第六章 6-1

――――……まだ薄暗い早朝、とある神社の大木で束の間の休息を取るクレスが居た。

 雀がクレスの身体に集まると、騒がしくも軽やかな音を奏でる鳴き声が心地良い音色のようだ。そんなクレスはおもむろに呟くように、動じる気配もないまま突然一人言葉を発する。

「そろそろ出て来いよ、お袋さんよ?」

「あら残念。もう気付かれたのね」

 真後ろの幹から姿を現したのは、驚きのジュノー。普段とは異なる不釣り合いな満面の笑みは、現段階の立ち位置と不自然な行動で謎に満ちる背景によって、今だけ妙に様になる。

「ハッ! まさかアンタが来るとはな。何用だ? 悪巧みでも企んでいるのか?」

 失笑しながら冗談を交えたクレスだが、ジュノーはその問いに驚くも、静かに表情を変えた。

「優秀ね、よく理解できている事。実は――……」

 絹のように美しい黒髪が優雅に流れて、不適な笑みと音色を呟くような口元を隠しながら、ジュノーはクレスの耳元で驚くべき言葉を囁く……――――



――――……眩しい太陽を浴びる高層ビル。

 天気予報は終日晴天を発表していて、休日ともなれば繁華街は多くの人間でごった返す。

 人混みは大きく二つの動線を作り、上手く人を避けながら各々が目的地に進む様子は、習慣づけられた高度なマナー。そんな人間の行き来が面白い法則そのものを見るようで、相変わらずステラは飽きる事なく眺めるが、時折、不貞腐れた表情と態度で上空に目線を上げる。

「ジュノー! ジュノー、何処だ! 返事をしてくれ!」

 事の発端はジュノーが忽然と消えた事による。発覚してから優に六時間は過ぎている。

 時間が進む度、心配が募る真剣なフレイに、嫉妬丸出しのステラはかなり拗ねている様子。

 ステラも人並にジュノーの心配はしているが、ジュノーの有能さは良く理解しているだけに特別大事と捉えていない。何より今のフレイを追ってもステラに良い事など何一つなく、下界を観察する事で心落ち着くのであれば、余計な感情で気分を害す事は極力控えたいのが心情。

 そんな考えで再び下界を見渡す瞬間、空を旋回するフレイに予想もしない事態が直面する。

「じゅ――……」

 空中で身動き取れないフレイを標的に、何かが猛突進する大きな気流の流れから、不吉な予感を漂わせる方向を見るや否や、隣接するビルの屋上へ豪快に吹き飛ばされたのだ。

「ふ、フレイ!」

 このあまりに唐突な珍事を視界に入れたステラは、擦れたコンクリートの土埃の中、フレイの無事を確認しようと場所を変えては眼光を滾らせて、視力も最大にさせて確認を急ぐ。

 徐々に落ちつく土埃から見えたのは、目を疑うような光景だった。

「ジュノーおぉぉ、君はぁああっ……一体ッ、何のっ……つもりだぁぁあ!」

 それは両腕を盾のように使い、唐突な攻撃から守りに入る紅塗りのフレイ。

 そしてこれはあからさまな殺気を纏い、左腕の腕力だけで押す、ジュノーの刀による猛攻撃。

「この一瞬でよく紅塗りになれたわね。相変わらずその瞬発力には感服するばかりよっ!」

 両腕で防御に徹するフレイの腕は、刀が筋肉にめり込む度、止血と切れた筋肉の筋から回復を行う余力で押し返そうとする。しかしそれさえ追い付かないジュノーの奇襲にフレイは焦る。

 この焦りの原因は、今現在ジュノーが黒塗りでない事情が多くを占めているようだ。高雅で凛々しい表情を隠す事もせず、風になびく美しいストレートの黒い長髪に、スレンダーな身体の線が露骨な漆黒のドレスを身に纏う姿は、妖艶な成人女性そのもの。その上敵意むき出しの赤眼が、黒衣から見える陶磁器のような白い肌を強調させて、艶やかに映えてより魅せる。

