恋煩いはシュバラウスも食えぬ

 ミオは『王宮訓練場にゲドロビアン発生』という知らせを受け取り、一度起き上がりかけた体をまたもカウチに預けた。そして十鐘後、『ゲドロビアンは発生は誤報』と伝書が届いたのにも受取の署名のみ返して目を瞑っていた。

 もう二日は、体力も気力もなく実験室に転がっていた。

 無理な魔力行使のせいで、いまの彼は最低限――地下通路や素材倉庫の結界を持続させることしかできなくなっている。普段ならば転移術など朝ごはん前だったが、慣れない変異術との併用は体にもこたえていた。

 寝返りを打つとシュバラウスだったときの食事用の皿や記憶を呼びおこす余計なものが目に入った。それがどうしようもなく彼を感傷的にする。そしてすべてのやる気を失わせるのだ。

「はぁ、俺は……」

 彼は、シュバラウスの高速移動と転移を併用してシェリに会いに行った夜を心底後悔していた。


 シェリが実家に帰った、数日前――グラーダの執務室で『俺から逃げた』という新見解を得たあと、ミオは地下の素材倉庫へと赴いた。

 ミオは自分が落ちこんでいると自覚しながら迷路のごとき倉庫内を歩き回った。彼女のために買った素材や頼まれたものを集めながら。父宛てに送るつもりだった、今月の給料と共に。

 そして散歩の夜、彼女が割ってしまった薬瓶を見つけた。


 ぶちまけたのは、彼女の風邪薬だった。匂いだけは甘いが味は最悪、しかし効きはすさまじくいいと速攻で認可の下りたもの。

『不味くたって、絶対に早く治った方がいいに決まってるじゃないですか!』『病気で困ってる人を苦しみから救うのが薬じゃないんですか!』

 薬学志望なら経験を積ませた方がいいだろうと、元は気まぐれで知り合いから受けた依頼だった。それをシェリは寝る間も惜しんで取り組んだ、見事に結果を出した。そのときミオは、彼女の若い熱意に当てられた、なんとか薬学で食わせてやりたいと思ったのだ。


 割れたガラスを拾い上げたミオは、薬瓶だけでもと術で欠片をくっつけた。魔術を以ってしてもひびは残る。空っぽの瓶が彼の手を冷やした。

 出ていく前の彼女が『ずっと、ミオ師の弟子でいたい』と言ったとき、ミオは咄嗟に「いやだ」と言いかけた。弟子ではない関係を望んだ本心に、彼自身が動揺した。


 ――いいや、彼女が望むなら好きなだけ弟子でいいじゃないか。

 床に散った薬の黒い跡が、彼を見上げていた。

 そうだ、俺は師匠であればいい。素晴らしい弟子だった彼女に応える師匠でありたいのは事実だ。あとたった六日だけでも、彼女が穏やかにこの家を出ていける日まで。

 そうして彼は彼女に会いに行くことを決意したのだったが――。




「俺は……」

 そしていまミオは、彼の意思に関係なく再生される映像や感情にへこたれていた。自分のおかした弟子たちへの態度に、どうしようもない罪悪感と羞恥に胃が痛む。

「最悪だ」

 十五も年下の寝所に入りこんであまつさえ抱きしめ、婚約者に見つかりそうになって逃げ、その婚約者が抗議に現れても言われっぱなしでやり込められた。そうしてなにもする気になれず、実験室にこもっているのだ。しっかりと鍵をかけて。

「やはり謝罪を……いや、しかし……それより依頼を……」

 しかし体は重く、まったくやる気にならない。

 恋煩いとはこうもつらいものかと、情けなく項垂れた。


 あのとき、窓が開いた瞬間――彼女の魔力が呼んだのだと、ミオは繰り返す白昼夢に瞳を揺らす。

 黒に沈む初冬の冷えた夜に視えた、あたたかな熱、赤い星のごとき光。

 もう消失したはずの、シュバラウスだったとき感じていた彼女の魔力がまだ身の内にあるような、片割れが見つかったような力が彼女を見つけさせたのだ。

 おかしな現象だった、魔力はもう残滓も消え去っていたのに。

 そう理論上断定するたび、ミオはひどい寂しさに襲われる。彼女の粒子のひと粒でも身の内に残っていてほしいと思っている自分に気づいていた。


 これは変異の影響でそうなっているのか、だとすれば実用には程遠い。術中の感情的な影響が解術後も残るならば、魔術師の善性に委ねる法はない。危険すぎる。

 だが、俺のこれは、そうでない可能性がある。単に彼女を求める心のせいかもしれない――。


 だがミオはその問いを研究のために追求することを放棄していた。幾度も。四十にもなって若い女性に二度も追い縋れない。独身なのだ正当な権利ではあるが、自らの倫理において許されることではなかった。

