第五話 應 俰、己の想いを自覚し、唇を奪う事。

 大川は、外宅に、留学生るがくしょうである葛野くずののつくり文手ふみてが駆け込んできて、


「大変です、上毛野かみつけの遣唐録事殿。茶肆ちゃし木蘭もくらんに、いちゃもんをつける変な女が押しかけて、ハク さん、困って真っ青な顔をしてました。あれは何かあります! 助けないと!」


 と告げたのを聞いた時。

 外宅を飛び出して駆け出していた。


ハク ……!)


 茶肆ちゃし木蘭もくらんにむかう途中、 嬉嬢キジョウ コウとすれ違い、


「あら……?」


 と 嬉嬢キジョウに驚かれたが、挨拶をしている暇はなく、大川は走りぬけた。


(何があった。どういう状況だ。困っているなら、助ける。)


 走り、茶肆ちゃし木蘭につき、奥庭に抜け、状況把握のため、話を聞こうと、気配を殺して剥き出しの黒い土を踏んだ。

 敵の郷へ向かう兵士のように、静かに。


 見えたのは、背をむけて立つ一人の家奴かどと、石造りの椅子に座った女。

 その正面に座るハク 、後ろに控える 疎雨ソウ

 ハク も、 疎雨ソウも、顔色が悪い。


(まずい状況だな。)


  疎雨ソウと目があわない。あの男は、気配に敏感だ。大川が足音を消そうとも、これだけ近づけば、気がついて、大川が立つ木陰を見てくるはずだった。

 大川に気がつかないほど、取り乱している。

 大川は会話を聞く。背を向け、頭にぐるりとおおきなカタツムリのような輪を作った女は、威圧的に喋っている。


「あたしは女ですから、今日、力づくで連れて帰ることまでは、 セイ様に要求されていません。」


(……この女、 セイの使いか! なんと、ハク の実家にまで押し掛けてきたのか。あつかましい。)


「でも、良いんですの?

 意地を張れば張るほど、 セイ様の怒りを招きますのよ?

 どうせ、 セイ様の執念からは逃げられません。今のうちに帰ったほうが、まだ、折檻もましというものですわ。」


(許せぬ!)


 大川の血が瞬間的に沸騰する。これは怒りだ。

 大川はすぐさま、姿をあらわした。

 カタツムリ頭の女は、胡乱うろんげに大川を見たあと、目を驚きに見開き、頬をさっと赤らめた。大川の美貌ゆえであり、大川にとっては普通の反応だ。


 ハク は、震えていた。

 ただでも白い肌から血の気が失せて、新雪のような白さになっている。心細そうな目で、怯えた表情で、大川を見た。今にも泣き出しそうな、それを必死に耐えているような、そんな顔で。


(守ってやらねば。私が守るのだ。)


 ───頭のなかで。


 ───古志加こじかの面影が消え。


 ───鮮明に。


 ───ハク の面影に変わる。


(ああ、恋うてるのだ。)


 大川は、カタツムリ頭の女を、きっ、と見た。


ハク は元夫のもとへ帰らない!

 ハク は私の恋人だ。」

「え?」


 ハク が驚き、


「はあ?」


 カタツムリ頭女が、片眉を釣り上げ、気に食わない、という顔で、大川の下から上までめあげた。


「はん。嘘ね。」

「嘘なものか。私はニホンコクノカミツケノクニタイリョウの息子。資産はそれなりにある。」


 大川は、自分の出自しゅつじを日本語に切り替えて言った。


(どうせ聞き取れまい。)


 大川は、肌の血色も、髪の艶も良い。着ている衣の質もよく、雅楽に鍛えられた動きは洗練され、いつもピンとまっすぐな姿勢を崩さない。

 この女が日本を知らずとも、大川が支配者階級の男であるのは、一目瞭然であろう。


「なら、なおさら嘘よ。あなたみたいないい男……。霞姐姐になびくはずがない。」


 若い女は、ハク を見て、あなどりの顔で、にぃっと笑った。


「ねえ? 霞姐姐、三十歳という年齢をご存知? 早ければ、孫がいましてよ! こんな美貌の男、ひっかけられるわけないじゃない。嘘なら、もっとましな嘘をつくことね。アハハハハ!」


 唐では、早ければ、女は十三歳で結婚する。その女が早く子を産み、またその子も早く結婚すれば、三十歳の女は、本当に祖母となる可能性があるのだ。


 ハク は、あまりの暴言に、口をあんぐりと開けたまま、無言で凍りついた。


ハク ! そんな顔しないで。)


