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*****
アリアンヌ王女のための離宮――
アリアンヌ宮に
応接間では、
空色の
「お初にお目にかかります、王女殿下! ニコラ・ミグラスと申します、お会いできて光栄ですっ!」
意気込んで
取り残されたニコラは
「ニコラ様、大変申し訳ないのですけれど、姫様との顔合わせはまた日を改めて……」
「それは全然かまいませんけども、あの……私が女だということを、王女殿下は……?」
「勿論、姫様の男慣れ特訓のために
「そ、そうですか……いや、でも
「ええ、姫様は男の方と向かい合うだけであのように大変な状態に
(でも頑張らないと! 陛下に婿を用意してもらえる機会なんて絶対のがせない……!)
そうしてアリアンヌ宮に
立派な客室を
ニコラに課せられた役目は、己の客室で毎日、王女と差し向かいでお茶の時間を共にすること。男にしか見えないニコラとガッツリ向かい合って毎日欠かさず交流をもつことで、王女を男慣れさせよう、ということらしい。なのでニコラは勿論、男装姿で王女をお
はじめはひどいものだった。ニコラの向かい側のソファに腰掛けた王女はお茶の時間のあいだずっと、青ざめた顔を深く
ニコラはなんとか己の存在に慣れてもらわねばと、とにかく話しかけ続けた。舞踏会でニコラを巡って巻き起こった令嬢たちの
徐々に顔を上げられるようになってきて、時折、ほんの
そしてある日のお茶会で、ついにそのときはやってきた。ミグラス
「まあ、大変……! もうニコラ様の腰のお加減はよろしいのですか?」と、王女のほうから、ニコラに声をかけてくれたのである。しかも顔をしっかりとあげて、ニコラの目をまっすぐに見ながら、である。ニコラは
そこからは、もう速かった。ニコラに対する王女の緊張ぶりは急速にほどけていったのである。気がつけば、ニコラがアリアンヌ宮にやってきてからひと月あまりが
「ごきげんよう、ニコラ様」
定刻の午後二時、ニコラの客室に、控えめな
「お待ちしておりました、殿下!」
「本日もお付き合いくださってどうもありがとう。よろしくお願い
目を合わせて言葉を
「連日暑さが続いていますけれど、ニコラ様、お
「いえいえ、特に辛いなんてことは全然! この暑さのおかげで果実もひときわ
「本日の
実に
ニコラは
ニコラも胸をなで下ろしていた。これでお役目は果たせたといえるだろう。約束どおり、国王に褒美の婿を世話してもらえるはず。もう婿探しに苦労することもないのだ。
「わあ、本当ですね殿下、この柑橘の独特な酸味は確かに癖になる感じが!」
「ええ、
ほっそりした指先で上品に柑橘を摘まんでいた王女が、ふと顔を上げる。
「そうでしたわニコラ様、明日のことなのですけれど。わたくし明日はこちらに
のです。大変残念なのですけれど」
「あ、はい承知致しました! ですけど本当に毎日たくさんの講義で大変ですねぇ……」
輿入れを控えた王女は実に
しかし王女は、
「明日に
「陛下の使者がこちらに……?」
「ええ、男の方が。わたくしの……今の状態を確かめたいようです」
ああ、とニコラは納得した。男慣れ特訓をひと月あまり続けてきた王女は今どのくらいの成長具合なのか、国王の使者が成果を見に来るということらしい。それで王女はどことなく
「大丈夫ですよ殿下、ほとんど男の外見な私とここまで完璧に打ち解けておられるんですから! 男の使者が相手だって、面会も
ニコラが両の
「どうもありがとう。ええ、わたくしもニコラ様との日々を経て、かなり変わることができたと思っているのです。今までのあまりにひどい有様と比べたら、本当に
王女が
「わたくしときたら肉親である父王とさえも、まともに相対することができなかったのですもの。硬直して俯くばかりで会話もできず……兄も五人もいるのですけれど、どなたに対してもやはり同じ有様で。顔を合わせる機会がもっと多かったなら違ったのかしら……」
「あまりお会いになることはなかったのですか?」
「ええ、何しろこちらの離宮と王都とでは
王女はふと言葉を切って、悲しげに微笑んだ。
「父王はともかく、兄上たちがわたくしをあまり訪ねてこられなかったのは、距離や多忙だけが理由ではないのですけれど。こちらによく
「え、お后様と王子殿下たちが鉢合わせしてはまずいのですか?」
「母上はあまり良い感情を持っていないのです……自分ではない女たちが産んだ王子たちに対して」
ニコラは無言で納得した。なるほど、今の后が生んだ
(そういえば謁見の間ででも、なかなか
しばらく会えていない情報通な友人を思い出してニコラはふと
(つまり王女殿下は、五人の王子殿下たちと異母兄妹の間柄なんだなぁ……その異母っていうのも複数人いるみたいだし複雑そうな関係性だけど……でも少し羨ましいなぁ、そんなにきょうだいがいるのって)
