第6話 際国の後継者
鉄の大門が、内側からゆっくりと開いていった。兵士が片扉3人ずつで押し開けていく。開きかけた扉の向こう側、王宮の中の宮殿に続く通路の脇に、大勢の人達がそれぞれの色分けされた制服の正装で、頭を垂れて並んでいた。
琴は、正面を見据えて拳を握った。この日から自分はもう、東国那の壇家の琴姫では無く、際国の際王の孫の琴喜となるのだ。父も母も既に亡くなっているだろう。自分の寄る辺は、もうここにしか無い。何の力も持たない自分の弱さを、この数日で思い知った。強かった父も、壇家も、たった一夜で消えてしまった。自分が、今ここにこうして居られるのは、際国という後ろ盾があったからだ。ずっと気がかりな疾風の行方を捜そうにも、今の自分ではどうすることもできない。この国で力をつけよう。強くなろう。そう、固く心に誓った。
大門が開ききった時、その通路の最奥の宮殿の建物の中から、ひときわ大柄の人物が現れた。朱色の衣装の色が目を引いた。その時、自分の手首から、銀色とも金色ともつかないキラキラ輝く糸が現れて、その朱色の人物に向かって、真っすぐに伸びていった。その糸は力強い程に太かった。その糸が朱色の人物と繋がったと認めたその時、琴喜の身体から何かが飛び出したような感じがして、自分がその王宮の宮殿を上から見下ろしているような感覚になった。それは、いつか見た夢の一部で、その後に続く光景がまざまざと脳裏に浮かんで来た。
際王龍州は、早朝から孫の帰還を今か今かと待ちわびていた。常に平静を保っているように努めているが、昨晩から、眠りが浅く、よく眠れなかった。
最愛の娘の百合が嫁いだ東の那国の檀家。その領地が襲撃されて、城と共に百合の消息が消えたとの急使が入り、孫の琴姫の行方も分からないとの知らせに、体が震えた。
その事態の報告は前触れもなく突然現れた、忍びの民の暗の長の夜一によるものだった。彼も、決死に守ろうと戦ってくれたのであろう。顔は真っ黒に煤けていて、げっそりと目は窪んでいる上に着物は破れて焼け焦げ、全身から煙の臭いがした。矢傷を負い、酷い火傷も負っていた。不眠不休で知らせに戻って来た事がわかる。急使用の鳥は毒を盛られて死んでいたそうだ。
彼のその姿に、龍州は、夜一の心中を慮った。暗の民の長しか王城内の隠し通路は通れない。誰も急使の代行は出来ないのだ。
「暗の民の長、夜一殿。そなたが生きてここに居る事に感謝する。酷い火傷だ。王宮の薬師の薬を持たせよう。医師も遣わす。後の事は、我らに任せてほしい。しばし体を厭うて休まれよ。知らせに感謝する。」
際王龍州は、夜一を心から労った。
夜一からの報告の翌日早朝、東側方面の治安を統括している東方軍の瑠 間耳将軍から、鳥による急使が届いた。
暗の民の働きで、那国の壇家が襲撃された事を知った東方軍が、救援に向かっている事。那国の瑠の領主が際国側に離反したことにより、琴姫が占部の領地に囚われて居る事が判明し、奪還に動いている事。瑠の領主の瑠 間目は瑠将軍の実兄であるが、壇家襲撃に加担した責により、間目は領主の座を降り、自害する事で領民の命を救って欲しいと願い出ている事。などが報告されていた。そして最後に、壇家襲撃を阻止出来ず、自身の実兄が襲撃に加担していた咎により、琴姫を奪還した後に軍の任を離れて鬼籍に入る許可が欲しいと瑠将軍は願い出ていた。
「全て、予想外だ。……頭の痛い事だ。」
宰相環 湛雄が目頭を押さえながら思わずぼやいた。鳥の届ける急使が次々に舞い込む中、際王の執務室に顔を揃えたのは、際王龍州その人と宰相、際国軍総督環 祥雄、際国皇后であった雪花の乳母兼相談役であった、卒王家の梅名、百合姫の乳母として卒王家から来た喜玖の5人であった。梅名と喜玖の二人は、卒王家の者が顕す能力の先見の力を有している。
