第2章⑩
「なに? 君たち、どういう関係なの?」
重い空気を誤魔化すようにニヤけた顔でロクが見ていた。誤解だ。ギンカは決まりの悪さで、体が火照るのを感じていた。
「そんなんじゃないって! 前にたまたま一度会っただけ」
「そうかいそうかい。じゃあおれはひとりで考え事でもしてきますか~」
ギンカが慌てて止める言葉も聞かずに、ロクは軽い足取りでどんどん進んでいってしまう。だが、去り際、ギンカにしか聞こえない声でぼそっと耳打ちをした。
「あんまり肩入れすんなよ。どうせ、人とオニとじゃ報われないからな」
わかっている。わかっているし、そんなつもりも毛頭ない。適当に言い訳しといてやるよ、と言って右手を振るロクの後ろ姿を、ギンカは戸惑いながら見つめていた。
「……すみません。同僚がなにか勘違いしているみたいで」
女性はオニたちのやり取りにぽかんとしていたが、ギンカに視線を戻すと首を左右に振った。
「いえ、気にしてません。……少し、お話ししませんか? よかったら、ここどうぞ」
ベンチの空いた隣を差して女性は言った。もう涙は止まっているようで、柔らかい微笑みを浮かべている。とくに断る理由も見当たらず、ギンカは「はい」と小声で答えて女性の隣に座った。
柔らかい風でヤナギが揺れている。ざわざわと騒ぐ木々たちの声は、まるでベンチに並んだふたりを覆い隠すようだ。
永遠にも思えていた静寂を先に破ったのは、女性だった。
「ここで働いているんですか? えっと、お名前……なんてお呼びしたらいいか――」
「おれは、ギンカです」
「ギンカさん。ギンカさんっていうんですね」
女性はかすかに微笑んで、ギンカの名前を確かめるように繰り返した。なんだか気恥ずかしくなり、ギンカは湖のほうに目を向ける。
「はい。おれはここじゃなくて、環境庁っていう部署で働いてます。……えーと、あなたは?」
「わたしは、さくらです。森谷さくら」
さくらは、風になびいた艶やかなストレートの髪を右手で押さえながら目を細めた。淡い色のワンピースと羽織ったカーディガンから覗く手足は細く、透き通るような色をしている。
ギンカは見惚れるように、しばらくの間さくらを見つめていた。ここが地獄でなければ、彼女がもう亡き人だということに誰も気がつかないだろう。それほどまでに身なりは清潔感があり、こちらを伺う純粋そうな瞳に吸い込まれてしまいそうだった。
「人が珍しいですか?」
からかうような笑い声に、ギンカははっとした。必要以上に目線を向けてしまっていたことを察し、急に後ろめたさを感じる。いくらオニとはいえ、出会って間もない異性に見つめられるのはあまりいい気がしないだろう。
「すみません、悪気はないんです」
慌てて顔を背けたギンカを、さくらは「いいんです」と優しく許した。
「あの……こんなことを聞くのも失礼かもしれませんが。ここにいるオニたちは、みなさん記憶を無くしている方たちなんですよね?」
さくらはやや躊躇いがちに前置きをして聞いた。その声には咎めるような響きはなく、単純な疑問なんだろうとギンカは思った。
「そうです。おれも、さっきいた別のオニも。生きてた頃は覚えていません」
「思い出したいとは思わないんですか?」
その質問に、足元に視線を落としていたギンカは、少しドキリとしてさくらをちらっと見た。さくらは変わらずに真っ直ぐな瞳で横に腰掛けたオニを覗いている。
「思い出せなくでもいい、というと少し嘘になります。でも、地獄の生活にけっこう満足してるんです――ちょっと今は仕事、大変ですけど。それに、もし自分がろくでもない人間だったとしたら、知らないほうが幸せかもな、なんて思ったりもします」
ギンカはそう言いながら、たまに夢で出会う母親らしき人物を思い出していた。温かさを教えてくれたはずの母親は、いつも夢の途中で自分を切り捨てるように去ってしまう。きっと、母親は自分を捨てたのだろうとギンカは思っていた。
自嘲気味に軽く答えたギンカは、さくらの返答がないことに気がついてドキリとした。何かまずいことを言ったかと焦って顔を上げると、さくらはさみしそうな顔で遠くの水面を見つめていた。ぽつりとこぼした言葉に、ギンカの胸はずきんと痛んだ。
「わたしも、忘れちゃったら楽になるのかな……」
ギンカは背中を丸めて、落ち着きなく自分の指をこすり合わせた。
なんて馬鹿なことを言ってしまったんだ。彼女が診療所に通っているのではないかという考えは、初めて会ったときからあったはずだ。軽々しく自分の過去を否定することが、彼女にとって重たい意味を持つかもしれない。その考えに及ばなかった自分に腹立たしさを覚えていた。
「ああ、いえ。気にしないください」
その様子を気にしてか、さくらは再び明るい声で言った。自身の不甲斐なさに顔をしかめ俯いたままのギンカに、さくらは滴をこぼすように話し始めた。
「生きていたとき、大切な人を亡くしてしまったんです。わたしのせいで。でも審判では、あれは事故だったと判断されました。わたしが間違えなければあの人は今も生きていたはずなのに……。わたしは、自分で自分を許せなくて。それなのに忘れちゃいたいなんて、自分勝手すぎますよね……」
泣き止んだはずの彼女の声がところどころ途切れ、涙声に変わっていく。思わず顔を上げると、さくらは涙をぽろぽろとこぼしていた。その唇は震え、膝の上で強く丸められた手はかすかに震えている。
泣かないで。思わず、そう言って優しく手を添えてあげたくなった。
ギンカは手を伸ばそうとした。しかし、視界に映ったオニの手に気づき、諦めて手を膝に降ろした。爪は伸びて肉食獣のように先端が尖っており、不自然なまでにゴツゴツと骨ばった手指は、明らかに人間のものではない。こんな手では、悲しみの最中にいる人を慰められるはずがなかった。
そのオニの手は、さくらと自分の間にある、絶対に埋められない溝そのものだった。
頬を濡らす彼女を前にして、どんな言葉も意味を持たない気がした。ギンカは、ただ黙って彼女の隣に座っていた。
「花畑、見に行きませんか?」
思考を飛び越えてそんな言葉が口をついて出た。うろたえながらさくらを横目で見ると、彼女は手の甲で残っていた涙を拭い、ギンカに微笑んで頷いた。
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