ニコラの両親はニコラ同様あまり貴族向きではなく、ちっぽけな領地の管理ですら手に余って四六時中あわあわしているような人たちであるのでニコラの結婚問題に気持ちを割く余裕もなく、そこらのことはだいぶ
「わたくしも、いつか……」
ぽそりと呟く小声が聞こえて、ニコラは王女のほうへ目を向けた。王女は、
アリアンヌ宮の三階に位置するこの客室からは、海が
「わたくしも母上のように
遠い未来を見据えるような目で内海の向こうを見つめながら独りごちる姿に、ニコラは胸が痛くなった。
(そっか、この方も輿入れしてガルフォッツォの王太子
内海の向こう側にあるガルフォッツォ王国の港町までは船でほんの数時間もあれば着くという。距離としては近くとも、しかしそこは異国だ。言葉も文化も気候も大きく異なる地。そんなところへ嫁いでいくだけでも不安は
「そんなことはないですよ殿下! 殿下のような御方を伴侶に迎えたら、もう他の女性のことなんて絶対に目に入らなくなるに決まってますからっ!」
「まあ、ニコラ様……どうもありがとう」
王女は微笑むが、そこにはまだ物憂げな陰が
(この夏が去ったら、この方はもうあちらの地か……幸せに暮らしてほしいなぁ……ご
ニコラはひそかにそう
(うーん、でもお相手の王太子様、ガルフォッツォの男の人だからなぁ……)
何しろ、灼熱のガルフォッツォ王国といえば情熱の国だと、ガルフォッツォ男といえば無類の女好きだと、いつだったかメラニーも言っていた。そんな国の王族ともなれば、
「あのっ、殿下、あちらの国へお輿入れなさったあとにお辛いことなどありましたら、良かったら私のこと、どうぞ呼び出してやってくださいね! いや、私じゃ何もできませんけども、ちょっとした気晴らしの相手くらいにはなれるかもしれませんので……! お心も少しは軽くなるかもしれませんし!」
「まあ……その言葉だけでわたくし、今とても心が軽くなりましたわ。ニコラ様は、これまでにガルフォッツォ王国に
「あっ、いえ、それはないんですけども……他の異国へも渡航経験はまったく……で、ですけども殿下がお呼びとあればすぐさま飛んでいきますからっ!」
「ありがとう、ニコラ様……心強いですわ、本当に」
王女は嬉しげに微笑んで、ティーカップをそっと持ち上げた。ニコラも、この王女のために自分のできる限りのことをしようとしみじみ思いながら、
この日課のお茶会でふるまわれるのは、紅茶も菓子類も非常に美味な高級品ばかりである。初めのうちはそれを味わう余裕もなかったものだが、今ではその味も香りも見た目もしっかり
(薔薇の形の砂糖
ミグラス邸では
向かい側で、王女がくすくすと楽しげな笑い声をもらす。
「ニコラ様もやはり女の方ですのね。こんなにも美男子のごとき外見をお持ちですのに、目をきらめかせてとっても幸せそうにお菓子を味わっていらっしゃるお姿を見ているとやはり女の方なのだと実感致しますわ」
「そ、そうですかね……?」
りとあおった。
「ニコラ様は、そういえば、常に男装姿でいらっしゃると侍女が申しておりましたけれど」
「あ、はい……」
ニコラは、王女とのお茶会は男装姿で
が、その中からニコラはいつも、自ら男物を手に取っていた。
「ドレスはお
「あ、えっと、気づいたらこの格好が当たり前になってしまっていて、普段着慣れていないものはちょっと選びにくくて……家にも女物はないくらいなので、私……」
まあ、と王女は目を丸くしてから、ひとつ頷いた。
「わかる気が致します。
「ああ、かなり暑い国の衣装ですもんねぇ」
しかしアリアンヌ王女ならば、
「婚約者と対面した際も、ガルフォッツォ風のドレスで赴く予定でいたのですけれど、どうしても恥ずかしくて断念してしまいましたの。ですからこちら風の正装で臨みました」
「あ、ご婚約者の王太子様とお会いしたことがおありなのですね」
「ええ、数ヶ月前……春
「あのう、どんな御方だったのですか、お相手の王太子様は……?」
ニコラはおそるおそる聞いてみる。見るからに女好きな、いかにもなガルフォッツォ男、みたいな人間だったのならどうしようとハラハラしつつ。
しかし王女は困り顔で首を横にふった。
「あちらの御方のことは何も覚えていないのです。例によって、ひどい緊張をしていたものですから……恥ずかしながらわたくし、失神をしてしまって……」
「しっ、失神ですか!」
「ええ……あの日は初めからひたすら俯きっぱなしで、婚約者のお姿を見ることも会話することもろくにできないうちに、ばったりと失神を……ああ、なんて情けないのでしょう」
王女が可愛らしくため息をつく。
「そのことがあって、父王はわたくしの現状に強い危機感を抱いたようです。わたくしが男の方を苦手としていることは前々から父王もご存じでしたけれど、まさか失神するほど