 露わな左肩には、燃えるような赤で色濃く【№01】の刻印がジュノーを主張した。

 そんな力で押す勢いに任せて、ジュノーは残る右手で更なる奇襲を仕掛ける。右手の爪が異常に長く鋭く尖ると、根元から赤黒く変色させて、フレイの右太股に迷いなく突き刺したのだ。

 赤黒い色素が根元から切っ先へ濃い色を失くす様は、体内に何かを注ぎ込む注射器のよう。

 ジュノーの無慈悲な行いと、それによる変化をまざまざと見せつけた事で、フレイの一抹の不安は深く淀み、心に大きな暗影がジワリと染渡るような奇妙な感覚に至る。脳が最大級の危険を察知して、身体は叩くような激しい警告を鳴らせて、迫る異常事態を知らせるのだ。

「なっ、何を……ッ!」

「気になるのね。少し待ちなさい、面白い事が起こるわ」

 ジュノーの残忍な行いに衝撃を覚えるのは、これが初めてではない。その事実がフレイを精神的に追い詰め、今になってあの時、あの瞬間、マサヤの吐いた言葉が頭の中を駆け巡る。

『少年、あの女には気をつけな、相当な女狐だぜ。まぁ近いうちに本性を晒すだろうさ』

(違う……、ジュノーはそんなひとじゃない)

『ふーん。まぁその分厚い鉄壁の信頼が崩れた時、少年、お前がどんな光景を見て、どんな精神状態に陥り、どんな行動を起こすのか……、大いに見ものだな』

(大丈夫だ、何も心配する必要はない。不安になる必要は、絶対に、無いんだ……)

 マサヤに絆された言葉は、今になって酷く翻弄させる。遠い昔に削除したはずの悪夢に、再び苛まれる重圧はあまりに過大。それはジュノーが二度と間違いを犯さないと誓った記憶。

 必死に忘れようと暗く狭い場所に閉じ込めて、幸せで上書きして、もう底に埋もれて消えたとばかり思っていた感情は、努力の甲斐虚しく心の支え共々簡単に崩壊してしまう。

 この攻防はフレイにとってかつてない圧倒的劣勢に陥った。ジュノーの奇襲をきっかけに、一挙一動が精神的ダメージを与え続け、支障を来たした事が原因と分析する。しかしその考察だけが原因ではない事を、人体が発する最大級の警告を響かせて脳天を突き抜けるのだ。

 呻き出す血管、何かに絞られる筋肉、まるで全身が硬直するような大きな違和感。

「ジュノー、君は……、僕に何を、したんだッ……!」

 現状、ジュノーの攻撃に押され続けるだけのフレイは、未だ完治しない太股に力を入れる度、蛇口のように湧き出る出血が不安を一層煽る事で、嫌な予感は増す一方。自身の治癒力より勝る効力の原因を、本能から貪るように過去の記憶からも弾き出そうとするが、予測すら立てられない現状から、ある恐ろしい可能性を導いた。完全無欠の効力が徐々に朽ちる事で、精神を蝕む初めて感覚は、フレイの予想をより核心的に変えていく。そんな過剰な危機感を植え付ける事に成功したジュノーの猛攻は、更なる底辺へ陥れる準備が着々と整う。

「やっと効いたのね。その有り余る回復力には大いに脱帽よ……っ!」

「君は一体何がした――……っ!」

《ドォォオンッ!》

 無情な空に細く澄んだ銃声が一瞬。それは寸分の狂いなく、涼しい顔で回避したジュノーが合図を送った用意周到に準備されていた攻撃であり、フレイは顔面に強烈な一撃を食らう。

「あら、失敗……」

 ジュノーの言葉は、未だ倒れる素振りを見せないフレイの全容を明確に表現している。

 フレイの顔面に留まる硝煙が消える頃、その答えをはっきりと筋を通す。金属同士がせめぎ合うような摩擦音を響かせながら、上下の前歯だけで弾丸の勢いを塞ぎ止めているのだから。

