16
勝負を終えた二人が魔術協会本部へ戻ったころには、日が暮れていた。
魔術協会本部の大会議室へ向かうと、長机の上には山と積まれた資料や本が並べられていた。どれも魔術師たち総出で大聖堂図書館から運んできたミラーレ神について記載のあるものだった。
会議室にいる魔術師たちはの顔には疲労の色が見えたが、その瞳はきらきらと輝いていた。
神との戦いにおいて天使が味方することは、絶望という名の闇を振り払うたった一つの希望だった。
「天使様、お待ちしておりました」
協会長のブラウ・ラントが声をかけてきて、ルチアを部屋の中へ案内した。
「ノイアから話を聞いていらっしゃるかと存じますが、私共は天使様の後方支援をさせていただきます。ノイアからはどの程度事の仔細を聞いていますか?」
「ミラーレ神が封印されている洞窟の封印が綻びて、神が洞窟から出て王族を害するために王都へ向かおうとしていると聞いています」
フローライトについては話さなかった。ブラウが余計なことを知ったとして、後々王宮から危険視されてはならないと考えたためだった。
「ええ、概ねその通りです。月の魔術師により洞窟の結界は維持されていて、事態はあれからほとんど膠着状態ですが、長くは保たないとのことです。ミラーレ神はまだ洞窟内にいます。しかし、近隣の住民は神の慟哭や叫び声が聞こえているようです。すでに魔術師と軍が派遣され、町の人々の避難を始めています」
「ご説明ありがとうございます」
ルチアの素直な言葉に対し、ブラウは気まずそうに視線を逸らしたが、すぐにルチアをまっすぐに見つめた。
「人間では神に対抗できません、私どもにできるのは避難くらいで、結界の修復も難しいと月の魔術師から返答がありました。もしも神が洞窟から脱出して王都へやってきたとしても、王都の守護結界の中に閉じこもるか、また別の地へ逃げるか……。結局は天使様の力を頼るしかないことを申し訳なく思います。微々たる助力しかできませんが、洞窟へ向けて旅立たれる際には協会から魔術師を同行させます」
「ありがとうございます、でも同行していただくには及びません。護衛もいますから」
ブラウは大きく目を見開いてルチアの一歩後ろにいるノイアを凝視した。ノイアは薄く微笑んだ。
続いて、ルチアは相談室長マグノイアからミラーレ神についての調査報告を受けることとなった。
マグノイアはノイアの服の釦に彫られた天使の紋章に気づくと、にたりと笑ってノイアを見たが、からかいを口にすることはなかった。
マグノイアは咳ばらいをしてから説明を始めた。
「改めまして、私は相談室長のマグノイアと申します。以後お見知りおきを。早速ですがここまでの調査報告をさせていただきます」
マグノイアは机の上に置かれた本を手で示した。いずれも赤い鱗を持つ巨大な竜の絵が描かれていた。翼を広げた竜はいかにも邪悪な顔をしていて、そのそばに描かれている剣と盾を持った人間の方が正義の若者といった風だった。
「ミラーレ神は聖典の中には端役としてしか登場しておりません。太陽の神が創り給うた神々の長い説明の節の一文にあるのみで、翼持つ赤き正義の竜は自在に空を飛び炎によって闇を退けた、というものです。これについては天使様もご存じでしょう?」
ええ、とルチアはうなずいた。
太陽神と、太陽神によって創造された神々の物語を綴った聖典は、幼いころからイレネウスに読んでもらっており、今ではその内容をほとんど暗記していた。
「ミラーレ神は現在封印されている洞窟付近にある南方の小さな町で祀られる神でもあります。火を吹くことから、かつては硝子職人や武器職人などからも信仰を集めていました。ここにある文書の中には、ごく少数の組合ではミラーレ神への祈りの儀式は残っているという記述もありましたが、数十年前に書かれたものでしたので、現状は不明です」
さて、とマグノイアが声の調子を変えて続けた。
「この正義の竜が最も有名なのは、これらの絵にあるように我が王国の最も勇気ある王であったアゲート様の逸話に登場するからでしょう。これについてはご存じでしょうか?」
ルチアは視線を宙に向けた。
「王位継承権を持つたくさんの王子や王女がいた時代、当代の王が次期国王を選びかねて、最も勇気あるものを王とすると言われた話ですよね。アゲート王が悪に落ちた正義の竜を討ち、洞窟に閉じ込めた。そしてその功績によって王になったという」
「その通りでございます」
マグノイアが利口な子供を褒めるような口調で言ったので、ルチアは気恥ずかしさを覚えた。
