もしっかりたんのうできるようになっていた。


(薔薇の形の砂糖、いつも美味しいなぁ、見た目も可愛いし……こっちのミルク色の新顔のも冷たくて美味しい……あ、さっきの希少な柑橘ももっと食べとかないと!)


 ミグラス邸ではとうてい用意できないような品ぞろえの菓子たちを前に、ニコラはあちこち目移りしつつ、ついついあれこれ摘まんでしまう。

 向かい側で、王女がくすくすと楽しげな笑い声をもらす。


「ニコラ様もやはり女の方ですのね。こんなにも美男子のごとき外見をお持ちですのに、目をきらめかせてとっても幸せそうにお菓子を味わっていらっしゃるお姿を見ているとやはり女の方なのだと実感致しますわ」

「そ、そうですかね……?」


 だん言われることのない言葉に思わず少し照れてしまって、ニコラは紅茶を一気にがば

りとあおった。


「ニコラ様は、そういえば、常に男装姿でいらっしゃると侍女が申しておりましたけれど」

「あ、はい……」


 ニコラは、王女とのお茶会は男装姿でのぞむようにと申しつけられているが、それ以外の時間は特に着るものを定められてはいなかった。侍女たちは毎日、ニコラのために、ドレスや貴族令嬢らしい部屋着もふくめたいくつかの衣装を用意してくれている。

 が、その中からニコラはいつも、自ら男物を手に取っていた。


「ドレスはおきらいなのかしら?」

「あ、えっと、気づいたらこの格好が当たり前になってしまっていて、普段着慣れていないものはちょっと選びにくくて……家にも女物はないくらいなので、私……」


 まあ、と王女は目を丸くしてから、ひとつ頷いた。


「わかる気が致します。ごろ着慣れていないものにはていこうを感じますものね。わたくしも今、ガルフォッツォ風の衣装をいくつか仕立てていますけれど……あちらのドレスはかなりはだの露出が多いものですから、着るのがどうしても恥ずかしくて」

「ああ、かなり暑い国の衣装ですもんねぇ」


 しかしアリアンヌ王女ならば、うでや肩を思いっきり出すようなドレスであっても品良く可憐に着こなせるのだろうなとニコラは思う。王女の可憐さには毎日向かい合っていても見慣れるということはない。女の子らしいふわふわとした愛くるしさ、守ってあげたくなるようなはかなさは、たびたびニコラの目をひいた。見とれてしまうたびに、まるで正反対の我が身のことを思ってニコラはついついしょげてしまう。こんな可愛さのかたまりのような容姿で生まれてみたかったなぁと、思っても仕方のないことを思ってしまう。


「婚約者と対面した際も、ガルフォッツォ風のドレスで赴く予定でいたのですけれど、どうしても恥ずかしくて断念してしまいましたの。ですからこちら風の正装で臨みました」

「あ、ご婚約者の王太子様とお会いしたことがおありなのですね」

「ええ、数ヶ月前……春ごろに、一度だけ顔合わせの機会がありました」

「あのう、どんな御方だったのですか、お相手の王太子様は……?」


 ニコラはおそるおそる聞いてみる。見るからに女好きな、いかにもなガルフォッツォ男、みたいな人間だったのならどうしようとハラハラしつつ。

 しかし王女は困り顔で首を横にふった。


「あちらの御方のことは何も覚えていないのです。例によって、ひどい緊張をしていたものですから……恥ずかしながらわたくし、失神をしてしまって……」

「しっ、失神ですか!」

「ええ……あの日は初めからひたすら俯きっぱなしで、婚約者のお姿を見ることも会話することもろくにできないうちに、ばったりと失神を……ああ、なんて情けないのでしょう」


 王女が可愛らしくため息をつく。


「そのことがあって、父王はわたくしの現状に強い危機感を抱いたようです。わたくしが男の方を苦手としていることは前々から父王もご存じでしたけれど、まさか失神するほどじゅうしょうとは思ってもみなかったのでしょうね……それでニコラ様に、このたびの特訓のらいをなさったのだと思いますわ」


「ああ、なるほどそういった経緯いきさつで!」

「ですからあちらの御方については、わたくしはほとんど存じ上げず……顔合わせの際に同席していた女官長によると、いきなり失神したわたくしをとっにしっかり支えてくださった素敵な殿とのがただったそうですけれど。としは、二十一だったかしら」

