気まぐれな裁き

宝力黎

気まぐれな裁き

 古い店構えだ。入り口の外には巨大な瓶があり、水草が浮いている。小魚の姿もあるが、種類は判らない。色の饐えたノボリには《本格珈琲》と書かれているが、その文字もかすれている。

 当然の如くドアは手動だ。塗装のはげたドアを押し開ける。カウベルがカラコロと鳴る。店内には静かなジャズが流れている。観葉植物が邪魔で店の奥まで見通せないが、おそらくはその目的で置かれたのだろうなと堂島茂明は思った。

「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」

 どこからかそう声をかけられたが、堂島は目指す相手を見つけて近づいた。それは老人と呼ぶにはまだ早い壮年の男で、上品な衣服を身につけた、いわゆる紳士だ。

 紳士は傍に立った堂島を見ずに言った。

「空いてますよ」

 二人掛けの席だ。自分の向かいを指さした。

「もっとも店のどの席も空いていますがね」

 そう言って見せた笑顔はやはり品のあるものだ。

「お言葉に甘えて」

 そう言い、堂島は男の前に腰を下ろした。ウエイトレスなどいないらしく、顎髭を蓄えた老人がオーダーを取りに来た。堂島が《私にもホットコーヒーを》と告げると去って行った。

「良いお天気ですな。こんな日には良いことがたくさんありそうだ」

「ありますか」

 堂島が訊ねると男は微笑んだ。

「ありますとも」

 運ばれてきたコーヒーは湯気を立てている。堂島はそれには手を伸ばさずに言った。

「少しお尋ねしたいことがあるんですが」

「私に?なんでしょう?」

 突然現れた男を意にも介さず窓の外を眺めている。大きな通りを挟んで見えるのは異様に背の高い塀だ。

「ここで何をなさっているんです?」

「とくになにも。まあ、コーヒーを楽しんでいる――といったところでしょうか」

 男は仄かに湯気の立つカップを手に取ると一口啜った。瞼を閉じて味わっている。

「奇妙な事件がありまして」

 堂島は唐突に言った。

「そうなんですか?」

「ええ、たった三日の間に三人も死んだんです」

「それはそれは。ですが、それほど人口増減のない国では生まれる数と同等に死んでいくのではありませんか?三日で三人――ふむ、それを多いと言えるかどうか」

「多いと思いますよ。その三人は、この三日の間に相次いで、この向かいにある刑務所から釈放されたんです。それが続けて三人死ぬ。この率は随分と高い」

 男は自分のカップから立ち上る湯気を見つめている。

「そして、調べていて判ったんですがね、あなたはこの三日間、毎日この喫茶店に来ていますね。お近くに住まわれているのですか?違いますよね?」

 男は視線を上げず、楽しげに呟いた。

「よく調べるものですな。であれば、私がこの近くに住む者で無いこともお調べになったのでしょう。それで、私に一体何のご用でしょうな?」

 堂島は警察手帳をとりだして男に向けた。男は見もせずに頷いた。

「身元の分かるものは何かお持ちですか?」

「ありません」

「なにも?」

「ええ、何も。ですが刑事さん、私が何者であろうと、それが一体何だと仰りたいのです?ただこの店に来て、ただお茶を楽しみ、そして帰る。それだけのつまらん男ですよ」

「帰ると仰ったが、どちらに?」

「まあ、それは色々と」

「色々と、お家があるのですか?」

 男は黙った。

「私はね、さっき話した三件の死を捜査しているんですが、その中であなたの存在に気づいたわけです」

「ほお?」

 柔和な表情に変化はない。

「一人は痴漢常習で、逃げようとした際に被害者を突き飛ばし、軽い怪我を負わせている。もう一人は、女性の連れ子を虐待し、殺害してしまった男です。そして三人目は老人宅で強盗を働き、老夫婦の顔を骨折させるという非道な加害を働いている。私の立場で罪状の軽重など語る気はありません。罪は常に嘆きを生み、被害者の傷は癒えません。犯人は罪を償った――として出所後は消えることが可能です。何なら自分の方は事件を忘れることだって出来るでしょう」

 男は黙ったままカップを見つめている。

「実は、最初に死んだ痴漢常習犯ですが、死んだ場所は街中でした。それも駅前の雑踏で。救急隊員と警官が駆けつけた時には心肺停止状態だったそうです。後の検査では心筋梗塞と断じられました。担当した刑事の記録では、取りたてて不審な点はなかった」

 湯気はゆったりと漂っている。

「二人目の子殺しの男ですが、これも人中で死んでいます。家電量販店のエスカレーターで崩れるように倒れ、一件目と同様、救急隊員が駆けつけた時には心肺停止状態で、やはり心筋梗塞を起こしていたことが判っています。ところがこのとき、人定を行った所轄は奇妙なことに気づいたんです」

「奇妙な。それは?」

「さっき言ったとおり、同じ刑務所を出ていたんです」

 堂島は窓の外を見た。それ自体はただの壁だ。だが、人を社会から隔絶させる機能を持っている。自分でドアを開けることは出来ないが、普通に暮らしていれば入ることなど無い。

「同じ刑務所を出所して、同じように数日で死ぬ。それも同じように心筋梗塞を起こし、同じように人の見ている前で――これはなんだろう?と疑問を持ったのは言うまでもありません。刑事には嫌いなものがあるんです」

