井上高志 第5話
サッカー大会では僕らの班が優勝し、僕は奇跡的にトモちゃんの決勝ゴールをアシストした大活躍を見せた。そして、サッカー大会の次週、公太はトモちゃんと同じサッカー少年団に入った。公太から一緒に少年団に入らないかと誘われたが、悩むことなく断った。
優勝した瞬間がどれだけ嬉しい瞬間だったとしても、運動は苦手だった。やっぱり僕は、カードゲームをしたり、こうやって市役所の図書館とかで図鑑を読みながら空想に浸ったりする方が性に合う。アンキロサウルスが持つ丸みを帯びた背中とつぶらな瞳を見て、ペットにしたら毎日背中を洗ってあげたい、とにやつくのが僕のちょうどいい幸せだ。
窓の外を見ると、外は既に真っ暗になっていた。図書館の壁に掛けられた時計を確認すると、もう十八時三十分を回っていた。
僕は本を閉じ、図鑑コーナーへと向かった。『昆虫図鑑』『幻の巨大生物図鑑』の間に先ほど読んでいた『大恐竜図鑑』を押し込む。図鑑コーナーを出ようとしたとき、ふと『楽器図鑑』という背表紙が目に入った。ついこの間、音楽の授業で楽器体験ということでギターに触ったのを思い出した。本棚から引っ張り出すと、トランペット、ヴァイオリン、ドラム……といった様々な楽器が表紙に写っていた。次借りようと思っていた本も特になかったので『楽器図鑑』を持ってカウンターへと向かった。
図書館を出ると、冷たい風が僕の頬に刺さった。ネックウォーマーを口元まで上げ、家へと続く道を歩く。歩いて十分するとやっぱり図鑑を入れたリュックが重たく感じてきて、「どうして借りちゃったんだろう」と思わず呟いた。
図書館と家のちょうど中間地点にある学校の正門が見える位置まで来た。僕と同じくらいの年代の子や上級生が正門から出てきていた。膝下まで伸びる長いソックスを履いているのを見ると、サッカー少年団のようだ。すると、トモちゃんと公太が一緒に出てきたのが見えた。二人は僕の家がある方向へ並んで歩き出した。
僕は二人の後ろ姿を見失わない程度の距離を保ちながらを付いていく。笑い声は聞こえるが、何を話しているのかは分からない。「一緒に帰ろう」と声を掛ければ良いと分かっているのに、二人の側に駆け寄ることは出来なかった。街灯が照らすトモちゃんの笑顔を見ると、僕の胸は僅かばかり痛みと苛立ちを覚えた。
しばらくすると、住宅街の中にある十字路で公太とトモちゃんは別れた。
忍者のフリをしていたからか少し疲れた気がした。あと五分も歩けば家に着く。眩しいほどの青色で飾られたイルミネーションのある家の角、トモちゃんが行った方向を曲がった。
「わぁ!」
顔が青色の光に照らされたトモちゃんが僕の前に現れた。
「……びっくりした」
「びっくりしたのはこっちだよ。声も掛けないで私たちの後ろをついてくるんだもん」
せっかくなら一緒に帰ろうということになり、僕とトモちゃんは隣同士で歩き始めた。
「どうして黙ってたの?」
トモちゃんが蹴った石は、不規則に転がった後、僕の前で動きを止めた。
「特に理由はないよ」
僕も石を蹴飛ばすと、石は道路を横断するように右側に転がっていき、側溝に落ちてしまった。
「嘘ついてる」
「え? 嘘?」
「サッカーのパスってね気持ちが正直に表れるの。相手のことが嫌いだったら変なパスになるし、迷いがあったら相手にカットされちゃう」
「ボールだとそうだけどさ、これって石だよ?」
「ボールも石も同じ。少なくとも、さっきの高志はテキトーに石を蹴ったでしょ?」
トモちゃんは隣にあった駐車場から石を拾ってきて僕の前に置いた。
「自分の気持ちに嘘はつけないの」
速まる鼓動と共に、僕の胸が痛み始めた。トモちゃんといることが急に恥ずかしくなる。
僕は力任せに石を蹴った。石はさっきと同じように右側の側溝へ消えていった。
「もう一回。今度は落ち着いて」
僕は一つ深呼吸をする。
「トモちゃんの前に届きますように」と祈って蹴り出した石は、右往左往としながら僕たちの歩くコース上に落ち着いた。
「ほらね?」
僕らはまた歩き始めた。
「公太と何かあったの?」
「どうして?」
「公太と嫌なことがあったから声掛けなかったと思ったの」
トモちゃんの蹴った石が僕の前で止まる。
「そういうわけじゃない」
公太がサッカーに目移りしても、僕と公太はよく遊んでいたし話もしていた。サッカーを始める前に比べたら、階段裏でカードゲームをする頻度は減ってしまったけれども、今でも大切な友達だ。
僕の蹴った石はトモちゃんの前で止まった。
「トモちゃんと公太がカップルなのかなって」
「え⁉︎ ちょっと、まさかそんなわけないじゃん!」
トモちゃんは腹を抱えて笑い出した。その笑い声は澄んだ空気によく響いた。
「はあー面白い。じゃあ、高志は私と公太の邪魔しないようにしてくれたってこと?」
「だって楽しそうに話していたから」
「サッカーのこと話していただけだよ」
そう聞いて胸を撫で下ろす僕がいた。
ともちゃんが蹴った石は左側の外壁を伝い、公園の入り口へと向かっていった。
「ちょっと話そ?」
