第37話 小悪魔、母来たる。
「今日はありがとうございました。西宮先輩」
夕日がアスファルトを転がるように跳ねていた。空に滲む雲と緩やかな風は、美しくも少し切なさを帯びている。
駅前の広場に、俺たちは居た。
「し、白峰たん。今日は、楽しかった……?」
「はい。勿論。楽しかったです」
「そ、そっか……な、なら今度……」
西宮はまるで、好きな人をデートに誘うように塩らし……え、あれ? まじで? そういうやつ?
「またっ! 遊んでっ! 私とっ!」
ほっ……西宮の口から勢いよく飛び出した言葉に、正直、少し安心した。
「はい。今度は遊園地にでも行きましょうか」
「う、うんっ!」
これじゃあ、どっちが先輩か分からないな。なんで思った矢先に、西宮がこちらを見た。
「早見……その、今日はありがと。付き合ってくれて」
「おう。風邪引くなよ」
「なにそれ。変なの。……じゃあ、またね。白峰たん。早見」
西宮は自分のマンションの方へと帰っていった。その差を見送りながら、白峰は口を開いた。
「風邪引くなって、何故言ったんですか?」
「ん? まあ、なんとなく。一人暮らしは大変そうだから」
「……私も一人暮らしなんですけど」
確かにそうではあるが。
「──白峰さんに何かあれば、俺がいるけど、西宮はそうはいかないだろ?」
五歳の頃に夏風邪で、中学二年の頃に膝の怪我で、計二回入院したことがある。
そのどちらも正直、あまり良い思い出ではない。前者の方はほとんど覚えていないが。
……ん? 今、言ってから気づいたが、我ながら恥ずかしいことを言ったのではなかろうか。てか、これじゃあまるで彼氏ズラじゃなんか。
「し、白峰さん。い、今のは……」
気づいた俺はすぐに弁明をするべく、白峰を見る。しかし。
「……はへ?」
ぽかーん。呆然とあんぐり口を開けた白峰。徐々に首元から駆け上がるように、真っ赤に染まってゆく。
「し、白峰さん?」
「せ、先輩……私……もう、我慢出来ません」
「な、何を?」
「いろんなこと、です」
熱に浮かされたような、うっとりとした目。なんか胸がザワザワする表情だ。
「えーと、それは、その」
「今日。うちに来ませんか? 何かあったら、先輩が守ってくれるんですよね?」
いや、家だよな……? 何が起こるというのか。
「確かに言ったけど……」
「決まりですねっ! では、行きましょうっ!」
「ひょっ!?」
手のひらを掴まれて、そのまま強引に歩かされるのだった。
……何をさせられるのか、俺は。
***
「お、お邪魔します……?」
「まだフロントですよ。それを言うのは、部屋に入ってからじゃないですか?」
白峰が鍵を来客モニターの隣の鍵穴に通すなり、自動ドアがゆっくりと動いた。
「さあ、行きましょう」
白峰はスキップでも始めそうなくらいご機嫌で、見ているこっちも嬉しくなりそうだ。
「私の部屋は7階です。降りたら向かって左側の三番目」
「そ、そうなんだ」
エレベーターはあっという間に俺と白峰を運ぶ。機械の音声が響いて、俺たちは扉を潜った。
「ん、誰かいるみたいだよ?」
左から三番目のドア。白峰の部屋であろう、その前に人が立っていた。
「……な、何故ここに」
「あ、翡翠っ! 帰ってきたのね! ……え、と隣の子は……まさか彼氏っ!? あらあら、まあまあっ!」
その人はこちらに気づくなり、ずいずいと近づいてきた。
その顔を見て、すぐに分かった。
髪の色こそ違うが、華のある容姿端麗な女性。
「白峰さんの……お母さん?」
「はい、母の
俺の問いに答えたのは、白峰さんではなく、お母さんだった。
「ど、どうも。こちらこそお世話になってます。早見 連です」
「……早見、連?」
突如、白峰さんのお母さんは真面目な顔をした。
え、何か問題があったのだろうか。
「そうなの、貴方が早見君……ふむふむふむ、なるほど」
その目は観察を通り越して、もはや吟味。
「お、お母さん。ちょっと……」
「うんうん。結構、格好いいわね。翡翠が夢中に……」
「す、すとっぷ! 立ち話もなんだし、部屋で話そ?」
白峰は翠さんの手を掴むと、そのまま強制的に部屋へと上げた。
「先輩もどうぞ」
「え、折角の親子水入らずなんだし……」
「むぅ、いいんです。先輩は別枠なので」
なんだその枠……あれか、ペット的な?
