第三章 ファースト・ターニングポイント③

 日が沈んで薄暗くなり始めた住宅街ではたと止まり、公人は後ろを振り返った。

 誰もいない。

 チカチカと点滅する街灯や、道路標識があるばかりだ。通行人どころか車の一台すらも走っていない。

 公人は電柱の陰や一軒家の門、果てはブロック塀の上などに視線を走らせる。結果は同じだ。誰もいない。


「なーんか、視線を感じるんだよなぁ……」


 彼の口から心境が吐露されたのは実にありがたい。

 思考を覗かなくて済むうえ、ナレーションよりも信憑性が高くなる。それに、いつまでも地の文ばかりでは読者も目が滑ってしまうというものだ。たまにはセリフもあったほうがいい。

 そう、公人は視線を感じていた。

 一人きりになったことでより顕著になったが、この気色悪い視線は昨日からたびたび感じていたことを思い出す。

 公人は記憶を辿った。


 いつからだ? 時間でいえば昨日の昼からだ。高嶺さんと会うその直前。確かあの時に初めて感じた。

 ずっと誰かに見られていた? いや、そうでもない。ない時もあった。基準はなんだ?

 なにか重大な真実に触れようとしているような気がして、公人の脳はフル回転した。


 視線を感じたのは、超文芸部の面々と会話している時や、カケルくんに襲われた時。さっき高嶺さんと会話している時もじんわりあった。

 なんで思い出せる? そうだ。一日の中でそれが特筆すべき出来事だったからだ。


 物語。

 小説。

 フィクション。


 それらの単語が、公人の脳内で鮮明に浮かび上がった。表情が、どんどん険しくなっていく。


 うん。よし。

 そろそろ頃合いだろう。

 公人はその時、今までにないくらい強烈な視線を感じて、後ろを振り向いた。


「――ッ!」


 一冊の本が落ちていた。

 歩道の真ん中に落ちていた。さっきまで見ていた場所に落ちていた。だというのに小綺麗で、装丁には汚れ一つついていなかった。

 あまりにも不自然な状況だった。そんなことはわかっていた。

 しかし公人は恐る恐る近づいて、その本を手に取った。

 文庫本だった。ライトノベルだった。角川スニーカー文庫から出ていた。美麗なイラストで、見覚えのある完璧美少女が描かれていた。

 表紙の装丁にポップな字体で記されていたのは、次のようなタイトルである。


『僕はライトノベルの主人公』


 お察しの通り、読者諸君が今現在読んでいる、この本だ。

 公人は街灯の下に自転車を停めて、本を開いた。

 数ページほど読んで、手が止まった。


「は?」


 それもそのはず。そこに描写されていたのは、他ならぬ自分の、昨日から今日にかけての行動なのである。

 最初の数ページは、高嶺との邂逅が記されていた。発したセリフはおろか、自分がその時に抱いていた思考まで、克明に記述されている。


「ッ!」


 公人は思わず本を閉じて、暗がりを見渡した。


「おい! 誰だ! 僕をストーキングしてんのは!」


 怒号は、しかし、住宅街に虚しく響くだけである。


「人のプライバシーを何だと思ってやがる! 外面だけならまだしも、内面まで見やがって! さてはテレパシーとか千里眼の持ち主なんだろ! この変態垣間見ピーピングトムが! 覗くならアリの巣とかにしやがれ!」


 どうやら公人は、この本の記述が、なんらかの能力を持った第三者によるものであると思っているらしい。

 残念ながら、それは違う。


『僕はライトノベルの主人公』を書いているのは、他ならぬこの三人称視点だ。変態の濡れ衣を着せられる登場人物は、どこにもいない。

 とはいっても、公人がこの記述にたどり着くには結構ページを手繰らなければならないから、彼が真実に気づくのはもう少し先の段落になるだろう。

 それまでは彼の行動を見ていようじゃないか。


「人の行動を覗き見して製本するなんて、悪趣味通り越して気持ちが悪い。一体どこの変態だ」


 言いながらも、公人は握りしめた本から目を離すことができなかった。

 自分の言動が第三者視点から描写されているなど悶絶もので、決して、中身を見たくはないのだが、自分の心情が果たしてどこまで描写されているのか、それについては一度目を通さなくてはならないように思える。


「……仕方ない、これは、仕方のないことなんだ」


 公人は意を決して再び本を手に取り、心霊映像を見るような気分で、薄目を開けながらページをめくった。

 高嶺との邂逅から始まり、個性豊かな登場人物たちとの出会い、カケルくんとの遭遇から撃退まで、余すところなく書き記されている。


「うぐぅ」


 と、苦しそうな声が漏れるのは、公人が軽口か長尺のセリフを発しているシーンである。

 その瞬間においては「うまいこと言えた感」によって一種の快楽を得ることができていたが、いざこうして振り返ってみると、なかなか、キツい。


「なんでコイツ、高嶺さんに対してこんなスカした態度なんだよ。本当は内心ずっとドギマギしてたくせによぉ。ムカつくなぁ」


 彼は過去の自分自身に対して非難を浴びせかけながら流し読みしてページをめくる。

 そして、第三章まで読み進めたところで手が止まった。


「……ん?」


 妙だと気づいたのは、高嶺と一緒に下校しているシーンからだ。

 そもそも第二章で記されていたカケルくんとの一連のエピソードについても、すべて今日の出来事である。

 それだけでも、この短時間ですべて書ききるのはよほどの速筆家でなければ難しいのであるが、ほんの数十分前の出来事である高嶺との会話まで既に記されているのはどういうことだ?


 この本の作者は、未来視でもできて、すべてを見通したうえでこの記述を行ったのか?

 一体、なんの目的で?

 数多の疑問が公人の中で芽生える。


「三人称視点、だと?」


 そして彼は、二ページ前の記述にたどり着き、真実を得た。

 そう、『僕はライトノベルの主人公』をここまで書いてきたのは、他ならぬ、この三人称視点である。


 公人の手が、完全に止まる。

 さらなる真実を知るのが恐ろしいのだろうか。

 しかし、ここで止まってもらっては、《物語》が先に進まない。

 君が自ら動こうとしないなら、三人称視点はこのような記述をせざるを得なくなる。


 公人はついに、ページをめくった。


 そのページは、後半から白紙であった。

 白紙のページに、次のような文章が浮かび上がる。

 そう、この作品は今まさに、公人、君の時間に合わせて、リアルタイムで記述されているのだ。


 さて、公人。

 ついに顔合わせができたのは僥倖だ。

 しかし、そろそろワンシーンにしては文量が長くなってきたし、ここは一度、スペースを空けて場面を切り替えてみるのはどうだろうか。

 いつまでも路上で立ち読みしていたら目も悪くなってしまうし、なにより絵面が完全に不審者だ。

 一度帰宅したことにして、君の部屋でゆっくりと、これからの《物語》について話し合おうじゃないか。

 どうだい、公人。君の意見を聞かせてもらえないだろうか?


「…………」


 公人はただ唖然とするばかりで、返事を貰うことはできなかった。

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