第5章 初陣(前橋大会前編) 二人の伝説はここから始まった まだ何者でもなかった

第5章 初陣(17歳 9月終わり)


1 9月27日(金)、コンテストの前日までに身体は完全に仕上がった。


 体重は64㎏、腹筋のシックスパックはくっきりと隆起して、サイドの腹斜筋も斜めに深く陰影を刻んでいる。下腹部の血管もミミズのように這いまわり、ほとんど体表の脂肪をつまむこともできない。腕、肩、胸の筋肉には筋繊維が浮き上がって、まるで筋肉標本のようだ。

 体脂肪率はどのくらい? 5~6%くらいか。キレという意味では、これ以上望めない。会場でもこのクラスはいないだろう。その代わり、やはり消耗が激しくて、バルクは少し犠牲になった。胸のボリュームが足りないのは懸念材料だ。


 大会前日の今日は、朝4時過ぎに起きて、カーボアップのため鮭缶で丼飯を一杯食べ、ミニトマトをかじった。美味しい。体が、「もっともっと」って要求するけど、摂りすぎは脂肪になるので、じっと我慢だ。


 いつもはトレの時間だけど、今日は禁止なので、ムダ毛処理などした後、低血糖のためひたすらボーっとし、7時30分に尚を迎えに行って、学校に行く。

 真っ黒に日焼けして、顔はカマキリみたいになってしまったので、しばらく会ってない人が見たら、「病気なのか?」と心配されそうだ。


 3時間に一度、大きなおにぎり二つとミニトマトやパプリカをかじる。

 お昼休みの部室では、剛や香津美ちゃんから「明日は応援に行くからな。頑張れ!」とか、尚から「視点が定まってないわよ。しっかりしなさいよ!」みたいなことを言われた気がする。朝からカーボ入れてるとは言え、まだ低血糖で頭が回らない。脳が血糖を使って働くことを拒否しているようだ。何も考えずひたすらボーっとしているのが心地よい。


 夕方5時に家に帰り、本日の5食目を食べたあたりで、いくらか覚醒してきた。身体がだんだんカーボで満たされてきたようだ。僕は、翌日のコンテストの用意をし、カートに詰め込んで、ヨレヨレと家を出て、JR新宿から湘南新宿線で高崎に向かう。


 カーボはいいとして、水を飲めないのがつらい。この間も排尿は順調に続いているので、体内からどんどん水分が奪われていく。これ大丈夫か? 脱水で脚つったりしないのか? まあこれも勉強だ、とにかく一度やり切ろう。


 夜7時30分頃に、高崎の二つ手前、新町駅に着く。歩いて10分位のばあちゃん家に行き、お土産を渡して、しばし歓談する。僕の変貌ぶりに驚いていたが、励ましてくれて、お小遣いもくれた。元気そうでよかった。

 その後、おばさん家族に挨拶して、従兄とも話し、完成した肉体を披露した。「うおー、すげー身体! 明日勝つよこれ。昇兄頑張れ!」みたいな励ましの言葉を貰った。


 再び電車に乗り、高崎駅についたのが夜9時前。コンビニで、干し芋、ベーグルなどのカーボ類を買って、駅前のスーパーでトマトとバナナを補充する。ホテルは、駅からすぐ、徒歩1分くらいだ。ジャージ姿でカートを引きつつ、エントランスをくぐる。ああ、やっと着いた。忙しい一日だったな。


「‥‥‥って、何やってんだ、お前?」 血糖不足の頭が一気に覚醒した。 


 ******


2 尚は、アディダスの黒いジャージを着て、ロビーのソファに腰掛けていた。


「遅いー。来ないんじゃないかって、心配してたー」って、不満げに頬を膨らませ、前かがみで足をパタパタさせてる。

「いや、待たせた覚えはないんだが‥‥‥。ああ、そういえばこないだここ定宿だって言ったな。よく覚えてたな」って、僕が呆れ気味に言ったら、尚は、

「えへへ。来ちゃった」って、悪びれずチロっと赤い舌を出した。


 おお、可愛いじゃないか。これはやられた。まさにコケティッシュ!