「面白い話ですな。それはなんです?」

「偶然です」

 男は静かな眼差しを堂島に向けた。

「偶然は、あります。ただしそれが人の死や犯罪がらみとなると刑事は疑います。都合の良い偶然ほどね」

「なるほど」

「それが確信に変わったのは、三人目の死者が出た時です。その強盗犯も、ここの刑務所を出所して数日で死んだんです。それも人混みで、心筋梗塞で」

 堂島は自分のコーヒーを啜った。既に冷え始めていた。

「合同捜査本部が立ち、私も参加しました。初めにしたことは、男たちの足取りを洗うことでした。それは出所直後からのね。いまはいたる場所に防犯カメラがありますから、その面では案外楽なものです」

 店の中を見回したが、カメラは見当たらない。実にありきたりな風情の古い純喫茶だ。観葉植物、ジャズ、壁に飾られた絵は見事だが、堂島には何を描いているか判らない代物だ。マスターの姿はカウンターの奥で見えない。

「協力くださった一般の方の為にも、その所在は言えませんが、刑務所を出た直後から三人の姿は捉えられていました。この近所におあつらえ向きのカメラがあったんです。とは言え、その後についてはもう追えませんでしたがね。でも、その映像にちょっと興味を引くものが映っていたんですよ」

 堂島は男を見つめた。

「あなたです。あなたは、その三名の出所日、同じように映り込んでるんです。そのカメラの記録に、あなたがこの店を出入りするのがハッキリとね。しかも、男たちが歩き去ると決まってあなたはそのあとを追うように店を出た」

 数秒の沈黙が流れる。男は湯気を楽しむように微笑んだ。

「そして男たちは、それぞれの出所日に死んでいる」

 その説明を聞きたい――と言おうとして堂島は違和感を覚えた。それは恐怖にも似ていた。

「あなたの――そのコーヒーは、なぜまだ……」

 ゆったりと立ち上る湯気の向こうに男の眼差しがある。そのコーヒーは、堂島が腰を下ろすより前からそこにあったはずだ。

「刑事さん」

 男はカップを置き、言った。

「大変なお仕事でしょう。ご苦労も多い。扱う相手は嘘しか言わない上、被害者ですら神が見るように正確、平等には訴えない。それは無理もない。緊張もあれば興奮もしている。怒りで処罰感情も働くのでしょうから。そんな中で真実とやらを追い、暴き、送検する?うん、大変だし立派なお仕事だ。ですが、それはすべて人間が決めた法という枠の中の話です。処罰の方法も量刑もいままでこうだったから、この罪はこう――という判例主義ですね。それもまたいいでしょう。裁くのは同じ人間だ。人間が人間の社会のことを決めたなら、それはそれで本当に尊重しますよ。刑務所で刑期を――と言うなら、その期間も尊重しましょう。ただし」

 男は堂島を見据えた。一課のオオカミと呼ばれた堂島の身体は硬直し、寒気すら感じて震えた。目の前の男は微笑みを浮かべて話しているというのに。

「人間以外も処罰するとしたら、その法は尊重してもらうしかない」

 立ち上る湯気は消えることが無い。男はコーヒーを啜った。気づくと、ジャズは聞こえない。エアコンの風に揺らいでいた観葉植物の葉も微動だにしない。マスターの気配も感じない。

「偶然が嫌い――と、仰った。私には逆に好きなものがありましてね。それは、気まぐれという奴です。人間は物事に規則性や法則を見いだし、自らは法を作って納得し、安心したがるが、そんなものは泡沫の夢です。些末であって、とるにも足りません。本質はそこではない。私は、気まぐれこそが豊かで美しく思えますよ」

 そう言い、男は立ち上がった。

「まれに私は自身の手で処罰を行うのです。それは気まぐれです。様子を人々に見せるのは、まあ謂わば警報です。気を付けよ!」

 突然厳しい声に変わった。

「神の気まぐれに触れず生きられるものなど居ない。大切なことは、悔いるか、悔いないか。それ以前に、罪を犯さないように努められるか。そこで人間は二派に分けられる。つまり私から見て――」

 男は微笑んだ。

「生きていていいか悪いかにね。生まれ出る一人一人を私が作るわけではない。用意された人生も私が用意したものでも無い。自分です。自分が作るんだ。その自分を自分たち人の作った法がどう考えるか。私がどんな気まぐれで見つめるかは、これはもう身から出たさび以外の何ものでも無い。その者に罪を犯させようなどと、そんな関与を私はしないのだから」

 そう言うと男はゆったりと踵を返し、ドアに向かった。呼び止めたいが堂島の身体は動かない。男はドアの傍で立ち止まると壁を見た。

「この絵は、たしかウィリアム・アドルフ・ブグローの《オレステースの悔恨》でしたか。うん、いい絵だ」

 そう言い残し、男はドアの向こうに消えた。

 残った堂島はマスターに揺り動かされるまで気を失っていた。

「俺は何をしていたんだ……この喫茶店で《一人で》」

 テーブルには堂島のコーヒーカップが一つあるだけだった。

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気まぐれな裁き 宝力黎 @yamineko_kuro

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