「私が恋人だと言ったでしょう?」


 大川は大股でハク に近づき、彼女を椅子から立たせた。ひどい暴言にさらされ続けたせいだろう、彼女の身体は力がはいらず、抱きしめたら折れてしまいそうな弱々しさだった。

 大川は彼女の細腰さいようを左手で抱き寄せ、右手で顎をとらえ、


「本気です。」


 唇を重ねた。

 柔らかく、甘く、頭を痺れさせるような良い匂いがした。

 う、と彼女が声をもらすが、その声も大川が飲み込んでしまう。

 ふーっ、と不機嫌そうにカタツムリ頭の女が息を吐いた。


「あっ、おまえ……っ!」


  疎雨ソウが怒りの声をあげ、右拳で殴りかかってこようとする。狙いは左脇腹。

 大川はハク から顔を離し、彼女を解放し、後ろに一歩ひいた。

 左腕で鋭い拳を防ぎ、 疎雨ソウにむけ姿勢を低くする。 疎雨ソウが左拳を大川の頬めがけ放つ。大川は首をかたむけ、内側から腕をあて、受け流す。

  疎雨ソウからは、殴らせろ、という気迫を感じる。

 ハク が、


「う……!」


 口元をおさえてその場を逃げ出した。薄い緑の紗のくん(スカート)がひらりと草地になびく。


ハク !」


 大川は 疎雨ソウの三発目、顎下から上に打ち上げる軌道の拳を間一髪でよけ、身をひるがえし、 疎雨ソウに背をむけ、ハク のあとを追いかけた。

  疎雨ソウもあとを追おうとするが、


「お兄ちゃん! 話があるの!」


  薔薇ショウビ 疎雨ソウの腕をつかむ。


「離せ!」

「離さない! ねえ、帰ってきて。あたしのもとに。たった二人きりの家族じゃない。」

「離せ。」

「さっき、黙れって言ったの怒ってるの? ごめんなさい。

 だって セイが、霞姐姐に、あの長い文言もんごんを最初から最後まで聞かせないと、あたしを許さないって言ったのよ。あたしも必死だったのよ。」


  薔薇ショウビは、自分の後ろに無言で控えた、頰のはった顔立ちの男を忌々いまいましそうに見た。

 家奴かどトウ チュウだ。

 彼が、 薔薇ショウビがきちんと伝言の役目を果たしたか、 セイに報告するのだろう。


「ねえ、戻ってきて。お兄ちゃんがそばにいてくれないと、あたし、寂しいの。」

「戻らない。おまえは主様を裏切った。

 命を助けてくださった主様に対してだ! 

 どうしてだ。なぜ罪を犯した。

 許されない罪だ!」


 血を吐くような 疎雨ソウの叫びだった。

  薔薇ショウビは、むうっ、と頬をふくらませた。十六歳相応の可愛いね方だ。

 疎雨の腕を離さない。

 

「許してよ! もう済んだことじゃない。

 こうでもしないと、贅沢な生活なんてできないわ。

 ねえ、帰ってきて、お兄ちゃん。

 あたしのそばにいて。あたしを助けて。」

 セイを殺してほしいか。

 それならいつでも殺してやる。」

「お兄ちゃん!」


  薔薇ショウビが責める声をあげた。

  セイを殺されては、 薔薇ショウビは妾としての贅沢ができなくなってしまうからだ。


「オレがおまえにしてやれるのは、それだけだ。オレは主様のもとにいる。おまえのぶんも、罪をあがなう。」


 頑固な兄に、 薔薇ショウビの顔に怒りがひらめいた。兄の腕を離し、そのかわり、右手で兄を指さした。


「お兄ちゃんのせいよ!

 あたしがチン ガクに犯されたのも、人を殺したのも!

 あたしから離れるなんて許さない。」


 疎雨ソウは辛そうに顔をしかめ、薔薇ショウビに背をむけた。


「……帰れ。」


 そのまま去る。


「あ、待って、お兄ちゃん。

 戻ってきてよ───!」


  薔薇ショウビの声が奥庭にこだました。




       *   *   *





 ハク は走る。

 目から涙がこぼれてきた。


(ひどいわ。こんなの。期待してしまう。)


 口づけは優しかった。


(やめて。阿姨あいに期待させないで。)


 唇を奪われて。嫌じゃなかった。むしろ、胸がときめいた。


(友人だって言ったじゃない。日本に恋した女がいるって言ったじゃない。無理に恋人のふりして助けようとしてくれなくて良かったのに!)


 ハク は心が乱れ、どうして良いのかわからない。そのまま自分の部屋に駆け込み、部屋の扉を閉ざした。












↓挿絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093093603451547





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