「ああ、なるほどそういった
「ですからあちらの御方については、わたくしはほとんど存じ上げず……顔合わせの際に同席していた女官長によると、いきなり失神したわたくしを
「あ、そんなに
「ええ、距離も縮めやすそうですし、年の近い御方で良かったと思っておりますの。そう、距離をしっかり縮められるよう、あとはガルフォッツォ語も万全にしておかなくては」
「昔から習っておいでなのでしょう?」
「他の諸外国の言語とこんがらがってしまって、少々仕上がりに不安が残っているのです。ニコラ様は? 語学はお得意なのかしら」
「私はガルフォッツォ語くらいしか。それですら
ニコラは苦笑いをこぼす。以前はミグラス邸にも若い語学教師が数人いたのだが、皆すぐに去って行ったのである。女性教師はイケメンなニコラに夢中になりすぎておかしくなり、男性教師はニコラへの
「しかし殿下は習得すべきものが本当に多種多様で大変ですねぇ……語学だけでなくダンスなども諸外国のものを色々と習っておられるのでしたよね」
「ダンスには楽しんで取り組んでいますから学習という感じもしないのです。楽しくとも、どの国のダンスも不得手ではあるのですけれど。わたくし、ステップが不格好で……」
「あ、よろしければ練習相手になりましょうか? 私、ダンスの男役はやり慣れてるので」
何せニコラはあちこちの舞踏会で令嬢たちにせがまれてさんざん相手を務めてきた身である。リードはお手の物だ。
「まあ……よろしいのですか?」
「勿論です! 何でしたら今ここででも全然構いませんし」
立ち上がって手を差し出せば、王女もおずおずと立ち上がった。楽の音もない室内でゆったりと踊りはじめると、壁際の侍女たちがうっとりと見つめてくるのがわかった。
踊りながら、ニコラは王女の体格のか細さに改めて驚かされる。
(本当に小柄なんだなぁ……ほっそりした肩……手も小さくて私とは大違いだ……)
あまりの差に段々と切ない気分になってくる。羨みの気持ちが
軽々と見下ろしてしまえる小柄さも、儚く折れてしまいそうな
子どもの時分にはニコラだって、可愛らしい女物を着用していたりもしたのだ。しかし、
十三歳
の
びてイケメン化が急加速し、周囲からきゃあ
きゃあ騒がれはじめて男装を求められだして、いつのまにやら着なくなっていたのである。
ニコラの中には実のところ、思いっきり女の子らしい衣装を身にまとってみたいというひそかな
(なんか女物ってだけで今さら
たかな。女物を着る機会なんて今後もないのかも……ましてやドレスで踊る機会なんて)
ニコラはもはや男役ばかり何年も
窓から
しかし、アリアンヌ宮に
王女は顔面蒼白になり石のごとく硬直し、使者とは言葉ひとつ交わせなかったという。ニコラとの男慣れ特訓以前と何ら変わらぬ緊張状態に陥ったのだ。王女はまったく男慣れできていなかったわけで、アリアンヌ宮の面々は
ニコラもまた、夕刻の客室で王女撃沈の件を知り、愕然とした。
(私、全然お役に立ててなかった……! どうして……!?)
ニコラは室内の大きな姿見に映る己を
そこでニコラは、はっと思い出す。昨日のお茶会で王女が言っていたことを。
(そうだ、お菓子にがっついてる私を見て、私のことをやはり女だと実感するって、そう
ニコラはがっくりとうなだれる。
(私の失態だ……私は外見以外にも気を配って、積極的に仕草とかふるまいも男寄りにしようと心がけるべきだったんだ……!)
持ち前のイケメン容姿にあぐらをかいて、ただ男装姿で王女と相対するだけだった己をニコラは
それに、ニコラの婿取りもこのままでは
(これからは意識的にもっと、ちゃんと男性っぽくしないと! 今度こそ、ちゃんとした刺激物にならなくちゃ……!)
しかしどうやって本物の男性らしくふるまうかが問題だ。これまで男性から遠巻きにされるばかりだったニコラの頭の中には参考にできる
(でも事情を話して許可を得れば行けるかな……? 女官長に相談しに行こうか……)
夕日の
か室内にふたりの侍女が
見覚えのない侍女たちだった。新入りなのだろうかとその顔をじっと確かめてみて、ニコラはふと
その侍女たちは、ニコラを冷ややかな目で見つめてくるのだ。女性という女性は、たいていみんなニコラにぽうっとなるものなのに、宮廷服でバチバチにキメて貴公子然としているニコラに対してこんなにも冷たい視線を向けてくるなんて、なんだか
(こういう目を私に向けてくるって、まるで男の人……いや、でもそんなわけは……)
なんだかぞわりとして、ニコラは無意識に一歩、後ずさった。すると侍女たちが突然、
異様な
そしてニコラの意識はぷつりと
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