「アゲート王は即位後、街道整備に特に力を入れ、王国の繁栄の礎を築かれた点でも偉大であります。竜退治の逸話は、王族の権威性を強化保持するための側面が強くなっていったもので、ほとんど伝説として現在も知られております。実際にアゲート王が竜を洞窟に封印したのは事実のようですが、竜が成した悪行とは何だったのか、竜がどのような権能を持つのか、王がどのように竜を洞窟に追いやり封印したのか、といった細かな点はどこにも残っておりません。口伝でさえも途絶えています。王族は現在でも数年に一度洞窟へ赴き悪しき竜を鎮める儀式をするしきたりが残っていると聞き及んでおりますが、具体的に何をされているかまでは口外できないと」
「脚色によって真実がわからなくなっているということですね。戦うにあたっての具体的な策を事前に立てるのは難しい、と」
「はい、お役に立てず本当に申し訳ありませんが、実際に赴かれてから考えていただくほかありません。王宮から聞き出せたのはせいぜい竜の大きさだけです。長い尾を含め全長は大人の身長三人分ほどで、胴の幅は腕を目いっぱいに広げてようやく届くかというほどだそうです」
マグノイアは両腕を目いっぱいに広げてみせた。
「その巨躯を空へ飛ばすための翼は、その全長とほぼ変わらないそうです。もっとも、翼は傷ついて折れているという話でした」
「飛ぶのは難しいのですね」
「ええ、おそらくは。しかし相手は神ですから、弱々しく装っているだけの可能性はあります。何しろ竜の見た目を保ったままのようですから」
ルチアが首を傾げると、マグノイアは補足した。
「神々はいずれも、たとえ幻想的な生物の形をしていたとしても、一時的な変身に過ぎず、本当の姿というものは人間と同じでございます。これに例外はないというのが各地で神官を務める魔術師たちの証言や、神話研究者の意見でございます」
「ご説明ありがとうございます。洞窟内部の地図などはありますか?」
「いえ、それも王宮からは一切ないと返事がございました。ですが、不可思議な洞窟だそうで、進めば必ず最奥に辿り着く、そして戻れば必ず外へ出られる、と。本来は王族しか立ち入りを許されていませんが、今回のミラーレ神討伐のために天使様のみに特別な許可を与えられるとのことです」
マグノイアは説明を終えると、きびきびと頭を下げ、ちらりとノイアを見てからその場を退いた。
ルチアは腕を組んで記憶を探った。
かつての剣の天使の記録の中に、竜、あるいはそれに類する形をした神々と戦った記述はあったか。しかし、残念ながら何も引っかからなかった。竜と呼ばれる形をした神はミラーレ神のみであり、過去の剣の天使たちもミラーレ神と出会ったことはない。
「戦えそう?」
ノイアが机に置かれていた本の頁をめくりつつ言った。彼からは不安や恐れといった感情は一切見て取れなかった。
さすがは神に殺害予告をされているだけはある、とルチアは思った。
「ああ、戦うよ。前もって情報があることの方が少ないことは過去の記録からも知っていたし、さして落胆するほどのことでもない。それに、洞窟内で迷うことがないとわかっただけでも安心だ。ミラーレ神が洞窟内にいる今が最後の好機だ、結界が持ち堪えている間に討伐する」
「不安になってないならよかった。では、早速明日の朝に出発するとしよう」
ノイアは軽く手を振って机の反対端に置かれていた大きな地図を浮かして引き寄せ、見える場所に着地させた。
ノイアはすでに赤い丸が付けられている部分を指差した。
「目的地はここだ。幸いなことに、このミレニアには転移魔術台がある。王都からそこまで飛び、そこからは徒歩だ、道は王族のために綺麗に舗装されて日々手入れされている。ミレニアから洞窟までは歩いて半日もせずに着く」
「わかった。では帰って休むとしよう。マリアとマルタが食事を作ってもらおう。それからよく眠らなければ、私は昨日から一睡もしていないんだ」
ルチアたちはせわしなく働く魔術師たちに挨拶をしてから本部を出た。
外はすっかり暗くなっており、街灯がほとんど設置されていない大聖堂敷地内は真っ暗だった。ノイアが光の玉を出現させて道を明るく照らした。
天使居館までの道の途中で、ノイアが言った。
「イレネウス大司教に出立の挨拶はしていかないの?」
夜の闇に沈む巨大な大聖堂の向こう側には、イレネウスが暮らす大司教邸がある。この時間ならばイレネウスは仕事を終えて休んでいるはずだった。
「今の私の顔を見たらきっと辛い気持ちにさせてしまう。だから、王都に戻ったらまた会いに行くよ」
そう言って、ルチアは黄金の指輪を撫でた。
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