 迂闊にも触れてしまった、触れられてしまったせいだ。体かシュバラウスだったからなのか、心がミオだったからなのか逆だからか。

 残念ながらミオに考察の機会は永遠になかった。

 つまり、彼女にはもう触れられないのだ。

 彼に軽率に触れる温もりも、無邪気な笑顔も。真摯な横顔も、くすぐったい巻き毛も簡単にこぼれる涙も。

 切なさが自嘲に翻り、また胃痛がかなしみへ――。


 だが痛みはいつか薄れると、彼は経験で知っていた。

「……やるか」

 弟子のために始めた依頼は、もはや請け負う必要のない仕事だ。「まったく未練がましい男だな」ひとり自嘲に口を歪めた。伸びた髭が煩わしかった。

 ミオは、髪を雑にかき上げ立ち上がった。依頼書に目を落とした。



 *



 ゆさゆさと結構な強さで揺すられ、シェリは目を覚ました。

「起きた! グラーダさま、シェリが気がつきました!」

「チャム……? ここどこ?」

 まるで学園の医務室みたい、とそこまで考え、彼女は訓練場でやらかしたことをカッと思い出した。王宮内の医務室に違いないと。まさに正解であった。

「あわわわわわ……チャムぅ、どうしようわたしやっちゃったかもしんないぃぃ! あ、あれ……体が、え?」

 起き上がろうとしても無理だった。一切、体に力が入らない。話すことや思考は普段通りに行えることがまた、彼女にとってはひどい違和感だ。


「ねぇこれって、もしかして魔力が」

 シェリが青ざめたとき、仕切られたカーテンの向こうからグラーダが現れた。彼女はのぞきこまれる。

「まぁったく世話が焼ける子。サージャくん、付き合ってて大変じゃないの?」

「慣れました。それに結構飽きなくていいんです」

「それは言えてる」

 ひとり顔だけでばたつくシェリをそっちのけ、チャムとグラーダは「やれやれ」と共感する。

「ハァ、なんだか他人事とは思えないわね。サージャくんあなた、次の人事で口効いてあげようか」

「聖女さまにココモナーヴァさまのご加護がありますよう。無論、一生ついていきます」

 シェリの視界からチャムの顔が消えた。床に跪き、最敬礼したのだ。

「ふふ。美しくて礼儀正しい子は好きよ」

「光栄です」

「ちょ、いいから助けてよチャム――――!」

 置いてけぼりのシェリは叫んだ。


 ――王宮試験史上、試験中に各所に緊急伝書を飛ばすことになった事件は二度目。まさに十五年ぶりの騒動に、人事の採用担当者と試験官たちは緊急の会合を行っている。

 グラーダはそう淡々と説明し、

「一応あたしが状況を見届けた事実があるから、試験は失格にはなってないわ。むしろ試験官の職務放棄も問題になってるわね」

 と、言った。協議が終われば緊急伝書で届くよう伝えてあるとも。


 聞いたシェリは「よかったあぁ」と安堵で涙ぐんだ。

 とはいえ心中は複雑だ。彼女にはグラーダの意図がわからなかった。

 煽ったと思ったら助けてくれたり。この前はあんなに怒ってたのに……。 

「あら、これでも合格を見届けようと足を運んだのよ? ミオのかわいい弟子だもの」

 シェリの心を読んだようにグラーダは眉を上げた。

「普段あんなに騒がしいのに、見に行ったらラビリスかと思うくらい縮こまってるんだもの。そりゃ激励するわよ」

「激励……」

 あれが? シェリは納得いかなかったが、とりあえず感謝を述べた。

 脇でチャムは「聖女さまの煽り芸を拝めるなんて」となにやら感動している。


「ハチャメチャだったけど、面白かったわよ。薬学課がどう思うかは知らないけど、間違いなく来年は試験規則が増えるわね」

 グラーダがニヤついて彼女の肩を軽く叩いた。

「シェリの花火、王宮からも見えたよ。誰かが花火師として採用したいみたいなこと言ってたのには笑っちゃったけど」

 「お疲れ」チャムがちょいと前髪を撫でた。シェリはぐすっと鼻をすすった。

 とにもかくにも力は尽くしたのだと思えた。


「君って涙もろかったんだね」

 目尻についた涙をすくってやったチャムに、グラーダは「恋する女とババアは涙もろいものよ」と腕を組んだ。

 『恋』と聞いてチャムの碧の瞳は途端にスンと曇る、まったく興味がないのとシェリに対して後ろめたいことがあると思い出したからだった。


「ところであなた、いつまでもここには寝ていられないわよ。王宮ってケチだから職員以外には薬は出さないし……親も田舎だし、サージャくんも寮よね」

「はい。僕は連れてっても構いませんけど、たぶん大騒ぎにはなりますね」

「うちも民間人連れていくと面倒なのよね」

 指先ひとつ動かせないシェリは申し訳なくふたりを見上げた。

「あの……あ、いえなんでもないです」