まあ、本人がそういうのならいいか、と俺も玄関へと入った。
「お母さん。リビングで待ってて。先輩、お茶を入れるの手伝ってもらえますか?」
「分かった」
ものが少ない部屋だなと思った。リビングには机とテレビ。ガラス戸のついたタンス。
高校生っぽくない落ち着いた雰囲気の部屋だ。
「早見君、翡翠とはどこまでいったのかしら?」
「へぇ!?」
「ちょっと! お母さんっ!」
「ふふふ、冗談よ」
し、心臓が止まるかと思った。恐るべき、お母さん。小悪魔の母も小悪魔ということか。
「今日はなんで来たの?」
「一人暮らしの娘の様子を見にきただけよ? ほんとはお父さんも来たがってたけど、お仕事で都合が悪くてね」
「お茶、どうぞ」
「あら、ありがとう。早見君」
湯呑みにお茶を注いで、テーブルの上に置く。俺、白峰、そして翠さんの分で三つだ。
「翡翠。どう学校は?」
「楽しい、よ? 友達もいるし」
「そう。良かったわ。……ほんとに、良かった」
しみじみと噛み締めるように言った。まるで、ささやかな幸せに感動しているようだった。
そんな風に思ったのが、顔に出ていたのか、翠さんは俺を一瞥した後で、改めて口を開いた。
「翡翠はね。昔、体が弱かったの。入院と退院を繰り返してばかりで……それで」
「お母さん。それ以上は、言わないで?」
家族にしか分からない苦労や苦悩があったのだろう。それを支え合って乗り越えた。きっと、そうなんだと思った。
「早見君。今後とも、翡翠をお願いね。この子は扱いづらいところもあるけど、凄くいい子だから」
「お母さん……は、恥ずかしいって」
顔を真っ赤にして俯く白峰。なんというか借りてきた猫みたいだ。
とはいえ、こうもお願いされれば、生半可な返事は出来ない。
「はい。力の限り頑張ります」
「あら、いいお返事。あ、知ってた? 早見君。貴方とこの子、実は……」
「お母さん。そろそろ晩御飯の買い物に行ってくるね?」
言葉を遮る。あからさまに白峰は翠さんの言葉を嫌がっているように、避けているように見えた。
「え? 今日くらい出前でも……」
「ダメ。先輩を呼んだのも、一緒に料理するためだもん。だから、今日は帰って」
「そ、そう。分かったわ」
「お、おい? 白峰さん?」
半ば追い出すような形だ。いいのか? わざわざ来てくれたんじゃ……俺が視線で問うと、白峰はひそひそと言った。
「私の実家。ここから三駅隣なんです。だから、来ようと思ったらいつだって来れるんです。ほんとは」
なんと。三駅だから、十五分くらいではないか。
「それに毎晩電話もかけてくるので、全然久しぶりって感じがしなくて」
「そ、そうなんだ」
圧倒的過保護。凄いな。
「うん。やっぱり仲良しね。ま、いいものも見られたし、帰るわ。早見君。またね?」
ちょうど、お茶を飲み終えて、翠さんは腰を上げた。
「戸締りだけはしっかりね、翡翠」
「うん」
「駅まで送ります」
「大丈夫。この辺りは土地勘もあるし」
それでも玄関までは。と思ったが、そっと白峰が服の袖を掴んできた。
「先輩」
「それじゃ、お邪魔しましたー」
廊下の先、玄関からばたんと扉の閉まる音がした。どうやら本当に帰ってしまったらしい。
「さて、これで二人きりですね」
「そ、そうですね……」
リビングはやけに静かに感じた。そして、何より、白峰が肩を寄せてくる。
「え、えーと、どうしたの?」
「先輩。私だって甘えたい時だってあるんですよ?」
椅子が引っ付いて、白峰は俺の肩に頭を乗せて……ん?
俺はそこで気づいた。
「し、白峰さん?」
「もぅ、なんですか?」
「えーと、孔明の罠だ」
「ん? それってどういう……」
そこでようやく気づいたらしい。
「あらあら、お熱いわねえ」
そう、帰ったように見せかけて、翠さんは廊下の扉の隙間から俺たちを覗いていたのだった。
「っっっ!!!??? お母さんっ!!」
その後、白峰が真っ赤になって怒ったのはもはや言うまでもないだろう。
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