「壇領を守る為の東方軍と言っても過言ではなかったが。どこかに見過ごしがあったとしか言えない。しかし、瑠将軍は、人格者で信望する部下も多い。平民からの叩き上げで、貴族出身の兵との交渉も上手くこなせる逸材だ。しかも軍の招兵学校の一期生だ。これから軍を強固なものにしていく上で、期待が大きかっただけに……」
惜しむ思いが、宰相の言葉から滲み出ていた。
「瑠将軍に甘い措置は今後の為にはなりません。」
軍総督の環 祥雄は兄の宰相に苦言を呈した。
「東方軍に最適な次の将軍がまだ育っていない事実は認めます。瑠将軍は那国の出身だけあって東側諸領の情勢に詳しい。しかも東訛りの言語にも精通している。彼しか知らない山越えの獣道にまで詳しい。確かに、鬼籍に送るには惜しい人材です。」
環総督自ら瑠将軍の今までの功績を高く評価していた。
「しかし、ここで瑠に対して確固たる態度を示さねば、今後東側諸領から壇領を守る事が難しくなります。檀の海運船団の軍事化は未だ道半ば。今後大きな戦力となります。檀の領主の篤盛殿の生死が不明の今は、壇の船団が今後も我らと共闘出来るかも不明です。とにかく、琴様の生存確認が急務です。瑠将軍の責任追及に関しては報告を待って下しましょう。」
「生存確認……。」
際王龍州が環総督の言葉尻を捉えて呟いた。その場が一瞬にして凍りついた。
軍事的な慣用句を習慣的に用いただけであったが、檀家襲撃の報からの際王龍州の焦燥する姿を日々見ているだけに、配慮に欠けた言葉であった。際王は環総督をぎろりと睨んだが、それだけだった。しかし
「瑠の領地を際国に併合する。自治権は認めない。間目は処刑。自害は許さない。戦闘民も処刑。領民においては、富裕層の財産没収。間目の血縁者を領主に据えるが、扱いは平民とする。城は打ち壊せ。」
際王は机上の地図を指さしながら、淡々と考えを述べていく。
「今回の襲撃の首謀者の占部は領地を焼き払え。他の追従領の領主全てと戦闘民は一人残さず処刑せよ。」
そこまで言って、際王は宰相と総督に目を向けた。
「何故、占部は壇を襲ったと思うか?」
その問いに答えたのは、梅名だった。
「際国に海に出られたら困る国があった為です。檀家と際国が縁戚関係で結ばれたので、際国が船を持ったと判断したのです。占部はそそのかされたのです。」
梅名の隣で喜玖も大きく頷いている。
「裏で沖国が動き始めました。檀家の次に狙われるのは、壇と沖の間にある亜領です。沖は直接陸路で亜領に攻め込むでしょう。亜領は東海に接してはいますが、海からは断崖があって船は着けられません。亜領の南の深い森から水が湧き出し、豊かな土地からは綿花や麦が採れます。沖はこの領地を随分前から欲していたようです。」
「何故、亜領から先に攻めなかったのだ?」
「沖は、百合様が欲しかったのです。人質とする為に。」
際王は顔色を変えた。
「壇が攻め込まれる事は、分かっていたのか……」
「はい。このような夜襲になるとはわかりませんでしたが。百合様にもお伝えしていました。しかし、いつ攻め込まれるか具体的にどのような戦になるのかは、分からないのです。幾通りもの未来を見ました。百合様を前もって逃がす未来には百合様の御身に耐え難い恐ろしい結末しかありませんでした。」
梅名が苦しそうに言った。その後を喜玖が引き取った。
