第10話 担いで5秒でもう疲れた


 まな板の上には、剥きかけの大根と青菜が乗っている。

 竃では薪が赤々と燃えているが、米を炊くための羽釜が入っていない。


「米は私が手伝います」


 手が届くほどの距離にポツンと置かれていた羽釜の蓋を取ると、中には白米が入っており、すぐに準備ができそうである。

 そう思い蛇口を捻ろうとした瞬間、豆千代が泡を食って飛んできた。


「バカ、水を出すな!!」

「……水を出さねば、米が洗えないのでは?」

「洗いたくとも洗えないんだ!」


 水不足で断水でもしているのだろうか。

 水道から出る水は、屋敷の程近くにある山……煉宝山の麓にある美しい湖から引いていたはず。


 それが使えないと言うことは、相当大きな瘴気だまりが発生した、ということなのだろう。


 とはいえ、仮に湖がダメだったとしても、屋敷内には複数の井戸も掘ってある。

 汲み上げればいくらでも水が入手できる環境なのに、土間に置かれた大きな水桶は空っぽのままだった。


「……井戸水を使えばよいのでは?」

「うるさい! 何も知らない人間の小娘が偉そうに!!  今朝方、瘴気だまりが発生したんだ、無理に決まってるだろ!?」


 理由が分からず首を捻る千歳に腹を立て、豆千代がまた騒ぎ出した。


「湖も井戸も、瘴気を祓うまで使えない。朝からみんな出払って忙しくしているというのに、お前が妙なタイミングで来るから……大迷惑なんだよっ!!」


 お前のせいで、夜番明けの主様どころか『御守様』まで些事に手を取られる羽目になったんだ。

 一体全体、何様だ!? と豆千代が地団駄を踏んで怒鳴っている。


「いいか、瘴気で穢れた水を飲んでみろ。あやかし達は、たちまち異形に成り果てるぞ!?」

「……」

「人間であれば触れたところから侵食され、最後には腐り落ちていくんだ」


 千歳が身体を清めた湯殿の水は、瘴気だまりが発生する前の晩に、雨水の貯留タンクから引いたものだったらしい。

 貯留タンクにはもう殆ど水が残っていないので、二キロ先にある湧き水まで歩くしかないのだという。


「そんなに手伝いたいなら、お前が一人で行って汲んでこい!!」


 ひたすらまっ直ぐ行けば大きな岩場につくからと、天秤棒と水桶を渡される。


「死んだら自分のせいだぞ! 怖ければ今のうちに、さっさと逃げ出すことだな!!」


 逃げようにも、花街の内壁にある『北の大門』を通らねば帰れないし、そもそも通るための手形がない。


 そんな無茶を言われても……。

 千歳は嘆息し、天秤棒を担いでそのまま土間を後にした。


 足元がかなり不安定なので、気を付けないとすぐに転んでしまいそうだ。

 たまに、小さな瘴気のもやがふわりと浮いて、目の前を過ぎっていく。


 瘴気は水場に発生しやすい。

 これだけ瘴気の残りカスが漂っているとなると、湧き水も汚染されているかもしれない。


「迂闊に瘴気を祓うと、すぐ力の残滓に気付かれそうだな」


 ハレの煉獄に着いてすぐ、蒼士郎はわずかな瘴気の気配にも気が付いていた。

 ここにあるのは幸い小さな瘴気なので、そのうち離散して消えていくだろう。


 二つの水桶いっぱいに水を汲み、天秤棒で担ぐと、その重さでズシリと肩が沈む。


「これは……思ったよりも重い」


 担いで5秒でもう疲れた。

 自嘲気味に笑った次の瞬間、目の端で何か動いた。


「……ついて来てくれたのか。逆に手間をかけてしまった」


 独り言ちる千歳の視界の隅に、草むらからはみ出た茶色い尻尾が映る。


 あれで、隠れてるつもりなのだろうか。

 無茶を言って追い出したものの、やはり心配になって見に来たのだろうか。


 後を付いてくる豆太郎らしき尻尾に、千歳はクスリと笑った。



 ***



「チッ、明らかに瘴気が濃くなってきている。これ以上放置すると、取り返しがつかないことになるぞ!?」


 蒼士郎は瘴気を祓うため、花街から帰ってきたその足で、すぐさま広大な屋敷の敷地内を駆けまわった。


「神宮司家の娘はまだなのか!?」


 白羽の矢は、もともと神宮司家を狙って放たれたものではない。

 瘴気を祓うため、最も『鎮め石』に相応しい者の家に飛ぶよう、御守様が妖力を籠め、――そして放たれた矢は海を越え、遠く神宮司家の屋敷に刺さった。


 生贄となる『鎮め石』は、『花嫁』でなければならない。


 口伝のため理由は分からないが、御守様が守護してくれるずっと前から、そう決まっているらしい。

 白羽の矢が立った者は現当主である蒼士郎の妻として迎えられ、そして婚儀の翌朝、煉宝山の麓にある美しい湖の……水底へと沈むのだ。


 瘴気に侵された野良のあやかしが、爪を立てて襲いかかってくる。

 一筋の赤いラインが頬に走るが、一刀のもとで斬り捨てた次の瞬間には、そのラインがじわじわと薄らぎ、治りかけの傷のようにピンク色に色付いた。


「そろそろ鎮めないと、取り返しがつかなくなるぞ」


 怒鳴ってもどうにもならないことは分かっているが、それにしても出立の連絡くらい寄越してもよい頃ではないか。


 三ツ島から、もしあやかしが……異形が溢れたら、それは海を渡り本土へと向かう。


 そうなれば、被害は甚大。

 ゆえに白羽の矢が立った家門は、一番霊力の高い娘を差し出す義務があり、断ることはできない決まりになっている。


「イヅナ、イヅナはいるか!?」

「はぁい、主様。何かしら?」


 まったりとした声を出し、見えないほどのスピードで駆けてくる、イヅナこと管狐。


 こちらも御守様同様、なぜ居つくようになったのか起源は分からないが、千年以上前から涅家の連絡役を担ってくれていた。


「すまないが本土にひとっ走りしてくれるか? 神宮司家から来る花嫁が、今どういう状態なのかを確認したい」


 承知しましたと告げるなり、瞬きする程の間にイヅナの姿が見えなくなる。

 ふわりと浮かんだ瘴気を剣でなで斬りにし、蒼士郎は小さく溜息を吐いた。



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