第2章⑧

 シンディを訪ねたふたりは、診療所の奥にある事務所に通されていた。メールには「ケガの経過観察のため」とあったが、なんとなくそれだけが理由ではない気がして、適当な理由をつけてロクに同行を頼んでいた。


 3つしかないうちの1つのデスクに向かったシンディは、置いた紙をトントンとまとめながらふたりに挨拶をした。


「すみません。突然お呼び出ししてしまって」


 ギンカたちは狭い部屋の壁際に置かれた長椅子に腰掛け、初めて入る診療所内の事務所の様子に少しそわそわしていた。反対側の壁には背の高い書類棚が並んでおり、カルテのようなファイルで埋め尽くされている。


 ギンカは、前髪に隠れたうっすらと残る傷跡に触れた。


「いいえ。おかげさまで、ケガはもうすっかり良くなってます」


「よかった、ありがとうございます」


 早口でこちらを見ずに答えたシンディに、この話題が終わったことがわかった。心ここにあらずといった様子で、デスクに置いた書類を両手で束ねている。


 ――いったい、彼女の真の目的は何だ?


 ギンカはゴクリと唾を呑んだ。


「ほかに要件は……?」


「ごめんなさい。ケガの様子が知りたいというのは、表向きの理由で。今、事務所にいるの私だけなので、手短にお伝えしますね」


 シンディはやっぱりちょっと怪しかったですよね、と小さく笑いながら、おそるおそる尋ねたギンカに一枚の紙を差し出した。それを受け取ったギンカの隣で、ロクが首を伸ばして覗き込む。


 えーと、と言葉を濁したかと思うと、シンディは軽く息を吸ってつらつらと流れるように言った。


「先日、環境庁のジキトさんを連れて来られましたよね。『転んだ』とは言っていたんですが、何かを隠しているような感じで、どうもそれだけには思えなくて。少しだけ、彼のことを勝手に調べてみたんです」


 ジキトの治療後、自分たちを追い返すような態度を見せていた理由に心の中で納得しながら、紙に目を落とす。


「審判申込書」と書かれた書類は履歴書のようで、ジキトの名が記してあるほかには、生年月日、死亡日時とその理由、生前の名前などを記載する欄が設けられていた。しかし、それらはすべて空白だ。こんな書類を見るのは初めてだったが、どうやって入手したのだろうか?


「実はわたし、後援庁ができるまでは審判庁の職員だったんです。審判庁は地獄で働くオニの情報をこういった書類で保管しています。記憶を無くした人をオニにするわけですから、誰がどの部署に配属になったとか、どこに異動になったとか、細かく記録をしているんです」


 ふたりの疑惑を抱いたような視線を感じ取ったのか、すかさずシンディが言った。ギンカの横ではロクが疑問を浮かべたように唸っている。


「でもこれ、ほとんど空欄じゃ?」


「それは審判にも使われる書類のひとつですから、本人と対話しながら作成します。だから、記憶がないオニの書類が空欄ばかりなのは普通のことです」


 確かにオニになる前、担当者と面談のようなものをした記憶があるとギンカは思い出していた。何も覚えていなかったし、完成したものを確認したわけではないから、この書類を見たことがないのも理解が及ぶ。


 しかし、シンディは言いづらそうにそこで区切った。こちらに向けていた視線が泳いでいる。ギンカは眉を寄せてシンディの言葉を待った。


「問題なのは……生前の記憶についての書類がないことなんです」


「それって、どういうことです……?」


 動揺を隠せず、ギンカの声は上ずっていた。一瞬のうちに脳内にはいくつも疑問が湧き上がる。記憶がない者がオニになるのだから、オニであるジキトの生前の記述がないのは当然だろう。それが異常なら、つまり、自分たちの記憶はどこかに残されているとでもいうのだろうか?


 いつの間にかぎゅっと握っていた書類や、デスクに置かれたファイルの束を意味もなく交互に見ていると、シンディが目に覚悟の色を浮かべてこちらを見ているのに気がついた。


「順を追ってお話ししますね。それと、今からお話しすることは審判庁の一部のオニしか知りません。内密にお願いします」


 シンディはそう前置きをした。ギンカは同じく困惑した面持ちのロクと軽く目を合わせて、話の続きを待つ。


「わたしたちは人間界で命を落とすと、地獄の入口をくぐり審判を受けます。審判には2つの書類が必要です。ギンカさんが持っているものがそのうちのひとつで、それは本人と面談をしながら作ります。もうひとつが記憶に関する書類で、これは人間界の管理部署から送られてくる情報をもとに、非公開で作成されているんです。本人の記憶の有無に関わらず、全員分です。ギンカさんも、ロクさんも、わたしも」


「記憶が……? じゃあシンディはおれたちの過去も知っているのか?」


 ロクが身を乗り出して聞く。だが、シンディは残念そうにかぶりを振った。


「記憶に関する書類に触れられるのは、審判庁のかなり限られたオニだけです。だからわたしも昔のことは何も知りません。ジキトさんの過去の書類は、昔のツテに頼ってこっそり用意してもらったんです」


「そうだったんですか……」


 長い息を吐きながら呟いたギンカは、ゆっくりと壁に背を預けた。


 自分の失った記憶がこの地獄のどこかにあるという事実に、頭がぼうっとしていた。だが、それを知るのは少し怖い。一連の事件が起きるまでは、それなりに満足した暮らしを送っていた。思い出したらきっと、今の生活は崩れ去ってしまう。それなら過去の記憶なんていらない。地獄だとしても、それがいい。


「それで、ジキトの記憶が書いてないっていうのは?」


 ロクの声にギンカの長考は中断された。そうだ、今重要なのはジキトの件だ。


 悩まし気に眉をひそめたシンディは、事務所のフローリングに目をやった。部屋にはギンカたち以外はいないが、声をひそめるようにして言う。


「ジキトさんの場合、非公開で作成されているはずの記憶の書類が、一切ないんです」


「そんなことあるのか? 確認間違いとか、担当者のミスとか……。そもそも、その書類がないって、そんなに深刻なのか?」


 探るような目でロクが聞いた。確かに、その点はギンカも気になっていた。記憶の記述がない場合、どんなことが考えられるのだろうか。


「もちろん、審判庁の担当者のミスではないとは言いきれません。でも、この書類は業務のなかでもかなり重要なものですから、わたしはその可能性は低いと思っています」


 改まってこちらを向いたシンディは、膝の上で両手をぎゅっと握りしめている。


「もしこれが本当なら、あってはならないことです。誰かの間違いで記録がないのではないとしたら、ジキトさんは不正に環境庁に入っていることになります」


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