「百合様にとって、最も幸せな最期は、篤盛様と最後まで共にある未来でした。百合様もそれを望まれました。琴様が生き延びる為には、篤盛様と最後まで離れてはいけないと理解されていました。篤盛様も承知しておられました。その上で、際王には予知を伝えてはいけないと百合様が願われました。不確定な事が多すぎる為に、心労をおかけしたくないとおっしゃられて。」
際王は両手で顔を覆った。未来など知りたくもないと拒否してきたのは自身だ。愛しい妻が先立つ未来も、愛する娘が死ぬ未来も知ってしまえば何としてでも阻止しようとしただろう。国を傾けてでも救おうとするだろう。失う未来は変えられないのに。後から知らされる夢物語の予知にこれ程絶望している。この憤りは何だろうか。
このやり取りを固唾をのんで聞き入っているのは、環総督であった。卒王家から来た二人の乳母が、未来を見る事ができるのは極秘事案で、これまでは際王と宰相、卒王家の血を引き、自身も遠見の力を持つ百合とその伴侶の壇 篤盛に限られていた。目の前で語られるやり取りに、驚愕していた。
「少し、話を戻しましょう。」
環宰相が穏やかな口調で割って入った。
「環総督は、こういう場に参加されたのは初めてですので、驚く事と思いますが、質問については後程。梅名様、喜玖様、端的に尋ねます。」
宰相は、一呼吸置いた。
「百合様は、もう亡くなられたのですか。」
「はい。篤盛様と共に、城の中で焼け死にました。」
梅名が平坦な声で答えた。隣で喜玖がたまらず泣き始めた。喜玖の乳を飲んで百合姫は育ったのだ。それはもう、我が子も同然であった。
「では、琴様は生きておられますね。」
「はい。まだ、生きておられます。ですが、状況はあまり良くないと思います。」
「それは、どのような……」
「屋外の吹きさらしの粗末な小屋のような所に囚われていました。手足を縛られて。水も食事も与えられている様子が見えませんでした。」
「……!」
際王が声にならない呻きを漏らした。そして
「場所は分かるか?」
と低く問うた。
「恐らく、占部の領内の何処か。ひどく臭い場所です。……恐らくですが、豚小屋の何処かかと。私は豚小屋というものを実際に見た事がないので……」
梅名が皆まで言う前に、際王は立ち上がる勢いのまま椅子を蹴り倒した。重たい椅子が壁際まで飛んでいき、装飾の一部が欠けて散乱した。
激しい音に、近衛が扉の前まで駆け寄って来て、人払いされている事を承知の上で、誰何の口上を述べた。ここまで龍州が怒りを露わにすることはこれまで一度も見た事が無かった梅名と喜玖は、身を固くしている。
「大事ない。持ち場に戻れ。」
環総督が大きく誰何に答えた。
怒りに震える際王龍州は、環総督に厳しく命じた。
「琴姫を、生きて余の前に連れて来い。」
宮城正面の通路の先の輿を目に捉えてから、際王龍州は、足早に廊下を進んで行った。宮の庇の先から延びる階段下の正面にちょうど輿がゆるゆると据え置かれていく。輿の前垂の御簾が巻き上げられ、その奥から小さな足が伸ばされた。従卒がその足に沓を履かせた。次に小さな手が差し出され、従卒がその手を引いて輿から体が引き出された。その姿は、男子王族の正装をしていた。
『なんと小さいことか。』
龍州は孫の姿を一目見て、余りの幼い姿に、不憫さで目頭が熱くなった。まだ6才。戦の中に巻き込まれて、それでも知力を絞って生き延びてくれた。
駆け寄りたいのを堪えて、辛抱強く孫の姿を見守った。
輿から降りて、しばし。歩み出す素振りが無い。
傍の従卒に何かを耳打ちした。すると、もう一人の従卒が駆け出して行き、宮城の門の外で馬を引いたままの東方軍の瑠将軍に声を掛けた。驚いた風の瑠将軍であったが、馬を置いて足早に通路を進んで、琴の前に膝を付いた。何か言葉のやりとりをしているが、こちらには遠くて声は届かない。すると、瑠将軍は深く叩頭して礼を取った後、立ち上がると、琴の後ろに立った。そこでやっと琴は正面を向き、真っすぐに際王を見た。