「あ、そんなにねんれい差のないお相手なのですね! 良かった、王家の御方同士だととんでもない年の差での婚姻もあると聞きますから」

「ええ、距離も縮めやすそうですし、年の近い御方で良かったと思っておりますの。そう、距離をしっかり縮められるよう、あとはガルフォッツォ語も万全にしておかなくては」

「昔から習っておいでなのでしょう?」

「他の諸外国の言語とこんがらがってしまって、少々仕上がりに不安が残っているのです。ニコラ様は? 語学はお得意なのかしら」

「私はガルフォッツォ語くらいしか。それですらりゅうちょうとはいえない感じですねぇ……」


 ニコラは苦笑いをこぼす。以前はミグラス邸にも若い語学教師が数人いたのだが、皆すぐに去って行ったのである。女性教師はイケメンなニコラに夢中になりすぎておかしくなり、男性教師はニコラへのしっでおかしくなり、語学教師に限らず礼儀作法の教師も使用人も若手は皆そんな感じで、かつてのミグラス邸ではおんな争いがひんぱつしていた。その結果、若手たちはへいしきってめていったり辞めさせられたりして姿を消し、そして今のミグラス邸は血の気の多くない落ち着ききった老齢使用人のみという現状に至ったのである。


「しかし殿下は習得すべきものが本当に多種多様で大変ですねぇ……語学だけでなくダンスなども諸外国のものを色々と習っておられるのでしたよね」

「ダンスには楽しんで取り組んでいますから学習という感じもしないのです。楽しくとも、どの国のダンスも不得手ではあるのですけれど。わたくし、ステップが不格好で……」

「あ、よろしければ練習相手になりましょうか? 私、ダンスの男役はやり慣れてるので」


 何せニコラはあちこちの舞踏会で令嬢たちにせがまれてさんざん相手を務めてきた身である。リードはお手の物だ。


「まあ……よろしいのですか?」

「勿論です! 何でしたら今ここででも全然構いませんし」


 立ち上がって手を差し出せば、王女もおずおずと立ち上がった。楽の音もない室内でゆったりと踊りはじめると、壁際の侍女たちがうっとりと見つめてくるのがわかった。

 踊りながら、ニコラは王女の体格のか細さに改めて驚かされる。


(本当に小柄なんだなぁ……ほっそりした肩……手も小さくて私とは大違いだ……)


 あまりの差に段々と切ない気分になってくる。羨みの気持ちがき起こってきてしまう。

 軽々と見下ろしてしまえる小柄さも、儚く折れてしまいそうなきゃしゃさも、どれも自分には備わっていないもの。やわらかくひるがえる美しいドレスも自分には到底似合わないもの。

 子どもの時分にはニコラだって、可愛らしい女物を着用していたりもしたのだ。しかし、

十三歳ごろからだろうか、身長がめきめきと伸

びてイケメン化が急加速し、周囲からきゃあ

きゃあ騒がれはじめて男装を求められだして、いつのまにやら着なくなっていたのである。

 ニコラの中には実のところ、思いっきり女の子らしい衣装を身にまとってみたいというひそかなあこがれがあったりもするのだが、実際にそうしてみる気はさらさらなかった。似合わないに決まっているものを自ら手に取って着用するのはなかなか難しいことだった。


(なんか女物ってだけで今さらずかしいし……すっかりイケメンに染まりすぎちゃっ

たかな。女物を着る機会なんて今後もないのかも……ましてやドレスで踊る機会なんて)


 ニコラはもはや男役ばかり何年もにないすぎて、女役のステップはぼうきゃく彼方かなたなのだった。ため息も切なさも押し殺して、ニコラはイケメンとして王女をリードし続けた。

 窓からき込んでくる夏風の中には、ほんのかすかに、秋の気配が含まれていた。王女の輿入れ時期は秋、もうじきなのだ。王女は今やニコラとここまで打ち解けていて、男慣れもしっかりできている。この離宮での自分のお役目もそろそろ終わるんだなぁと、ニコラはなんとも感慨深い気持ちで、そう思った。

