第21話  姉と小悪魔と解決策


 舞台。幕の登った広い壇上には、黒く滑らかなグランドピアノがそびえ、奏者を静かに待っていた。


 清らかな沈黙と張り詰めた緊張の渦中、舞台袖からは二人の女性が出てくる。


 一方は何も持たぬ黒いドレスの女性。そして。


「綺麗……」


 きっと無意識に、そんな言葉が誰かの口から飛び出した。また、ある者はため息を溢し、そのまたある者は、息さえ飲み込んだ。


 それら全てを引き起こしたのは、もう一方の女性。長い髪を首元で結い、赤いドレスを纏ったヴァイオリニスト。


 二人が揃ってお辞儀をするなり、ホールには拍手の嵐が巻き起こる。


 演奏曲は、カミーユ・サン=サーンス作 作品40番 交響詩──『死の舞踏』。


 静かで緩やかなピアノの伴奏と掠れるような弦の音始まったその曲は、瞬く間にホールを支配する。


 際立っていたのは、ピアノ。ご機嫌なステップのような音を響かせている。

 しかし、この場に訪れた数百もの観客たちの目的はそれではなかった。


 それが起こったのは、曲が始まり二十秒が経った頃だった。

 ヴァイオリニストがすっと鋭く、息を嚥下した瞬間だ。


 加速──それはまるで、死神が踊るような曲だった。


 薄気味悪さすら表現されたその音の群れは、ホールの光すらも飲み込む漆黒の権化。


 交互に響くピアノとヴァイオリンの旋律は、激しさと優雅さを兼ね備えながら、緩やかに、そして、恐ろしく響き渡る。


 そうして、曲は佳境へと。

 嵐の海を彷彿とさせられるような叩きつけられる伴奏と主旋律の拮抗は、徐々に凪いでいった。


 演奏が終わり、衝撃的とも言える音たちの余韻にホールは満ち満ちた。


 奏者の二人は、息を少し切らしながら互いに目を合わせてから、深々と頭を下げた。

 同時に、巻き起こった拍手喝采は演奏前の数倍にすら達していただろう。


「……凄い」


 隣の席に座る少女もちょうど舞台を眺めながら言葉を滑らせた。


「だろ? こうしていると分かんないよな。あれが家じゃ、自堕落な姉だなんて」


 カミーユ・サン=サーンス作 作品40番 交響詩『死の舞踏』。

 ──奏者 早見紫陽花。


***


「ぐわぁぁ、水ぅ。づがれだ……連、肩揉んでぇ」


 控室。そんな声が響く。

 もはや、そこに先ほどまでの凛々しい姿はなかった。


「水、ほい」


「さんくすー。あー、しんど。んー、眠いわ」


「……」


 あまり動じない白峰でさえも、舞台上での姉と今の姉の落差にすごい顔をしていた。


「あ、そうだ。どうだった? 翡翠ちゃん。私の演奏は」


「え、と。音楽については詳しい訳じゃないですけど、その、凄かったです……」


 白峰の表情は尊敬、というか敬服というか……そんな顔もするんだなと少し意外だった。


「ふふふ、そうだろうそうだろう。まあ、今日は伴奏の子がとんでもなく上手かったってのもあるけどさ。……いつもの練習と違ってね」


 そう言って、姉はじっとりと俺を見た。なんだ、その口振り。もう練習付き合ってやんないぞ、姉よ。


「……え、先輩はピアノも弾けるんですか?」


「ん、いや……弾けるって言うか……」


「こいつ、実は弾けるんだよねー。レベル的にはそこそこだけど。いやぁ、昔は可愛かったんだよなぁ、お姉ちゃんお姉ちゃんって、私のレッスンにまでついてきてさ」


 姉め。余計なことを。……まあ、別に隠していたわけではないからいいのだが。


「あ、そろそろ時間だ。外で待っててもらえる? 二人とも」


 今日はこの後、なんとかってクラシック雑誌の取材が入っているそうだ。恐らくはここでやるのだろう。


「へいよ。それじゃ、終わったらまた連絡して」


「失礼します。紫陽花さん」


「はーいよ。あ、連。あんたのお目当ての人なら、カフェテラスに来てくれるから待っててあげて」


「おっけ、ありがとう」


 お礼を言ったのちに、俺と白峰は控室を出た。


***


 ホールの隣にある小さなカフェテラスの片隅。待ち人はまだ来ていない。

 時刻は、十二時を回った頃。


「初耳です。先輩がピアノまで弾けるなんて」


「まあ、ね。そんなに大したことじゃないよ。姉さんの練習に付き合わされてただけだし」


 姉は割と強引な人で、自分の好きなものを他者にも共有したがる癖がある。

 五歳から始めたヴァイオリンを誇らしげに何度も自慢してきていた。


 そうして、俺も俺で姉にはよく懐いていたから両親の意向で少しだけピアノを齧った。


「紫陽花さんは確か、音大ですよね。先輩はもう進路とか決めてるんですか?」


 白峰は届いたコーヒーに一瞬、怪訝そうな顔を見せたものの、シュガースティック三本を入れるなり、満足そうな顔をした。


「決めてるよ」


 中学の頃から決めている。いや、正確に言えば、サッカーを辞めた時にだ。


「へえ、どこの大学なんですか?」


「……いや、違くて。就職の方。大学行ってもやりたいこともないし」


「そう、なんですね。意外です、てっきり羽瀬川先輩と同じところに行くと思ってました」


 ぐっ、鋭いところを突いてくる。が……それは前提が違う。


「蒼太は多分、大学行かないからな」


「え?」


「あいつは高校卒業と同時に、スペインにサッカーしに行くんだ」


 それも蒼太の中学からの夢だ。実際、今のあいつの実力ならどうにかなるだろう。


「……そう、ですか」


「白峰さん?」


 何故かは分からないが、その表情が一瞬、モノトーンのように俺の目には映った。


「なんでもないです。あっ。あの人じゃないですか?」


「ん?」


 白峰の視線が後ろに流れた。俺も振り返って見てみると。


「おっ! 君が紫陽花の弟かっ! ……あんまり、似てないな」


「こんにちは。わざわざ来てもらってすみません。平沢先輩」


 こちらの席までどどっと走ってきたのは、やけにハイテンションなショートカットの女性。


 それは綴里の恩人、平沢 都ひらさわ みやこその人だ。


 

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