目が合った。百合姫と雪花の面影を持った子だった。遠くからでも、確かに分かる。歩き方、手の運び。そこには、間違いなく自分の孫が居た。
階段をしっかりとした足取りで登って来る。後ろからは東方軍瑠将軍を従えている。近付くに従って、孫の顔がはっきりと見て取れた。少し浅黒い肌、強い意志を感じさせる緑の瞳。髪の色は黒に近い茶色の巻き毛だ。
やっと、すぐ目の前に立った。胸に手を当てて叩頭し、敬意の礼を取った。
「初めてお目にかかります。那国、壇領の嫡子、壇 琴喜と申します。まずは、おじい様にお礼を申し上げたく思います。助けて頂いてありがとうございます。檀の領民に対しても手厚い保護に感謝しております。本当に、ありがとうございます。」
そう言うと、深く叩頭した。
何か、言葉をかけようと思うのだが、言葉を発すると涙声になるのが分かっているので、際王龍州は一歩踏み出し、孫を抱きしめた。そして、琴の手を引き、そのまま宮の奥へと歩き始めた。後ろから瑠将軍や宰相達が従った。
宮殿の中の際王政務の間に、琴喜は祖父に手を引かれたままで連れて来られた。祖父の手は大きくて、固くて、力強かった。そしてとても暖かかった。
手首から出ていた金とも銀ともつかない輝く糸はもう消えていた。その不思議な糸が何かはよくは分からないが、血の繋がりがあって、助けを呼び合う時に出るのではないかと漠然と思った。
室に入ると、祖父はすぐに、琴喜をしっかりと抱きしめた。目には涙が溢れていた。琴喜よりも白い象牙色の肌に、白い毛の混じった黒味の強い茶色の髪を高く結い上げて、金の冠をその髪の結っている部分に載せている。王しか着る事が出来ない朱の生地の、金糸で龍の刺繍が胸部分に施された衣装がとても似合っていた。
そして、深い皺を刻んだ顔は優しそうで、瞳の色が、母と同じ、翡翠色であった。自分の瞳とも同じ色だ。
「よくぞ生きていてくれた。頑張ったのだな。」
祖父はやっと琴喜を懐から離すと、両肩に手を添えて琴喜の顔の正面を眺めながら優しく語りかけた。琴喜の唇の傷を痛々しそうに見て、
「どこか酷く痛む所があれば、ちゃんと医師に言うのだぞ。」
そう言いながら、今度は両手を手に取って、手首に残る痣を確かめるように眺め、痛みをこらえるように目を逸らした。
されるがままになっていた琴喜だったが、意を決して声を出した。
「助け出して頂いた事に感謝しています。いかに自分が恵まれた生を受けたかを、上神に感謝しました。」
際王龍州は改めてしっかりと孫を見た。
「私が際国の王の孫でなかったら、私は探される事もなく、あのまま死んでいました。どこに連れ去られたかも分からなかったでしょう。」
幼い子供が、泣くまいと、必死にこらえながら、それでも言葉を紡ぐ。緑の瞳にいっぱい涙をためながら。
「壇の領民も、沢山助け出して頂いたと聞きました。感謝しています。私が際王の孫だから、壇の領民まで助けて頂けました。瑠将軍には、兄の瑠 間目の行いを、私の前で、土間床に額を落として心から謝ってくれました。そして、手厚い看護を受けました。」
ここまで言い切ってから、ふっふっと息をついて、袖で涙を拭った。そして息を整えてから
「瑠 間目に、多分私は、助けられました。」
一同、固唾を飲んだ。
「私が捉えられたあの時、瑠 間目が声をかけて場の雰囲気を変えてくれなければ、私はあの場で射殺されていたと思います。そして、私を救う為に離反していったのです。自分の命を失う事が分かっていながら。
その後、私の為に、瑠将軍に急使を送ったと聞きました。」