 シェリにはひとつだけ当てがあった、自分の薬だ。

 ミオ師の家に残ってるはず。でも動けないし、合格がしてもないのに会いになんて行けないや。それに、なんかグラーダ師にお願いするのは嫌だ。


 急に黙りこんだ彼女をふたりは見下ろし、視線を交わし合った。

「あーこのままじゃ可哀そうよねぇ! 仕方ない、ちょっと動けるくらいなら魔力を分けてあげてもいいかしらー」

 グラーダは明らかに棒読みだ。チャムも「それがいいよシェリ」とやけに優し気な、胡散臭い笑みを浮かべた。

「え、あの?」

「あなたもしかして、じかでの譲渡は初めて?」

 くい、とシェリは聖女に顎を持ち上げられた。気道の確保は万全な角度だ。

「じ、直って……まさか……」

 「何事も経験だね、シェリ! 王宮では日常茶飯事だから大丈夫だよ」と、チャムが麗しく微笑んだ。悪事を隠す顔である。

「はぁい力抜いて」

 問答無用で聖女の顔が近づき、シェリは「ひっ」と、目を閉じた。

「え! ぁ……んんっ!」

「はぁ、ほらもっと……そう、んふ……かわいいじゃない」

「んぅ……は、ぅん」


 直とは経口魔力補給のことである。

 このときチャムは新たな扉が開きそうになったと、随分のちに語った。




 「さぁて、あとは自分でなんとかしなさいね」とシェリの額をぴんとつついて、グラーダは王宮に戻っていった。チャムはまだ仕事があると言って、転移前に別れている。

 ひとりでミオの家の玄関に立つシェリは、「ごめんください……」と玄関ドアを開けた。


 グラーダの強引かつ巧みな経口譲渡によって、彼女は一度の転移術に耐えられるくらいには回復していた。そして「休ませてくれるはずよ」と、やはり強引にミオの家に連れてこられたのだ。

 中に入っても、誰の気配もない。

 グラーダ師自ら連れてきたってことは、ミオ師はわたしに怒ってないってこと? 合格したら顔を出そうと思ってたのに……休ませてもらいたいなんて言えないよ。そうだ、魔力の回復薬とお給料と素材をもらってすぐ帰ろう。

 ミオのことだ、ろくに歩けない人を追い出したりはしないだろうと、シェリは覚悟を決めた。


 ひとつも物音のしないところを見ると、ミオは実験中か地下にいるのだろうと思われた。いまのシェリはまるで生まれたての獣で、廊下の先の実験室までも体力が持たない状態である。

「あ、やっぱりふらつく……貧血みたいになるって本当だったんだ……」

 へっぴり腰でソファにたどり着いた。はー、とすぐに寝転がり、違ったもう自分の家じゃないと起き上がろうとする。しかし仰向くと突然視界が回転した。彼女は唸りながら一番マシな体勢、つまりうつぶせた。

「お母さまも、こんな風になったのかな」

 きっとこんなの比じゃない。もっともっと苦しかったはず。

 すぐに打ち消したシェリは、最後に見た母の儚い笑みに胸を詰まらせた。


 ――やっぱりわたし、まだ薬をつくりたい。

 趣味じゃない。どんなに美味しくなくたって失敗したって、お母さまのような魔術師をひとりでも減らしたい。


 シェリはうつぶせたまま、祈るように願った。

 父は許すだろうか、まだ見ぬ結婚相手は――。

 ごめんなさいお父さま。でもわたし決めた。

 反対されたら家を出よう。権利書を売って暮らそう。


「そうだ。伝えに、行こう」

 いまのシェリにとっては、試験に合格するよりも薬学を続けることの方がよっぽど誇らしいことに思えた。一度はやめると決めた道を再び目指すことを、師に宣言するべきだと思えた。

 ミオに唯一認めてもらったことも薬学だ、そう思えば彼女は立ち上がれた。相変わらず視界は回っていたが、彼女は廊下へと進んでいく。


 するとそのとき聞きなれた錠の開く音がしたと思うと、内側から開いたドアの向こうから煙とその強い刺激臭が床を這うようにして廊下に広がった。

 これ、アンノン草の凝縮液――!

 予告なく吸わされた酸の強い臭いにシェリは咳きこんだ、脚が偏重を受け止めきれず崩れた。肩を打った。

「いた、たた……うぅ」

 横倒しの視界に、遅れて部屋を出てくる影が映った。ミオだ。実験用のマスクを着けてはいるが、彼もひどくふらついていた。

 すぐ彼女に気づいた。

「シェリ、なぜ……いや、アンノン臭をマトモに吸ったな」

 ミオはぜいと駆け寄った。

 「ミ、オ師」息を吸うと咳きこむので彼女は名も呼べない。

 「む、魔力がないのか」と一瞬で状況を理解したミオは、シェリを抱え上げた。足を踏ん張り、そしてよたよたと風呂場へと駆けこんだ。

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