「てか、俺が必ずここに泊まるとも限らないだろうに。よく思い切ったな」

「だから『心配してた』って言ったでしょ。もし会えなかったら、枕濡らしてさめざめ泣いてたわよ。さあ、チェックインしていこ。私はもう済ませたわよ」


 僕がフロントでチェックインすると、尚が横からジーっと見て、「8階‥‥‥同じだ。ふふふ」ってニンマリしている。まさか隣か。まあ嫌じゃないけど。

 二人でエレベーターに乗って8階に上り、カートを並べて歩く。尚の部屋は僕の五つくらい先だった。


「それじゃ、また後で部屋にお邪魔するね」って、まあこのシチュエーションなら、そういう展開になるんだろうなあ。

「もちろんそりゃ構わないんだが‥‥‥」 

「何?」

「恥ずかしいんだけどな‥‥‥」 これはさすがになかなか言いにくい。

「何よ?」 尚も訝いぶかしんでいる。

「今日、俺さ、悪さしたくても、できないと思うぞ。ゲソゲソのカラカラなんで。その、なんだ、最初がうまく行かないとトラウマになりそうだし‥‥‥」


「そ、そんなこと期待してないわよ。バカッ! エッチ!」 なんだ、違うのか。

「いや、あとで来るって言うからさ。何かなって」

「決勝用のビキニ着て見せてあげるわよ。見たくないならいいけど」

「み、見たい! すごく見たいです。是非お願いします!」

「ふふーん、そう? そしたらシャワー浴びて、着替えてからいくわ。しばらく待っててね。あと、昇の仕上がった身体も見せてね」 尚はそう言って、カートを引いて、五つ先の部屋に入って行った。


 ******


3 僕は自室に入り、カードをホルダーに入れて室内灯を点けた。あれ、中は少し広い? ああ、ツインのシングルユースなのか。サービスしてくれたんだ。荷物が多いからありがたいな。早速、手前のベッドにカートを乗っけて、荷物を広げた。


 4時間空いたな。早く6食目を食べないと。さっき買ったベーグルとバナナを、ゆっくりと時間をかけて食べ、ごく少量の水で流し込む。美味しい。体がカーボで満たされていくのが分かる。だいぶ体に張りが出て来た。水は今朝から500㏄のペット半分も飲んでいない。さすがに足りないので、プチトマトを二つかじる。


 だけどカーボ取り過ぎて、身体がむくんで、カットが緩くなったら本末転倒だ。

 僕は、Tシャツを脱ぎ、上半身裸になり、下は予選用のサーフパンツを穿いた。窓際に行って、カーテンを開け放つと、部屋の明かりに照らされて、窓ガラス一面が鏡になった。

 僕はフロントポーズを取り、身体の仕上がりをチェックする。肩と胸が少しボリュームアップしてる? カーボアップの効果? 腹筋の溝、腹斜筋のキレ、腕肩と下腹部の血管、どれも大丈夫。順調だ。


 と、そこでチャイムが鳴った。


「開いてるよ。どうぞ。」 僕は、ガラスに映ったドアを見ながら声を掛けた。

 振り向くと、ドアを開けて、尚が入って来るところだった。


 上は白のTシャツ、下はビキニみたい。裸足で、右手に10㎝のヒールをぶら下げている。耳には縦長の銀のイヤリング。栗色の髪はアップにして後ろにまとめ、艶消しの黒いリボンで結んでいる。あれ、ちょっとメイクしてる? いいね、大人っぽい。


「お待たせー。ポーズ練習してたんだ」 尚が僕のサーフパンツを見て言った。

「うん。窓が鏡になっていい感じだ。やっぱり朝からカーボ入れて、カットがどうなってるか気になってさ」 僕は、クっと腹筋を強調した。尚は、僕の身体を上から下まで見て、

