麻酔下

 別になにか、特別な感情を抱いていたわけでもない。

 その声に焦がれたこともないし、その顔をしばらく見ていなくても「ああ、会いたいな」だなんて思わなかったし、好きなことやものを深く知ろうとも思わなかったし。本当に、何も。何も感じていなかった。僕には世界に蔓延る恋の病と呼ばれる症状がひとつも出ていなかったから、きっと抗体があるのだと思っていた。恋なんて、僕から最も遠い、荒涼とした月面から見る数多の星なのだと思っていた。どうやら、それが大きな思い違いだったらしい。

 街で僕ではない誰かに笑いかける君がいた。なんとなく目で追って、目を離して、気にせぬままに通りすぎて、ふと、上手く息を吸えていないことに気が付く。気付かなかったのではなく、気付かないふりをしようとした。けれど水のないところを魚は泳がないし、大気中での呼吸なしで人は生きていられない。気にしていなくても、乱れる呼吸で頭に靄がかかっていく。雑踏の中でふらつく僕は、倒れてしまうよりも前にそこにあった壁にもたれかかった。そうしてやっとのことで縋るように手すりに掴まったものの、依然視界は霞んで見えている。

 気付かぬ間に終えた恋路に、痛みはなかった。ただ、重さだけがあった。拍打つ心臓の壁が鉛のように、あまりにも固くて重い。拍動が遅くなる。末端から潰されていくような重み、指先が硬化していく。自分がどこに立っているか分からない。分かりたくない。少なくとも世界の中心に程近い場所でないのだけが確かで、その実感が頭を掠めるたびに、発狂の渦中に身体を擲ってしまいそうになる。無数の視線が僕を見る。誰も僕を見ていない。

 恋とは毒だ。遅効性の毒だ。気付いた瞬間には死に至っている。美しく淡い色をしている、誰かの描いた幻想が、あの羽虫の蠱惑的な煌めきに同じなのだと、今実感を以て理解する。前に思考が止まる。止めた。

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