僕らは公園の中心で寂しく光るライトを通り過ぎ、ブランコ横のベンチに腰をかけた。
トモちゃんは膝下まであるベンチコートのボタンをパチパチと閉め、ポケットからネックウォーマーを取り出して首に掛けた。
「高志はどこに行ってたの?」
「市役所の図書館。これを借りてきたんだ」
僕はカバンの中から『楽器図鑑』を取り出してトモちゃんに表紙を見せた。
「楽器? 高志って学校の金管バンド入るの?」
「そういうわけじゃないけど、何となく興味が湧いて借りてみた」
トモちゃんが図鑑の表紙を見つめていたので、僕は「読む?」と聞いてみた。すると、トモちゃんは「ありがとう」と言って受け取り、図鑑を開いた。
トモちゃんが一枚ずつページをめくり、僕も本を眺める。トランペットが見開きの端から端までトランペット本体が写るページが開かれたとき、トモちゃんは「いいかも。やっぱり綺麗だなぁ」と言って手を止めた。
「トモちゃんこそ金管バンドに入るの?」
「うーん。中学生になったら考えるかも。実は違う小学校に友達がいるんだけど、その子と一緒の部活に入れたらいいなーなんて思ってんだよね」
「そっか。中学生って部活があるのか」
「楽しみだよねー」
中学生になったらクラスも増えてトモちゃんとも会えなくなるのかな。そう考えると少し寂しくなった。
「でさ、さっきの話なんだけど」
トモちゃんが足元の砂利で前後に足裏を滑らせながら呟いた。
「公太に限らずさ、男の子と仲良くしていると、『付き合っているの?』とか『好きなの?』とか言われたりするんだ。まあそう聞いてくるのは本当に数人なんだけどね」
「ごめん。さっきの僕って嫌なこと言ったよね」
「あ、違う違う! 高志のことを責めたいわけじゃなくって……その、何て言うんだろ」
手を繋いだ若い男女二人が公園の前を通り過ぎていく。僕らは黙ったまま二人の姿を目で追った。ひと目であの二人が恋人同士だと分かったのは、彼らが手を繋いでいたからだろうか。
「ねえ、高志は好きって分かる?」
「分かるよ。ハンバーグが好きってこととかでしょ」
「私もハンバーグ大好き! でも、恋人の好きって特別みたい。恋してるって言うんだって」
「トモちゃんは、誰かに恋したことあるの?」
「うーん……どうだろ」
トモちゃんは足を前後に動かし、その足元を見つめる。
早く答えて欲しいという焦りと不安と期待が僕の心を渦巻く。
「……分かんないや。でももしかしたら、あれは恋していたのかもね」
過去を思わせるような言葉だった。トモちゃんには特別な人がいたんだ。
トモちゃんは立ち上がり、月まで伸びそうな背伸びをした。
「じゃあ、帰ろっか」
トモちゃんがベンチに置いたリュックを手に取ったので、僕も立ち上がる。
「ねえ寒いから手繋ごうよ」
トモちゃんは左手を僕に差し出した
僕は右手をズボンで拭ってからトモちゃんの手に重ねた。
「サッカー大会で決勝ゴールを決めたときは、こうやって高志と手繋いだよね」
トモちゃんは指を絡ませるように手の握りを変えた。トモちゃんは、試合終了のホイッスルと同時にシュートを決めると、アシストした僕のもとへ駆け寄りハイタッチをした。僕とトモちゃんはハイタッチの拍子に両手を握り、ぶんぶんとを振って喜びを分かち合ったんだった。
そのときと同じように、指からトモちゃんの体温が伝わる。
「サッカー大会、本当に楽しかったなあ」
トモちゃんは北極星が輝く空を眺めた。僕もそれにつられて夜空を見上げる。
「ついこの間のはずなのに。だいぶ昔のことみたいだね」と僕が言った。
「そうだね」
そう答えたトモちゃんの横顔は寂しそうにみえた。
「私、思うんだ。あのときのシュートって、一生私の記憶に残るんだろうなって」
「大袈裟だよ。どうせ小学三年生の頃の記憶なんてすぐに忘れるよ」
「違うと思う」
トモちゃんは少しだけ力を入れて僕の手を握り、僕の目を見つめる。
「あの時にしたハイタッチの感触はまだ私の手に残っているんだ。これからも誰かと手を繋ぐたびに私はあのプレーを思い出すんだろうなって」
人の記憶は殆ど残らない。この前読んだ図鑑にはそう書いてあった。でも、何十年も乗ってなくても自転車に乗れるように、消えた記憶が完全に消失することはない、とも書いてあった。
「僕も忘れないかな?」
「忘れないでよ。最高のパスだったじゃん」
トモちゃんの頬に白い粒が降り落ちてきた。
「あ、雪だ」と僕が言うと、また僕らは夜空を見上げた。暗闇から白い粒が次々と降り落ちてくる。
「じゃあそろそろ帰ろっか。早く帰ってクリスマス楽しまないと!」
トモちゃんと別れるまでの約五分、僕らは手を繋ぎ続けた。トモちゃんの指はとても温かった。その温かさは僕の鼓動を早くさせていた。ちょっぴり恥ずかしかったが、それ以上にトモちゃんの体温がとても心地良かった。
冷たい北風が吹き、僕がキュッと手を握ると、トモちゃんも同じくらいの力で僕の手を握り返してくれた。
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