琴喜は、際王の前に跪いた。
「際王であるおじい様。瑠将軍を助けては頂けないでしょうか。」
その姿を見て、瑠将軍は即座に琴喜の傍に駆け寄って跪き、額を床に着けて叩頭し
「もったいないお言葉です。」
そう言って、叩頭したまま琴喜の沓の先に手を触れた。それは恭順の仕草だ。
「どうか、もう、おやめください。私の覚悟は決まっております。そもそも、加担せず、こちらに知らせていれば起きなかった襲撃です。」
「いいえ。加担するしか無かったのです。」
「えっ……」
「瑠 間目の妻子が領地に居なかったでしょう。」
再び、一同は固唾を飲んだ。
「今回の襲撃の領主の妻子は、占部以外、皆人質に取られていたのです。南の沖の間者に連れ去られたのです。そして、今はもう、皆奴隷としてちりじりに売られてしまいました。」
思わず、瑠将軍は顔を上げた。
「今後、瑠将軍にしか無しえない出来事が起きます。何故それが分かるかは、説明できませんが、おじい様には分かってもらえると信じています。」
際王柳州は、じっと琴喜を見据えた。
「まだ6才だというのに。見えてしまうのか。」
際王のその言葉に、瑠将軍は今度は際王を見た。際王は、瑠将軍の困惑した視線を受け止めると、
「琴の祖母は卒王家の直系の姫であった。卒王家は上神に最も近いと言われている。琴の祖母にも母親にも万里を見通す遠見の力があった。琴はそれを受け継いだのだろう。」
瑠将軍は、畏怖の念で琴喜に視線を移した。
「瑠 間目は、妻子の命も、己の命も捨てて、私を救ってくれたのです。自分の領地で身の丈にあった幸せな生活を送っていたのに。
那国の民は、皆そんな日々を大切にする民でした。沖の計略に大事な家族を奪われるまでは。
那国の民の気持ちの分かる、那国出身の瑠将軍であれば、那国の領民の恨みを際国に向かわせる事を防げるはずです。今、領民の恨みと悲しみは際国に向いている。
沖の狙いはそこにあるのです。更に、行き場を無くして逃げた領民を、沖は奴隷に落として売ろうとしています。
どうか、瑠将軍に温情をおかけください。私は瑠の民を恨んではいません。」
琴喜は、跪いて叩頭し、際王に懇願した。しばし黙った際王は、
「環宰相。意見を聞きたい。」
宰相に意見を求めた。黙って事の成り行きを見守っていた環宰相は、一つ息を吐いて
「わずか6才にしてこの洞察力。際国は得難い後継者を得ました。」
そう言った。
「恐らく、私の意見よりも、梅名様や喜玖様の意見と擦り合わせる必要があるかと思います。私の役目は、瑠将軍への風当たりを一旦どこかへ逃す算段をつける事かと。一番の被害者の琴様が許され、嘆願されているのです。どうにでもなります。」
そうにっこりと笑って、琴喜を見た。
その笑顔を見た琴喜は、安心して、泣き出した。
今まで、精一杯、頑張って来た緊張の糸が切れてしまった。何としても瑠将軍の命を守りたかった。その一心で沢山考えた。眠ると夢にうなされ、起きているのか眠っているのかわからない時もあった。しかし、ここにはもう、自分を殺そうとする人はいない。それだけでも、足が震える程に嬉しかった。
その夜から、琴喜は再び熱を出した。
王医師の、環 天雄が呼ばれ、付き切りの看護が行われた。合間に梅名や喜玖が看病を交代したが、夢うつつでうなされ、叫び、泣き、うわ言を言う。目覚めてもまだ夢の中か現実かの判断が出来ない様子で、おびえきってしまっている。
熱を出して寝込んでから2日目に、天雄医師は、梅名と喜玖を呼んだ。
「予知夢を見ていると思いますか?」
と、率直に尋ねてみた。梅名と喜玖は揃って肯定した。特に梅名は