 しかし、アリアンヌ宮にげきしんが走ったのはその翌日のことである。国王より遣わされた男性使者と対面した王女が、あえなくげきちんした! との報が駆け巡ったのだ。

 王女は顔面蒼白になり石のごとく硬直し、使者とは言葉ひとつ交わせなかったという。ニコラとの男慣れ特訓以前と何ら変わらぬ緊張状態に陥ったのだ。王女はまったく男慣れできていなかったわけで、アリアンヌ宮の面々はらくたんした。

 ニコラもまた、夕刻の客室で王女撃沈の件を知り、愕然とした。


(私、全然お役に立ててなかった……! どうして……!?)


 ニコラは室内の大きな姿見に映る己をぼうぜんと見つめる。今日はあざやかな青を基調とした華やかな宮廷服を着用していた。夏の盛りにふさわしい、見るからに涼しげな色合いで、どこからどう見てもイケメンだ。男だ。この自分とあれほど打ち解けていた王女なのに、まさか全然男慣れできていなかっただなんて。

 そこでニコラは、はっと思い出す。昨日のお茶会で王女が言っていたことを。


(そうだ、お菓子にがっついてる私を見て、私のことをやはり女だと実感するって、そうおっしゃってた……! そっか、お菓子食べてる場面に限らず、私の仕草とかふるまいはたぶんずっとそんな感じだったんだ、男らしさがなかったんだ……だから殿下もきっと、いつからか、私のことを完全に女性だと感じるようになって、女性同士として接するようになってたのかも……! 男慣れの特訓になんて、なってなかったんだ……!)


 ニコラはがっくりとうなだれる。


(私の失態だ……私は外見以外にも気を配って、積極的に仕草とかふるまいも男寄りにしようと心がけるべきだったんだ……!)


 持ち前のイケメン容姿にあぐらをかいて、ただ男装姿で王女と相対するだけだった己をニコラはやんだ。なんとかしなければならない。王女もいまごろ、男慣れできていなかった己に落ち込んでがっくり来ているかもしれない。なんとかしてあげたい。

 それに、ニコラの婿取りもこのままではあやうい。王女がじゅうぶんに男慣れを習得した状態で、ガルフォッツォ王国に無事に輿入れすること。それが、ニコラが褒美の婿を得るための条件なのだ。


(これからは意識的にもっと、ちゃんと男性っぽくしないと! 今度こそ、ちゃんとした刺激物にならなくちゃ……!)


 しかしどうやって本物の男性らしくふるまうかが問題だ。これまで男性から遠巻きにされるばかりだったニコラの頭の中には参考にできるおくはない。かといって女の園であるここでは実際に誰か男性を手本にすることもできない。ならば街の酒場にでも繰り出して生身の男性たちを観察してこようかとも考えるが、しかしそれも難しかった。ニコラの行動は離宮内の、この三階のみに制限されているのだ。輿入れの近い王女の側に得体の知れないなぞのイケメンがはべっていて何やらあやしいぞ、などというらちうわさがたたぬように。


(でも事情を話して許可を得れば行けるかな……? 女官長に相談しに行こうか……)


 夕日のし込む客室でひとり、うんうんとうなって考え込んでいたニコラは、いつのまに

か室内にふたりの侍女がたたずんでいることに気づいてぎょっとした。ノック音はなかったはずなのに、いつのまに。

 見覚えのない侍女たちだった。新入りなのだろうかとその顔をじっと確かめてみて、ニコラはふとかんを覚える。

 その侍女たちは、ニコラを冷ややかな目で見つめてくるのだ。女性という女性は、たいていみんなニコラにぽうっとなるものなのに、宮廷服でバチバチにキメて貴公子然としているニコラに対してこんなにも冷たい視線を向けてくるなんて、なんだかみょうな気がした。


(こういう目を私に向けてくるって、まるで男の人……いや、でもそんなわけは……)


 なんだかぞわりとして、ニコラは無意識に一歩、後ずさった。すると侍女たちが突然、ばやく動いた。ニコラは気がつくと、口元に湿しめった布を押し当てられていた。

 異様なにおい、きょうれつまい。息ができず、頭の中が真っ白にかすむ。力が抜ける。

 そしてニコラの意識はぷつりとれた。

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