第3話

鍋の中のカレーをコトコトと煮込めば、ふんわりと良い匂いが鼻を擽る。


空腹の限界をとっくに迎えた腹は、再びグルグルと盛大に音を鳴らした。


それを無視して、鍋の中身をゆっくりとかき混ぜながら、チラリと背後を盗み見る。


台所と繋がったすぐ後ろの居間には、先程出逢ったばかりの男、近衛千宙が座布団を枕にして畳に寝っ転がっていた。


なんだか凄いことになったなぁと、これまでのことをぼんやり振り返る。


数時間前までは、この昨日の残りのカレーを一人でホクホク食べようと思っていた。


しかし、人生何があるか分からないものだ。


あの集団リンチに遭遇した後、怪我の手当てもせずにボロボロの状態のままゴミの上で眠り始めた近衛千宙を、なんとか叩き起こし無理矢理に自宅まで連れて来たのだ。


救急車を呼ぶことを拒否した挙げ句、保護者への連絡さえも頑なに拒否したので仕方なく私の自宅に連れて来るしか選択肢が無かった。


ちなみに叩き起こした際には多少の抵抗を受けたものの、相手がボロボロの状態だったため、スーパーの品出しによる力仕事で日々鍛えられた私の腕で余裕で引っ張って来ることが出来た。


最初は抵抗していた近衛千宙も、自宅までやって来ると色々諦めたのか、大人しく傷の手当ても受けてくれた。


傷の手当てとは言っても、鼻に鼻栓を突っ込んだり、傷口に消毒ぶっ掛けたりといった簡単なものだが何もしないよりは良いだろう。


こんな事になるなら、学生の時に保健室の先生にまともな手当てのやり方くらい聞いておけば良かったかもしれない。


満足のいく手当てとはいかなかったが、近衛千宙は何も言わずに手当てされていく自分の傷口をジッと眺めていた。


その瞳には、真っ黒な深い闇が広がっているようでなんだか危なっかしく思える。


けれど、その何処か見覚えのある表情は、どうしてかほっとけないような気持ちにさせるのだ。


手当てが終わると、体力の限界だったのか近衛千宙は重力に任せるようにぐったりと横たわって目を瞑った。


その姿は、ゴミの上に死体のように倒れ込んでいた時と重なる。


それでも多少の傷の手当てもしたし、汚いゴミの上じゃないだけマシだ。


もう好きなだけ眠ればいいやと、一旦、近衛千宙のことは放置して私は夕飯の支度に取り掛かったのである。


鍋の底が焦げ付けないようにひたすらにかき混ぜていた手を止めて、コンロの火も止めた。


腹が減っては戦ができぬとは、よく言ったものだ。


成り行きで自宅にまで連れて来てしまった近衛千宙を、これからどうするかはとりあえずこのカレーを食べてから考えよう。


冷凍庫から取り出したこれまた昨日の残りの米をレンジで温めて、その上にカレーをぶっ掛ける。


十分に温まり、ふわりと湯気が揺れたそれを遠慮なくかき込んだ。


空っぽだった胃袋が少しずつ満たされていくのを感じながら、もくもくと食していれば、座布団を枕にして眠っていた近衛千宙が目を覚ました。


パチパチと状況を把握するように瞬きをした近衛千宙は、カレーを食べている私に視線を向けると首を傾げてムッと眉間に皺を寄せる。


確かに、眉間に皺を寄せたい程によく分からない状況だから無理もないだろう。


勝手に自宅に連れて来て傷の手当てをした挙げ句、一人でもくもくとカレーを食べてる私は近衛千宙にとってきっと物凄く変な人間だ。


高校時代に周りに馴染めず、トラウマになりつつあった人付き合いを私は今だに克服出来ていないらしい。


こんな時の対応の仕方が、全く分からない。


初対面でお互いによく分かっていない状況の中、先程の集団リンチの緊張感から少し開放され、中途半端に冷静さを取り戻した頭で何と声をかけたら良いのかと悩む。


あの時は、この危なっかしい近衛千宙をどうにかしようと私なりに必死だったようだ。


少しの静寂が部屋を埋めた後、悩みに悩んで私は口を開いた。


「…カレー食べる?」


その一言に、近衛千宙はより一層眉間の皺を深くした。


無言のまま睨み付けてきた近衛千宙に、これは言葉の選択を間違えたかもしれないと若干焦る。


しかし、近衛千宙はそっぽを向くように私から視線を外すと「…食う。」と一言呟いた。


その反応がなんだか嬉しくて、私は急いで昨日の残りのカレーを用意する。


テーブルの上にドンッとそれを置けば、近衛千宙は男にしては比較的に細い指先でスプーンを持ち、カレーを掬って食べた。


「…痛っ、」


口に運んだ瞬間に、険しい表情をした近衛千宙にハッとする。


「あっ!そうだ口の中も切れてるんだっけ!?痛かったら、全然残してもいいよ!」


手当てしたと言っても今だに血が滲む唇に慌ててそう言えば、近衛千宙はそんな私を無視するように口の中にスプーンを突っ込んだ。


あれだけ容赦なく殴られた後なのに呑気にカレーを差し出すなんて、深く考えず追い打ちをかけるような仕打ちをしてしまった。


そう申し訳なく思うも、目の前で近衛千宙は手を止めることなくカレーを食べてくれている。


「…っ!」


それでも傷口が痛むのか、チビチビとスプーンからカレーを食べる近衛千宙の姿は、年相応に見えて少し安心した。


腫れた頬に湿布、切れた傷口に大きなガーゼを貼って、そして鼻には鼻栓を詰めた痛々しい姿の近衛千宙。


会話もなく、お互い初めて逢ったばかりなのに、ただもくもくとカレーを食べるだけの不思議な空間はなんだか可笑しくて笑えてくる。


集団リンチに遭遇する数時間前は仕事から疲れて帰っていて、この何一つ変わり映えしない日々の繰り返しを味気なく思っていた。


しかし、こんなイレギュラーな出来事に直面するなんて、味気なかった日々にいきなり特大級のスパイスを浴びせられた気分だ。


まさか、ボロボロの男子高校生を自宅に連れて来るとはな。


何やってるんだろうな私、そう思ったらもう堪えきれなかった。


「あははっ」


カレーを食べながら突然笑い出した私に、近衛千宙の不可解そうな視線が突き刺さる。


それでも、一度ツボに嵌ったらなかなか抜け出せない。


昨日の残りのカレーを誰かと食べる時が来るなんて、なんだか笑える。


そもそも、こうやって誰かと時間を共有するなんて酷く久しぶりのような気がした。


高校を卒業して、一年。


学生の頃に憧れた保健室の先生のような大人には程遠く、前進しているのか後退しているのかも分からないけど、現在自分でも笑えるくらいに変な人間にはなっているらしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る