【05-2】元警視庁刑事玉木勇(2)

彼はその転属命令を聞いてかなり驚いた。

別に刑事課への配属が嫌だった訳ではない。


しかしそれまでに刑事課への異動を希望したこともなかったし、自分は刑事捜査のようなことには向いていないだろう――と、大した理由もなく思っていたからだ。


しかし転属の辞令を渡された時、上司から転属理由についての説明は一切なかった。

勇も何となくそれを聞きそびれてしまったので、結局30年以上経った今でも理由は解らないままである。


その後定年までの約30年間、勇はずっと捜査畑を歩き続けてきた。

5年前に警察を定年退職した今は、月島にある自宅で妻の富子と二人暮らしだ。


一人娘の絵海えみは7年前に嫁いで、一男を設けている。

勇夫婦にとって絵海は遅く生まれた一人娘だったので、忙しい刑事生活の中でも彼なりに色々と気に掛けながら育ててきたつもりだった。


それは世間の父親と比べれば、至らない部分も随分と多かったとは思う。

娘が無事に育ってくれた理由の多くは、妻のおかげが大きいとも思うが、それでも自分なりに、懸命に父親をやってきたつもりだった。


娘の絵海は子供の頃からおっとりとした性格で、留守がちな父親に反抗することもなく、そのまま素直な娘に育ってくれた。

そして人並みに大学を卒業すると、都内の小さな会社に就職したのだった。


その絵海が勤め始めてから数年が経ったある日、突然結婚相手を紹介すると言って家に連れてきたのだ。

その時勇はかなり驚いたのだが、妻の富子は事前に知らされていたらしく、特に慌てた様子もなかった。


――まあ、母親と娘というのは、そんなものなのだろう。

勇はそう思って、自分の狼狽ぶりを密かに笑ったのだった。


絵海が連れてきた村崎貴之むらさきたかゆきという青年は、少し地味ではあるが真面目で温和そうな印象だった。

職業も当時の国立感染症研究所の研究員という、かなり手堅そうな仕事だったので、勇はとても安心したのを憶えている。

勿論二人の結婚に反対する理由はなかった。


なんだかんだと言っても、自分は家庭的に随分恵まれていると勇は思っている。

その大きな理由の一つが、夫婦間や父娘間の関係に、ほとんど波風が立たなかったことだった。


おかげで勇は定年を迎えるまで、自分の仕事に集中することが出来たのだ。

勿論仕事にかまけて、家庭を顧みないようなことは多分なかったと思う。しかしそれでも、父親として足りていない所は随分とあったのだろう。


富子や絵海は、そんな自分の至らなさを、黙って我慢してくれていたのだと思う。

それが家族にとって良いことだったのかどうか分からないが、いずれにせよ勇は妻と娘に心の中で感謝していた。


夫婦関係や親子関係に正解はないと思うが、自分の家庭は及第点に達していると思っている。

しかしその一方で、本当に自分は妻や娘から父親として、あるいは家族として認められていたのだろうかと、漠然と不安に思うことがある。


――家庭に波風が立たなかったのは、単に妻や娘が自分に対して関心を失くしてしまっているからではないのか?

――自分の方は家族だと思っていても、向こうは自分のことをそう思っていないのではないか?


そんなことを勝手に想像して、何だか家族と顔を合わせるのが無性に怖くなることがあるのだ。

少し冷静になれば、それが単なる妄想に過ぎないことは分かる。


日頃の妻や娘の言動と接していれば、そんな妄想はあっさりと否定して当然なのだ。

勝手に想像しておいて、その想像に怯えている自分のことを、心底情けない男だと思う。


しかし一度心に浮かび上がった妄想は、いつまでも勇の中で湧いては消え、消えてはまた湧いて来るのだ。


だからと言って妻や娘に真意を質す度胸もなかった。

万が一にでも自分の想像が当たっていて、妻と娘にそのことを肯定されてしまったら、その瞬間に自分は居場所を失くしてしまう。


そう考えると益々怖くなって結局何も言い出せず、いつものまま日々を過ごしているのだ。

勇はそんな自分のへな猪口ぶりに気づく度に、情けないこと、この上ないな――と、思わず苦笑してしまう。


そして何故自分はそんな妄想を抱くようになったんだろうと考える。

――仕事のせいかな?


