【05-1】元警視庁刑事玉木勇(1)
その朝
寝室のエアコンのタイマーが既に切れているようだ。
壁に掛かった時計を見ると9時を回っていた。
勇はもそもそと寝床から起き出すと、居間に移動してエアコンのスウィッチをいれた。
そしてテーブルに置いたパッケージから、その日1本目の煙草を取り出す。
ガスの切れかかった使い捨てライターは、ヤスリを何度擦っても中々着火しなかったが、諦めかけた頃に何とか火を点けることが出来た。
深々と煙を吸い込むと、気管と肺に刺激が沁み渡っていく。
勇は漸く体に残った眠気が抜けて行くのを感じた。
それでも体のそこかしこに、気怠さが残っている。
別に睡眠不足ということではない。
むしろ床に就いている時間だけは長いのだが、眠りが浅いのだ。
そのせいで慢性的な疲労感が体から抜けない。
――結局は年ってことか。
勇は諦め気味にそう思うのだった。
妻の富子は既にパートに出たらしく、家にはいなかった。
それでもテーブルの上には、きちんと勇の分の朝食の支度がしてあった。
富子が勇より遅く起き出すことなど、これまでの40年近い結婚生活の中で一度もなかった。
少しの体調不良くらいでは決して寝込んだりせず、毎朝毎朝、勇が起きる頃には、朝食のきちんと支度が整えられているのだ。
本当によくできた妻だと思う。
よくできた――という言い方は、何となく男の側の目線から見た表現の様な気がするのだが、勇の場合のそれは、純粋に妻への感謝の意味を込めた言葉だった。
口に出して言ったことはないが、勇は妻にいつも感謝していた。
そういうことは、はっきりと口に出して伝えるべきだということは、彼も頭では分かっているのだ。
しかし結局言わず仕舞いのままで何10年も過ごしてしまったので、今更そんなことを言っても最早手遅れだと思っている。
――こういうのも単なる言い訳かも知れないな。
そう自嘲気味に思うこともある。
夫婦なら、それくらい言わなくても察しろ――などと考える男も世間にはいるようだが、勇はとてもそこまで傲慢に振る舞うことは出来なかった。
――人間、言葉にしなければ伝わらないことなど、山程あるんだがなあ。
それでも僅かな感謝の気持ちすら口に出して伝えられない自分が、不甲斐ないという強い思いはある。
これまでの結婚生活の中で、妻の富子は些細な愚痴は言うものの、決して勇に対して強い態度に出ることはなかった。
妻は穏やかではあるが、一方でかなり明るい性格なので、自分の様な面白味のない男といるのは、相当退屈だったと思う。
だから勇は妻の愚痴を聞き流したりしないよう、常々気を付けていた。それくらいが自分に出来る、精一杯の愛情表現だと思ったからだ。
テレビを点けると、昨晩フランスで起こったテロのニュースが流れていた。
ニースという町で、花火見物をしていた群衆にトラックが突っ込み、死亡者が何十人も出ていた。負傷者も何百人という単位で出ていて、これからも死亡者が増える見込みの様だ。
フランス政府はイスラム過激派によるテロであるという見方をしているようだが、事実関係はまだ明らかになっていないと、テレビで見慣れたアナウンサーが言っていた。
勇はニースという町の名前に聞き覚えはあったが、それがどの国のどの辺りにある街なのか、詳しいことは全く知らなかった。
ただ聞いたことのある名前の街という程度の、遠い外国のニュースであっても、今の世界ではほぼリアルタイムで伝えられる。
勇は見ないが、インターネットで配信されているニュースは、テレビよりも遥かに早いスピードで世界中を駆け巡るらしい。
――便利な世の中になったものだ。
そう思う一方で、何だか世の中のスピードについて行けず、置いてけぼりになっているような気がして落ち着かない。
日々刻々と発信され続けているニュースの量が、既に彼の許容量を遥かに超えてしまっているからだろう。
――そう感じるのは自分だけなのだろうか?
そういう意味のことを言うと妻の富子は、
「じゃあ、見なければいいじゃない」
と、笑いながら勇を
しかし勇は今、かなり暇な境遇なのだ。
警視庁時代の先輩から紹介された警備会社に嘱託として務めてはいるが、それも毎日という訳ではなく、週の半分くらいは家にいる。
そうすると、テレビでも見ているしかないだろう――と勇は思うのだ。
勇は5年前に定年退職するまで、警視庁に所属する刑事だった。
とは言っても、本庁に配属されたことは一度もなく、定年までずっと所轄署での刑事生活を送っていた。
彼が生まれた頃の日本はまだ米軍の占領下にあり、大戦からの復興がようやく端緒についたばかりだった。
そして日本中の殆どがそうであったように、勇の家庭も貧しかった。
実家は八王子にある小さな雑貨店で、幸いアメリカ軍の空襲を免れたお蔭で家は残っていたので、住む場所にだけは困らなかった。
そういう意味では都心部に住んでいて空襲に遭い、焼け出された多くの人々に比べれば、自分は随分と恵まれていたのかも知れないと思う。
しかし勇の家の食料事情は当時の多くの家庭と同様至って悪く、幼い頃の思い出と言えば、只々空腹だったことしか浮かばない。
高校を卒業した勇は、主に経済的な理由で大学進学を諦め警察学校に進んだ。
警察官になろうと思ったのは、社会正義のためとか人々の生活を守りたいとか、そういう大上段に構えた理由ではなかった。
公務員で固い職業だし、少しは人様のためになると思ったからだ。
多少なりとも体力には自身があったし、大学に進みたいと思う程には勉強が出来なかったのも、警察学校を選んだ理由の一つだった。
そんなことを言うと、他の警察官たちに失礼だろうか?――と思って、勇は心の中で苦笑する。
彼は男ばかりの三人兄弟の末っ子で、兄は二人とも健在だった。
家業の雑貨店は長兄が跡を継ぐことになっていたので、
警察学校を卒業した後勇は、他の多くの警官と同様に交番勤務や機動隊勤務を10年程経験した。
自分はこのままずっと、制服警官としての人生を送るんだろうな――当時の勇はそう思っていたし、そのことに対して何の疑問も感じていなかった。
ところがある日、上司から築地警察署の刑事課への転属を言い渡されたのだった。
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