 弾丸の回転が停止した刹那、一度弾丸を口に含んで舌で転がすと、無表情のジュノーを尻目に強い摩擦熱で着火させて、炎を纏った目立つ弾丸を放出する。射的は発砲した張本人。

 ある程度予想はしていたものの、その卓越した視力で目立つ弾丸を難なく回避したクレスの姿を確認したフレイは、想像した以上の絶望感で更に心大きく乱される。

「やっぱり君は、クレスのっ……!」

 この一連の展開に加え、クレスが関連する事実が重なる事で、謎の効力によって身体を蝕む答えを導き出した。フレイの白光が益々歪む頃合いで、ジュノーが悪魔の微笑みで囁く。

「そうよ、これは《クレスあの子血液DNA》……。無限に増殖する特殊な抗体が相反するなら、恐らく能力の相殺を免れないはず。心身を蝕む未曽有の危機に、早急な制裁を下すのが貴方独自の生体でしょう? その並外れた潜在能力が如何ほどか、大いに吟味したいものね」

 ジュノーの行いは生態系を揺るがす悪の所業。この世に生存する上で許されない行為。

 この仕打ちにフレイの心身は急激に弱まるも、同時に顔を伏せながら大きな疑問を投じる。

「ジュノー、本当は……、楽しくない……だろう? なんでこんな……事、するの?」

「馬鹿ね、そんな分かり切った話。貴方は私の手の内で永遠に転がっていれば良いのよ!」

 ドクドクと毒を吐くジュノーの表情は、まさしく軽蔑の眼差しそのもので、嫌悪に満ちた拒絶はこの二人の関係の破綻を予言させるに事足りる。ジュノーの言動はフレイの希望を根こそぎ削り取り、絶望から流れ出るのは涙ではなく、悲しい現実を映した生暖かい紅い血だけ。

「嘘は……止めよう、怒って……ないよ? ジュノー、目、泣いて……みたい」

 心身の崩壊を目前に、フレイが出した答えは蜘蛛の糸より頼りない小さな希望。

 掴めない希望にフレイは溺れる。全てが終わった。そう思えた。……その筈だった。

「…………」

 フレイの問いに何一つ答えず黙殺したジュノーは、フレイへの攻撃をただ強く押す。

 この行動こそフレイにとって大きな転機であり、希望を見出すには十分な材料であり、膨らむ清い未来が湧水のように溢れ出し、深い絶望感から清い希望へと一気に目覚めさせてくれる。

 俯く白光は輝きが増し、迷える子羊だった心にも光が差す。

 それはジュノーに対する〈信頼〉と言う揺るぎない二文字が再び開花した瞬間。

 フレイの頭が徐々に上がり、ジュノーを見る明るい眼光はこの計画の失敗を意味している。

 丸くなった背中を完全に正して、迫る刀を素手で握ると滴る血に関心を持たず、変わらず溢れ出る太股の血にも構う様子を見せない。その滾る気迫だけでジュノーは押された。

 フレイの言葉は予想の範囲内、黙殺はジュノーの大きな誤算。

(上手く行くと思ったのだけれど、やはり一筋縄ではいかないわね……)

 やるなら徹底的に。そう覚悟して挑んだジュノーではあるが、今更後悔してもこの作戦は二度と通用しない。それを証明するように、フレイは力任せに刃元まで横に押し曲げるのだから。

 このフレイ有利に大きく好転した状況から、ジュノーは一旦距離を置く。

 現在進行形で最も有効な作戦を模索するためだ。しかし思案出来る時間はそう多くない。

 この短時間でフレイを蹴散らさねば、血液DNAの効力も確実に薄れて行くだろう。フレイもまた血液DNAによる障害を乗り越えながら、この僅かな時間でジュノーの動きに予測を立てる。

(まだクレスの血液が制圧されてないな。次のジュノーの行動次第か)

(完璧に私のミスね。後悔しても失敗は失敗、次の手に賭けましょう)

 互いの隙を射抜くための心身の攻防は、まだ始まったばかり……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る