「うわー、よくここまで仕上げたね。ひとかけらの脂肪もついてない。すごーい。身体ってこんなんなるんだ‥‥‥」って、感心してつぶやいた。

「尚が鍛えてくれたおかげだよ。自分一人ではとても無理だったと思う。ほんと、ありがとうな」

「ふふ、嬉しいこと言ってくれるじゃない。ねえ、ちょっと触ってみていい?」

「もちろん、どうぞ」


 尚は僕に近づいて、ひざを折り、僕の腹筋に手を触れた。


「これもうつまめないよ。手の甲くらい? ほんとに皮一枚になるのね。パックの溝も指が入りそう。ふふふ、これ、私の作品なのよね」

「そうだな。うまく仕上げてくれた。胸のバルクは詰め切れなかったけど、現時点ではこのくらいが限界だろう」

「もう、これで負けたらしょうがないわね」 尚が満足そうに、パックの溝を人差し指でなぞりながら言った。


「尚のビキニも見せてくれよ」

「うん、それじゃそっちで用意するから、座って待っててね」 尚はそう言って、ドアの方の陰に入っていった。僕は、椅子をベッドの間に置いて座って待った。


 そしたら、しばらくして、

「いいわよ。入場するからひと声かけてね」って声がしたので、僕が、

「それでは、ガールズクラス決勝、選手入場です!」とノリよく声をかけると、尚が壁の陰から入場してきた。

 ビキニは艶消しの黒で、それが肌の白さを際立たせている。ショーツは極めて小さく、マスクくらいしかない。サイドは細い紐を高い位置で蝶結びにすることで脚の長さを強調している。


「!」 驚いた。ウォーキングがすごく上手になってる。とてもエレガントだ。

 セミナー受けたって言ってたけど、成果が如実に出ている。


 尚が三歩あるいて僕の前に立ち止まったので、僕は「それではまいります。フロントポーズ!」と声をかけた。

 尚は、右手を腰に、左手は宙に浮かせて指を綺麗に反らせ、足を揃えて左ひざを少し前に出してピタリと止めた。目を細めて穏やかな笑みを浮かべている。耳元のイヤリングがシャラっと揺れ、小さな唇に引かれたピンクのルージュがツヤッと光った。


「どう?」 ポーズを解いた尚が、すまし顔で僕に聞いてくる。

「いい、とても。こう‥‥‥いや言葉ではちょっと言い表せないな‥‥‥なんというか、あえて言えば‥‥‥『女神』?」

「えっ、ええ? そこまで?」

「うん。俺の目から見ると、完全体に見える。身体のパーツの形、大きさ、配置のバランス、どれを取っても申し分ない。絞りも完璧。腹筋のパックがうっすら見える程度で、縦に三本線入って実に綺麗だ。お前ほんとにすごいぞ。あんまり事前に油断させるようなこと言っちゃダメなんだけど、正直、負けるとこ想像つかない」

「そう、ありがと。それじゃ明日は落ち着いて自分のポーズに集中するよ」

「ああ、それがいい。もっと見たいから、そこでポーズ練習やってくれよ」  


 尚は、僕の前で、窓を見ながら規定ポーズとフリーポーズの練習を行い、僕はそれを椅子に座ったまま鑑賞させて貰った。


 穏やかな、まるで夢のような時間だ。


 ******


 しばらくして、ポーズ練習が一段落し、尚がヒールを脱いで「ふーっ」って言って、ベッドに腰掛けた。


「お疲れさん。いいもの見せて貰ったよ。そのビキニいいな。白い肌にとても映えてる。こないだのボクサーパンツもスポーツライクでよかったけど、ビキニは尚の身体の線がきれいに見えていいな」

