はらからよ二度は無い
固定標識
免許証の裏
免許証には裏がある。
それは別に何か悪しき事実を覆い隠しているだとかそういうケッタイなものではなくって、実際裏面が存在するのである。
私は免許証の裏面にそういった文言が書かれていることは知らなかったし、恐らく獲得前から知っている人は少ないのではなかろうか。
何ってそれは『臓器提供に関する意志表示』である。
『以下の部分を使用して臓器提供に関する意志を表示することができます(記入は自由です。)。記入する場合には、1から3までのいずれかを〇で囲んでください。
1,私は、脳死及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植の為に臓器を提供します。
2,私は、心臓が停止した死後に限り、移植のために早期を提供します。
3,私は、臓器を提供しません。』
以上のような文言があって、その後には提供したくない臓器に〇を付けるだとか、特記欄だとか、自筆署名だとか、署名年月日の欄なんかが記載されている。
そして私の心を強く動かしたのは、これらの中のどれでもない。
実はこの文言は、免許証裏面の下半分に記載されており、上半分はまるごと別の要素となっているのである。
【備考】
と書かれて、五行分。
いくらでも細かく書けそうなスペースは横たわる。
①に〇を付け、署名と年月日を記述し、さてと居直る。
備考欄に何を書くのか、これを本日の命題にしようと考えた。期日は丸一日である。死後の言葉を伝えるには短いようにも感ぜられたが理由がある。
悩んでいる内に死んでしまったら元も子もないからである。
免許証とにらめっこをし、しかし双方一切合切笑みなど無く。
ただひたすらに空想と戦いを繰り広げる。
命とも呼べる臓器を、自らの死後、顔も見知れぬどなたかの生のために役立てるということは、大変勇気の要ることだし、実際自分で欄①に〇を付ける時、多少手が震えた。
誰かの為に生きることと、誰かの為に死ぬことはよく似ていて、けれども全く異なるものなのである。だから今生きて息をしている自分が果たしてどれ程の覚悟を持てているのかとか、もしくはこんな覚悟が臓器提供に相応しいベクトルであったのか、などといった数多の不明な事柄が明らかになる頃には、私の脳は酸素を吸っていないのだろう。
ふと、思い出すのはいつぞや何処かで目にした文であった。
【紀徳碑】
【紀徳碑何為而建也念賢婦杉山氏之徳而建也杉山氏名仲甲斐国西山梨
郡清田村人為人貞淑而動敏其夫日武七業農民助之乗相従事畝間程好
不怠治家訓子女亦可観甲州有奇疾称地方病病原不良医亦来手
患之者多姥死民亦罷之嗣子源士口看護療養九三葛袋詳及疾篤其族嘱
之日五口不幸臥尊命在旦夕闇斯病不流行地州而独禍我郷国然未能明其
病原是可憾也吾死之後母以供仏語経為特解剖屍体以資病理研究之用
此事而遂功吾願足交言畢遂不起実明治三十年六月某日也享年四十有
凡東八代郡同盟医会従其遺言於成田岩寺銭域設壇操万制其屍啓斯病研
究之端爾来刀圭家研鎖十五年而始有日本住血吸虫病之創見馬顧在当
時弱者戟張之男児猶且厭忌解体而陛之況於茜裾荊叙繊弱之人其畏怖
果如何也而氏則毅然委其遺体為斯病解屍之鳴矢欲隣斯民於仁寿之域
不賢而能至平此哉頃者吾医会育謀伝遺徳干不朽立碑紀其事系以銘
銘自助夫治家死後体状慈恵愈磐
徳仏不忘
従四位勲三等熊谷喜一郎家額
明治四十五年壬子六月上滑東八代郡同盟医会建之】
──引用/風土伝承館 杉浦醫院(https://sugiura-iin.blogspot.com/)
何が書いてあるんだかさっぱりである。
ただしこう書けば分かる方は多いのではなかろうか。
此れは甲府市向町盛岩寺境内に在る【杉山仲女之碑】である。
杉山なかさんは、ミヤイリガイ及び日本住血吸虫の撲滅に大きく貢献した女性その人である。
私は寄生虫だとか風土病だとか、そういった分野にはとんと明るくないため、もし御存知で無い方がいらっしゃれば検索を掛けてみるといいかもしれない。
必要な部分だけ抜き出して記述すると、謎の病に苦しめられ続けた地域で、同じ病に罹患した杉山さんは死の間際で、当時一般的ではなかった死体の解剖を願い出たのである。
【死体解剖御願】
【私はこの新しい御世に生まれ合わせながら、不幸にもこの難病にかかり、多数の医師の仁術を給わったが、病勢いよいよ加わり、ついに起き上がることもできないようになり、露命また旦夕に迫る。
私は齢50を過ぎて遺憾はないが、まだこの世に報いる志を果たしていない。願うところはこの身を解剖し、その病因を探求して、他日の資料に供せられることを得られるのなら、私は死して瞑目できましょう。】
──死体解剖御願、杉山なか。
明治30年(1897年)5月30日】
自らの臓器を差し出し、どうか後世を救って欲しいと願うこと。
今でこそ一般に浸透した解剖も、例えば何の先入観もなく見れば、裂いて中身を検める為に死体を弄らせることと同義でもあるだろう。
それが実際、病の根絶に繋がるという保証は無い。
だからこれは、完全に信頼と信用が生み出した活路への希望であったのだ。
睨みつけても免許証は語らない。
私はペンを取った。強く握れば熱も宿る。
血の熱が。臓器の熱が。いのちの熱が。
この火勢のように憤る奔流を正面から叩き付けるように、備考欄にペンを走らせる。
五行すべてを縦断する言葉は【生きてください】と。
笑えとも言わない。泣けとも、背負えとも言わない。
ただ貴方を生きる事が、一番に〇を付けた人間の望む本意である。
思い切り格好つけた結果随分ダサかった。
鼻で笑って財布に放り込んで、寝る。
燃え残りの痺れが風を受けて死んでゆく。
はらからよ二度は無い 固定標識 @Oyafuco
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。はらからよ二度は無いの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
近況ノート
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます