game 76. 与える人


 毎年やって来るお正月なんて、べつに毎回特別なものじゃなくていい――そう思っていたはずなのに、去り行く足音を聞くとやはり少し寂しい。あんなお正月は、きっと二度と来ないと思うからだろうか。


 大学が始まればお正月ムードは急速に薄れ、日常が戻ってきていた。ただしそれは、パブに住みついた悠馬の「新しい日常」だ。日常は常に変化する。一日たりとも同じ日はない。


「ユウマ、洗濯物あったら出しといて」

「わかった。ノラ、ご飯これくらいでいい?」

「お、完璧だな! 美味そう」


 そんな。よそっただけなのに。ご飯を炊いたのは炊飯器だし、その準備を含め、朝食を作ったのは毎度のことながらノラだ。


「ああ、それと、ベッドシーツ交換しよう」

「交換?」

「新しいやつ、部屋に置いといたから。時間あるときに外して洗濯室に放り込んどいてくれ」

「あ、なるほど」


 恥ずかしながら、下宿のほうは長いこと敷きっぱなしだ。今度帰ったら洗おうと密かに決意した。


「それじゃあ」

「「いただきます」」


 カウンターに並んで手を合わせる。この瞬間が好きで、悠馬は今のところ早起きを続けられている。


 シオンとの約束でもあるので、数日おきには下宿のほうに戻るようにしているけれど、なるべくならこちらに泊まりたい。

 ただでさえ日中は不在がちなノラだ。夜勤や早朝出勤が入ると、同じ屋根の下に住んでいてもほとんどすれ違いで一日が終わってしまう。パブの営業時間には揃っていることが多いけど、それはまた、別の話だ。


 ノラが作る朝ごはんはカフェ風オシャレメニューばかりかと思いきや、ご飯と味噌汁、焼き魚にお浸しといった、渋めの日もある。今日はどんなのだろうと起きる毎朝が楽しみだった。

 出来れば、一緒に作れるくらいにはなりたいが、それはまあ追々として。最近は配膳のお手伝いをさせてもらっているので、ちょっとした昇格だと思っておこう。


「ノラは、朝から仕事?」

「ああ。これからオペがあるんだ。そんなに時間かからないと思うから、昼過ぎには帰れるけど」


 深夜までパブの店員をして、朝から手術オペ。こんな医者、なかなかいないだろうなと、焼き魚の頭をかじるノラを見て思った。


「じゃあ、洗濯オレがやっとこうか?」

「いいよ。ユウマはこれから大学だろ」

「でも……。なんか、悪いし。いつも朝ごはんも作ってもらって」

「ユウマのぶんがなくても、オレは自分の朝メシ作るし、洗濯もする。店のタオルとかもあるしな。一人ぶん増えたくらいで、そんな変わらないよ」


 実家にいた頃は、起きれば朝食が出てきた。洗濯物も、勝手に綺麗になって戻ってきた。それは有難いことだったのだと、一人暮らしを始めてから知った。

 自分のぶんだけなら、まだそんなに苦痛ではないけれど。人のぶんまでさせられたら、悠馬なら数日で嫌になる自信がある。


 そこまで考えて、ふと、年越しキャンプで聞いたシオンの言葉を思い出した。いつかは与える側になる――ノラはもう、与える側の人だということだろうか。


 考え込む悠馬を見下ろして、ノラは話を変えた。


「そうだ。ユウマは今日、バイト入ってたよな?」

「えっ? うん、今日は終わりまで――十時まで」


 パブの二階に住みついても、バイトは十時で切り上げさせられていた。労働基準法云々うんぬんの制約があるのかと思ったけれど、そうではなくて、単にシオンのポリシーらしい。十時以降も店内に居残ることは放任されている。


「オレは夜勤があるから、途中で抜けるけど、頼んだぞ」


 相変わらず忙しい人だ。


 それなら、明日の朝は、ごはんを作ってノラの帰りを待っていよう。夜勤明けの胃にもやさしい食事って、どんなのかな……。それを考えるだけで、今日を通り越して明日まで楽しみになってしまう。


「夜勤って、どんなことするの?」

「救急の当直。急患があれば診るし、なければ寝てるだけ。入院患者さんの急変に対応することもあるけど、そっちは病棟の当直もいるから」

「ふぅん。救急って、なんか忙しそう」


 ドラマなんかでも、救急医といえば次々運び込まれてくる患者の対応で、睡眠はもちろん食事もロクにとれないイメージだ。

 医学部生といっても座学ばかり受けている段階の悠馬にしてみれば、臨床現場のイメージなんて一般人とさして変わらない。


「日によるな。ドクターってのは、やっぱりいるみたいで、そうなるとめちゃくちゃ忙しいけど」

「ノラは?」

「オレは、ほどほどかな。ややこしいケースをよく引くとは言われる」

「へえ、それも大変だね」


 何がどう大変かは、よくわからないけれど。


「オレは一応、シニア・ドクターの扱いだから、研修医を口先で使うだけだよ」


 そんなことを言っても、きっとノラは面倒見がいいのだろう。


「だけど日本で運ばれてくる急患は、まだわかりやすいと思う。爆弾で片脚吹っ飛んだとか、銃弾が内臓貫通したとか、そういうのばかり扱ってると……あ、こういう話、平気か?」

「うん……、大丈夫」


 笑顔が若干、引きつりそう。


「そうか。ユウマも、医学部生だもんな」


 実際のところ、その爽やかな笑顔と裏腹な言葉の中身にも、食欲が減退することはなかった。

 べつに医学部生だからというわけではない。幸いにも悠馬には、それを具体的にイメージできるような経験も想像力も無かったというだけのことだ。


「あっ、オレがやっとくよ!」


 先に食べ終わったノラが片付けようとするのを見て、悠馬は慌てて制した。

 食事のペースを合わせようとする努力は、もはや放棄していた。そのほうが、却ってノラも気兼ねなく食べられると思ったからだ。


「ありがとう、助かる。じゃあ、悪いけど先に出るよ」

「いってらっしゃい」


 食洗機に入れるだけなんだけれども、と思いながら、黒い背中を見送った。


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