別に刑事という仕事自体に原因があるということではなく、間違いなく自分の心の問題ではあるのだ。

それは分かっている。しかし刑事という仕事を通して、あまり幸福とは言えない他人の人生を多く垣間見てしまったことが、心に影響していないとは断言出来ない。


20年以上も刑事の仕事をしていると、それは様々な事件に関わることになった。

殺人、傷害、変死といった事件を取り扱う部署に長くいたので、遺体も数多く見て来たし、凶悪な犯人と遭遇したこともあった。


刑事の仕事というのは、事件に関係する証拠や証言、情報をひたすら集めて積み上げ、何がしかの形にしていくことだと、彼は考えていた。

積み上げた後で見るとその形は完全でなく、むしろいびつであったり、どこかが抜け落ちたバランスの悪いことの方が多かったのかも知れない。


それでも勇は捜査チームの一員として、拾い集めて来た証拠や証言を持ち寄っては積み上げる作業を、倦むことなく延々と繰り返して来たのだ。

他にも色々とあったと思うのだが、仕事だからというのが一番しっくりとくる理由だった。


その仕事を遂行する過程で、刑事でなければ知ることのなかったような、他人の事情に数多く触れることになった。

それは容疑者や被害者のものだけでなく、事件に関係した様々な人が持つ事情だった。


その中には、本人たちにとっては、あまり他人に知られたくないだろうと想像出来るものも、当然のことながら多く含まれていた。

いつしか勇は、その事情の多くに共通していたものが、周囲からの孤立という状況から生み出されているのではないかと考えるようになっていた。


風俗嬢に入れ込み、些細な理由から殺害してしまった男は、職場や家族の中で孤立していた。

その被害者も、ある意味で社会から孤立していた。


いじめが原因で自殺した中学生は、学校の中で孤立していた。

いじめに関わった学生たちは、所属するグループ内で孤立することを恐れていた。


不良少年たちにイタズラ半分で殺害されたホームレスの老人は、社会そのものの中で孤立していた。

殺害した側も、何らかの形で社会からはじき出されそうになっていた。


事件関係者の多くが、被害者や加害者という立ち位置に関係なく、居場所を失くして不安の中で彷徨っている――そんな風に感じるようになったのだ。


やがてそれは、突き詰めれば誰もが些細な契機で、周囲から孤立してしまうのではないかという考えに集約されていった。

勿論その中に自分も含まれている。


――気づいていないだけで、俺は既に家族や職場の中で孤立しているのではないか?

何時しか勇は、そんな強迫観念を抱くようになってしまったのだ。


それは今に至るまで、勇の中で尾を引いている。

そんな考えは馬鹿げていると思った。妄想に過ぎないと、無理矢理その考えを否定した。

そうしないと、まともな日常生活など送ることが出来ないからだ。


しかし一旦心に湧いたその妄想は、彼の中で消えることなく、徐々に膨らんでいった。

家に居ても仕事をしていても、フワフワとして妙に落ち着かない感覚が湧いて来るようになったのだ。


そしてその感覚は、今でも勇の心の中に居座り続けている。

今ではすっかり慣れてしまっているが、いつもすっきりとせず、何だか気持ちが悪い。

その原因を突き詰めていくと、結局自分が臆病なだけだという結論に行きつく。


妻や娘に対して一歩踏み込むことが出来ない。

そうすることで、自分に居場所がないという、望まない現実を突き付けられることを無意識に恐れている。


だからフワフワと宙ぶらりんな状態のままでいる。

そしてその状態が気持ち悪い。

堂々巡りである。


勇はそれを、この歳になるまで続けて来たのだ。

そして、馬鹿馬鹿しい――と最後はそう思うことで、自分の妄想に無理矢理けりをつけるのだった。

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