「覚醒する時期が早過ぎました。殆どが立志の頃に覚醒するのですが。早くに男の子に変わってしまった事が影響しているのでしょう。性別が変わるのは、通常成人する頃です。前もって口伝を伝える機会もありませんでした。これでは精神が持たないかも知れません。」
そう言って、酷く心配していた。
「せめて、契りの者が近くにいればいいのですが。」
喜玖もとても気をもんでいる。
「そんなに早くに契りの者がわかるのですか!?」
「もう、性別が変わっていますから。分かるはずです。遠見の力を持ってもいますから、契りの者と意識が繋がっていると思います。」
「ええっ!」
天雄医師は驚いた。
「意識が繋がっているんですか!?」
「はい。遠見の力を持つ者は、その力で契りの者を探し当てるのです。」
「ええええっ!」
余りの驚きに、天雄の声は裏返った。
『これは、ご本人に聞いて、探し出すのが一番手っ取り早いかも知れない』
密かにそう考えた。その上で、
「梅名様、喜玖様。卒王家が無い今となっては、今後、琴様が大きくなられてからご自身の能力の事で悩まれる事が多いかと思います。
際国の王家は卒王家と今後永く代を重ねる事でしょう。しかも、喜玖様のお子の真雪様にも、能力が現れるかと考えます。今後の為に、卒王家の口伝を、書き起こして後世に伝えるようにしてはいかがでしょう。」
天雄医師は真剣に、梅名と喜玖に訴えた。
「王にお伝えして、禁書庫の蔵書にと進言します。」
そして、深々と頭を下げた。
「是非、ご一考ください。お願いします。」
明るい日の光を感じて、琴喜は目を開けた。そこは一面、見た事もない程広い広い茶色の世界だった。見渡す限り、遠い遠い向こうの果てまでもが、波打つ山のように茶色い。足元の土に触れると、それはさらさらと形を成さない砂であった。
肌を焼く強い日差し。ヒリヒリと喉が焼けるように渇きを感じる。熱い足元の砂が素足に厚布を巻いただけの足裏を焼き、痛い。身体全体を厚い布ですっぽりと巻き、その布に隠れるようにして熱い砂の上を歩いて来た。一歩一歩が重く、辛い。胸の懐深く隠している守り袋に手を添えて、逢いたい人を一心に想った。
『琴姫……』
「疾風っ!」
叫んで、琴喜は飛び起きた。目の前に、母に似た女性が座っていた。白い肌に金の髪。しかし、瞳は灰色がかった暗い青色だ。母の瞳は翡翠色だった。とてもきれいな澄んだ緑色だった。
「やっとちゃんと目覚めましたね。私は真雪と申します。あなたの母の百合様とは乳兄弟です。」
そう言って優しく笑った。
「お水を飲んで。」
そう言って、すぐ傍の机の上の水差しから水を玻璃に汲んで、琴喜に手渡した。琴喜は、ポカンと真雪を見ている。
「さっきまで、意識はどこか違う所に飛んで行ってたのね。よく戻って来れたわ。身体と意識を繋いでおくように鍛錬しないと、戻れなくなったりするから、本当に心配したわ。」
琴喜は水を一口飲んだ。喉を潤す水が心地よくて、先程のヒリヒリした喉の痛みを思い出した。思わず、残りの水を一気に飲んでしまった。
「あなたがしっかり意識しないと、あなたに繋がっている契りの者があなたの元に引き寄せられて来ないわ。絆が弱まってしまうわ。だから、しっかりするのよ。」
真雪と名乗った女性は、母の百合ように不思議な事を言っている。琴喜は何とも言い難い不快な気持ちがして、母の乳兄弟という真雪に尋ねた。
「何故、私が契りの者と繋がっていると思われるのですか。私は自分の契りの者が誰かは知りません。」
「琴喜様は、何度も同じ方の名前を呼ばれていました。恐らく、その方が契りの者です。その方が見ている物を一緒に見ている…というか、感じているのです。お名前は、『疾風』。」
「えっ……」