「ありがと。昇は、私の身体ずいぶん好きなのね」

「うん、好き。綺麗でかっこいい」


「でも、身体だけなの? 中は?」

「な、中って‥‥‥?」

「ちょ、変な意味に取らないの。身体だけじゃなくって、心も含めた中身は?」

「それは、十分伝わってると思ってたけど」

「そうだけど、そうなんだけど、あんた一度も私のこと‥‥‥」

「そうだな、言葉は大事だな。ちゃんと伝えないと」

「そうよ。だから、こんなに私ばっかり追いかけまわして、そういう時、ちらっと不安になるじゃない」


 それで、僕は、尚の目を真っすぐ見て、余すことなく、きちんと言葉で伝えた。


「‥‥‥尚が好きだ。心も身体も全部好きだ」

「小さい頃からずっとずっと尚が好きだった。今は、もっと好きだ」

「これまで会った誰よりも好きで、俺が惚れた、ただひとりの女だ」

「これからも好きでいたいし、もっと言うと尚に相応しい自分でありたい」


「‥‥‥ずいぶん丁寧に伝えてくれたのね」 尚が穏やかに微笑んでいる。


「うん。曖昧じゃない、くっきりした気持ちだから、迷いなく出てくるんだ」

「すごく嬉しい。安心した」

「ちゃんと言葉で伝えないと不安になる、っていうのはその通りだと思う。配慮が足りなくてごめんな」

「いいよ。でもこれからもたまに言ってね」

「もちろんそうする。二人で努力して維持するのが大事だもんな。お前は?」


「え?」 尚が不意を突かれて目を見開く。

「俺はちゃんと伝えたぞ。お前は?」

「こ、こんなとこまで追いかけて来て、こんなことまでしてて、それでも不安になるの?」

「当たり前だ。こんないい女ほかにいないんだから。しっかり捕まえられてるか、いつも不安で一杯だ」

「えー‥‥‥」 尚は、急に顔をあっちに向けて、両手を腿の間に挟んでモジモジして、

「そんなふうに言われて、待ってるところに真っすぐ目を見て答えるの、恥ずかしいから、立って、向こう向いて」と言って、手をシッシッってやった。


 なんだそりゃ? と思いながらも、僕は言う通りに立ち上がって背中を向けた。


 そしたら、少しして、尚が、僕の後ろからそっと抱きついてきた。

 あれ、『ポイン』って、ビキニ着てない、のか? そうだ。すごく暖かくて柔らかい。

 尚は、そのまま手を僕の胸に回し、頬と胸を僕の背中に押し付けながら、小さな声で、


「好き‥‥‥大好き。小さな頃からずっと昇が好きだった。これからもずっと好き。どんどん好きになってる。好きすぎて怖いくらいなの。絶対離したくない、昇だけが大事なの‥‥‥」ってささやいた。ちょっとグシグシ言ってるみたい。

 続けて、「今日来てよかった。伝えられて、伝えあえてよかった‥‥‥」って言って、今度は本当にしゃくりあげる様子が伝わってきた。


 胸が押し付けられているので、尚の鼓動が僕の背中に伝わってくる。

 最初早鐘のようだった尚の鼓動が、やがて少しずつ収まり、二人の鼓動の速さが合わさって、次第に穏やかになっていく。


 やがて、尚はスーっと一つ息を吸って、手を離し、Tシャツで胸を隠して、指で涙を拭きながら、

「もう行くね。なんかこれ以上一緒にいると、私、きっと気持ちが行き過ぎて迷惑かけちゃいそうな気がするから。‥‥‥明日頑張ろうね。あとよく寝るのよ」って言って、ヒールとビキニを右手に下げ、ドアの隙間から首を出してキョロキョロした。


 後ろから見てると、綺麗な逆三角の背中と長い脚がとってもチャーミングだ。


 表には誰もいなかったらしく、尚はこちらを振り返って、声を出さずに「●●●●●」と言い残し、肩をすくめてクスっと笑って、出て行ってしまった。


 またかよ。でも、最後の一文字は唇尖ってたから、きっとアレだろう。


 僕は、白い背中の残像に、「俺もそうだ。愛してる」って、きちんと声を出して伝えた。


 だけど、この状況でほっぽり出されて、「よく寝るのよ」って言われてもなあ。

 まだ背中に『ポイン』って感触残ってるよ。


 ま、しばらくモンモンと起きてて、7食目食べたら寝るか。






→ 読者の皆様。わたくしの作品をお読み頂き、ありがとうございます。

 今回は6000字近くあって、長かったですね。お疲れ様でした。 

 まあ、でも、ストーリーの流れ上、どこかで区切るわけにいかないですからね。ホテル着くまでで一話じゃ、あんまりですし。悪しからず、ご容赦下さい。


 次回から、コンテスト本番に突入です。ほぼリアルと同じ描写ですので、臨場感があると思います。


 それではまた。


 小田島 匠

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