第2話

まるで死体のようにゴミの上に倒れ込む男に、私の声は情けなく震える。


遠目からはよく見えなかったが、リンチに遭っていた男はだらだらと鼻血が出ていて殴られた頬は赤く腫れ上がっていた。


ドラマや漫画でしか見たことがない酷い怪我に、パニックになりながらも「きゅ、救急車っ…!」と鞄の中から慌ててスマホを取り出す。


119だっけ?110だっけ?と押したことも無いナンバーを押そうと震える指先に力を入れた瞬間、ゴミの上に倒れ込んでいた男がゆっくりと目を開けた。


「あっ!」


生きてる!と男の生存確認が出来て少し安堵しながらも、咄嗟のことに上手く声も出なくて私は必死にパクパクと口を動かした。


そんな私を気にするわけもなく、男はゆっくりと瞬きをすると「痛てぇ…」と掠れた声で呟く。


そりゃあ、あれだけ容赦なくボコボコに殴られたのだから痛いだろう。


先程見た暴力が飛び交う光景を思い出して、ゾッとする。


暗い路地裏で、気味悪く点滅している街灯が照らした男の顔は痛々しく血が流れていた。


「…きゅ、救急車呼びましょうか?」


見ているこっちまで痛くなりそうな怪我に恐る恐る男にそう告げると、男は不快そうに眉を寄せて血が滲んだ唇を開く。


「…呼ぶな」


「え?」


夜風に流されてしまいそうな酷く掠れた声は、男の痛々しさをより一層表しているようだった。


しかし、その声とは裏腹に男の眼光は鋭く私に突き刺さる。


力無く垂れ下がった前髪から覗く瞳は、漆黒の闇が広がり冷たく私を睨みつけていた。


何の感情も読めないその視線に、素直に怖いと思った。


蛇に睨まれた蛙のように、本能的に感じた恐怖感から私は指一本動かすことも出来ない。


それは男が視線を外す瞬間までの短い出来事だったが、私にとっては随分と長い時間のように感じた。


暫くして力が抜けたように私から視線を外した男は、また深くゴミの上に沈んだ。


「ほっとけ。」


ペッと口の中の血と共に吐き捨てるようにそう言った男は、汚いゴミの上で再び死んだように目を瞑る。


傷だらけでボロボロの格好のまま、男は背中を小さく丸めた。


少しするとスゥーッと寝息のような呼吸音が聞こえてきて、眉間の皺が若干和らいだような気がした。


まるで気まぐれな猫のように、ゆっくりと眠りについた男に私は唖然とする。


「は?」


先程の喧騒が止み、静まり返った路地裏に私の間抜けな声が響く。


なんだ、コイツ。


初めて遭遇した集団リンチに恐怖しながらも、倒れ込む男を助けようと勇気を振り絞ったというのに「ほっとけ」はないだろう。


心配して声を掛けた相手に対して、一体どうゆう神経をしているのだろうか。


というか、放っておけるものならこっちだって放っておきたかった。


それでも、この男の元に駆け寄ったのはこのまま見ないフリして死なれでもしたら、後味が悪いからだ。


そんな私の気持ちなんてお構いなしに、ゴミの上だろうが、ぶん殴られて血だらけだろうが、構わずにスヤスヤと眠った男に呆れを通り越して溜め息も出ない。


ポタポタとまともに止血もしていない鼻血は、男の顔をつたってゴミ袋の上にまで垂れてしまっていた。


本当に、よくこんな状況で寝られるものだ。


本人が「ほっとけ」と言うのだから、もう構わずに放っておこうと決意して立ち上がる。


早く帰って昨日の残りのカレーを食べようと思っていたのに、とんだ災難に遭ってしまった。


暗い路地裏を立ち去ろうとして、ふと男と共にゴミの上に投げ捨てられていた学ランが目に付いた。


点滅する街灯につられて、キラリと光ったのはありきたりな黒い学ランに着けられた鈍い金色のボタン。


校章である桜の花を彫った見覚えのあるそれは、一年前に卒業した母校のものだった。


まさか、コイツ後輩…?


そっと学ランを手に取ると、トサッとポケットの中から生徒手帳が落ちた。


そこには、確かに私の母校である高校名が記されていた。


その高校の名前に、あの頃の記憶が痛みと共に蘇る。


学生時代のどうしようもない息苦しさと、懐かしい保健室。


今思えば、それが私の学生時代の全てだったような気がした。


生徒手帳の中を開けば、この男の名前と顔写真が記載されている。


近衛千宙このえちひろ…?」


初めて呟いた名前は、聞き覚えもなく違和感しかない。


そのまま生徒手帳の内容を視線で追っていくと、どうやらこの男は現在高校二年生らしいということが分かった。


そして、名前と共に生徒手帳に記載された普段の男の顔は、綺麗な顔をした普通の男子高校生だった。


線の細い輪郭に、シュッと通った鼻筋。


柔らかそうな黒髪から覗く瞳は、真っ直ぐにこちらを見つめている。


シミ一つ無い肌は、羨ましいくらいに白い。


一目見ただけで分かる、所謂美形だ。


しかし、今ではその面影も無いくらいにボロボロだった。


線の細いはずの輪郭は腫れ上がり、筋の通った鼻からは血が溢れて白い肌は赤く染まっている。


見るも無惨なその姿は、思わず同情したくなるほどだ。


まだ高校生でありながらも、あんな悲惨なリンチにあったのだから。


「ほっとけ」と吐き捨てたのは、高校生の必死の強がりだったのかもしれない。


そう思えば、立ち去ろうとしていた足は自然と止まっていた。


「あー、もう!」


こんな所で逢ってしまったのも何かの縁だ。


私は再び、ゴミの上で死んだように眠るボロボロの男に向って駆け寄った。

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