「今、意識のはっきりしている時に、声に出してお名前を呼んでみて。そうすると分かるはずです。」
琴喜は黙った。この人は何を言っているのだろうか。まだ自分は6才で、契りの者と出逢ったと分かるのは、まだまだ先の事ではないのか。
「さあ。呼んでみて。」
尚も、真雪は畳みかけて来る。そう改めて言われると、気恥ずかしい。
そんなに自分は疾風の名を呼んでいたのかと、顔がほってった。
「……はやて……」
小さな声で、呟いてみた。すると、疾風の顔が脳裏にはっきりと浮かんだ。身体の中を風が吹き抜けていくように、その疾風の姿が自分の中を通り過ぎた。無意識に目で追うと、再び茶色の砂の景色の中に疾風は居た。重い足取りで、見た事もないような茶色い動物の手綱を握って、その動物の陰に隠れるように日差しを避けながら、かなりの人数の人々の中で揉まれるように歩いているようだった。
「分かった?見えたみたいね。遠見の力で、契りの者その人の今いる状況が分かるのよ。あなたは幼いけれど、性別が変わってしまったから、覚醒してしまったの。」
真雪の言葉に耳を傾けると、疾風の景色は遠くに行ってしまった。
「また、見える?」
「ええ。見えます。でも、あまりそちらに気を寄せると、現実の自分の体が疲れてしまうから、まだ幼くて体力の無いあなたは、元気になる事の方が先ね。」
「あの……疾風は男の子なの。私も男の子になってしまったの。それでも、疾風の契りの者と分かってもらえるかな……」
「あなたの体は男の子になってしまったけれど、中身は女の子のままなのでしょう?。大丈夫。そのままで。
契りの相手は、今の代の縁だけではないから。ずっとずーっと前から、お互い契りの相手で、何度生まれ変わっても、お互いを求めあうのよ。
上神はそのように采配しているそうよ。必ず、自分の半身と出逢うように。」
そう言って、優しくふわりと笑った。
「私の今世の契りの相手は、女よ。
私は、卒王家の者だから、女の性で生まれるの。契りの者が女であった場合は、男に性別が変わるはずなのに、女のままだったから、これも上神の采配なのでしょう。子供は産めないから、もらい子をする予定でいるのよ。」
さらりと、当然の事のように、真雪は言った。琴喜は困惑した。
「琴喜様は、何も学ぶ機会がないままに、覚醒してしまったの。これから、私達で卒王家の王族だけに伝わる口伝を一から伝えていきます。今のあなたに最も必要な部分から伝えていきますから、まずは体を元気にしましょう。」
そして机の上の呼び鈴を鳴らすと、入って来た侍女二人に色々と指示していった。
宮城に着いた日から寝込み、やっと起き上がり、床上げをしたのは5日もたってからだった。際王はもっと休ませておきたかったようだが、琴喜本人が、口伝を早く知りたいと強く希望したのだ。仕方なく、環医師が当面の間は付ききりで診る事を条件に、王は譲歩した。
環医師と環宰相から、後世の為に、卒王家の口伝の聞き取りと書き起こしの必要性を説明された王は、それを承諾し、王家が秘する重要な書架とする事を決めた。
卒王家の3人の女性から、琴喜に口伝を伝える機会に、一緒にその作業を進める事で折り合いをつけた。主に書き起こしを担当する者に、喜玖の娘で、真雪の契りの相手である、環 穂実がその役を担当する事となった。穂実は皇太后付の国家書物保管管理室の官吏を務めている。
官吏の環 穂実は、宰相の環 湛雄の末の実妹に当たる。先王の宰相であった父が、先王が崩御した後に上神の祭司となり、政治から離れた後に儲けた末の娘で、上神の祭祀を司る祭女として育てられていたが、卒王家の姫だった喜玖の娘の真雪と契りの相手であると判明し、俗世に戻して、真雪と婚姻した。
祭女であっただけに、際国の年行事にも精通しており、際国内の祭りや宮殿内の奥向きの采配を振るう皇太后の片腕となっていた。
穂実は、美しい文字をしたためる書家でも有名であった。彼女の文字は実に美しく、教本の手本とされる程であった。
真雪との婦婦仲もすこぶる良く、今度、壇領の孤児を数人実子として迎え入れて育てようと考えていた。
真雪の際王家の特徴である能力は、成人してからも覚醒していない。その事については、母の喜玖も真雪本人も喜ばしい事と考えている。覚醒する時期が遅ければ遅いほど、精神的に安定出来るからだ。
皇太后は年齢を感じさせない聡明さを今でも持っていたが、既に老境に達しており、王宮内の奥向きに関する事は、皇太后から自然と穂実に託されていった。伴侶の真雪も、穂実と共に皇太后の補佐に日々奔走している。
際王の側妃2人はそれぞれ、皇太后が推し進めて来た、女子の高等教育と女性軍属の教練を引き継ぎ、手腕を発揮し始めていた。
皇太后も、卒王家の口伝には、並々ならぬ興味を持っており、皇太后の地位から引退する前に、口伝の内容を知りたいとの要望を、王に伝えていた。
琴喜は、環 穂実を真雪から紹介された。
穂実は、背が小さかった。宰相の湛雄の年の離れた妹と聞いていたので、こんなに小さな人とは思いもしていなかった。環氏の兄達は、琴喜が合った事のある宰相湛雄と医師の天雄の二人であるが、どちらも背が高い。
6才の琴喜から見ても、自分と余り変わらない背丈で、成人していて、契りの相手と家庭を持っているようには、到底見えなかった。
「彼女は、環 穂実。私の愛しい妻だよ。」
真雪は、そう言って穂実に、とろけそうな程優しい目くばせを送った。穂実は、微笑んでその視線を受けながら、嬉しそうに
「際 琴喜様に初めてお目にかかります。卒 真雪の妻の穂実と申します。今後、口伝の書き起こしの任を仰せつかりました。後世に恥じない仕事をさせて頂くつもりでおります。よろしくお願いいたします。」
そう言って、手を胸に当てて、礼を取って叩頭した。
際王によって、数日後、琴喜は際国の正式な王太子として立てられた。檀の姓から、際へと戸籍も変更された。檀の姓は、疾風の姉の子が継ぐ事に決まった。
まだ赤子であるが、琴喜が洞窟まで駆けつけて助けた男の子である。すくすくと健康に育っていると、先日、瑠将軍(現在は環総督の監視下で下士官の教育担当官として、軍学校に一時留め置き措置とされている)が手紙で知らせを寄越してくれた。
檀家の直系一族は領民を守って、分かっている範囲で、皆亡くなっていた。
疾風の一族は、壇家の傍系の一族に当たる。赤子は、疾風の姉の珊瑚達と共に、那国に戻り、壇領の復興に檀家ゆかりの親族一丸となって取り掛かっていると書かれていた。その知らせに、琴喜は嬉し涙を流した。
時期を見て、瑠将軍は再び東方軍の将軍に戻る予定だと、宰相から教えられた。
近々、沖国が亜国に侵攻して来ると、先見の予知がされた。暗の民の長の夜一も頻繁に際王と会っており、ある夜、その席に、琴喜も一度呼ばれた。
初対面で、夜一に対して丁寧に挨拶した琴喜に対して、
「以前から、ちょくちょくお会いしていましたよ。」
と言われて、琴喜は全く合った覚えが無くて、面食らった。
「いつ??」
と思わず言ったら、ふっと笑われた。その後、よくよく思い出すが、全く合った覚えが無く、どうしても分からない。祖父にそう言ったら
「そこが、暗の長の凄いところだよ。」
と言って笑われた。
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