すっかり指輪の事に気を取られていたけど、当初の餌はこれだった。湊が言ったのだ、蟹がいるかもよって!!


海さえ初めての自分には、こんな、人が戯れるような場所で野生の蟹が見られるなんて信じ難い海の魅力でしかない。


是非とも見つけたい。



急な興奮にメラメラと覆われ、立ち上がり、勢いそのままに岩場へ一直線に向かった。




岩場は、目の前にすると想像していたより大きかった。


皆と違ってビーチサンダルなど持っていなかったボクは場違い覚悟で靴下にスニーカーだ。 


一応紅騎が貸してくれようとしたけど……無理だった。足の大きさが違いすぎる。


スニーカーで登るか? 靴下の方がまだ滑らなかったりする? 裸足は痛そうだし……と考えた結果、安全を考慮した上でのスニーカーのまま岩場に足を掛けた。


掛けた、といってもちょっとした丘になっている程度だ。奥へ進むと隆起した岩と岩の間に窪みがあって、海水が溜まっている。いかにも想像上の蟹が隠れていそうな場所でわくわくがノンストップだ。



「あ!!」



視線を滑らせて数秒、思わず声が出た。


蟹だ!


本当に蟹がいた!!



驚きと嬉しさに支配され、蟹歩きを披露した後動きを止めたそちらさんを見つめた。一人、ドキドキして、岩に添えていた手をそっと伸ばしてみた。紅騎たちにも見せたい——



「ぅわっ」



やはりスニーカーは良くなかったようだ。まんまと足を滑らせたボクは体勢を崩して岩場に身体の側面を打ちつけた。


「いっ」


咄嗟に零れた声のボリュームを抑えようと奥歯を噛み締めた。蟹がびっくりして逃げてしまうかもしれない。


いてて……と心の中で呟いて、打ちつけた右脇腹のラッシュガードを辺りを確認してからそうっと捲った。



後々グロテスクな痣が浮かび上がるであろう赤黒いサラシの下箇所に、予想外の擦り傷、既に血が滲んでいた。



寮長さんの服が!!



急いで服に血が付かないよう持ち上げ、裏地を確認する。幸いまだ血は付いていないようだ。


ボクはポケットの中にハンカチを入れていた事を思い出し、左手で服を捲りながら右手でゆっくりハンカチを取り出した。


「っと——」


「純!!」


突然背後から呼び掛けられた声と、胴に回った腕。びく、と肩を上げたボクの指から畳まれたハンカチが解ける。


次の瞬間には、水音を響かせて指輪が岩場の隙間へと落ちていった。



「え……!?」



「焦った……て、純?


こら!」



紅騎の叱る声も遠く、ボクの視線は指輪が落ちていった水場から離せない。どうしよう。目を凝らすも深くて底が見えない。すぐにでも膝をついて覗き込みたくて、お腹に回った腕を離してもらおうと強く押すも動かなくて振り返った。


「こうき……っごめん、お願いだから離して」



「純?

顔真っ青だけど」


「いいから!!」



初めて、人に怒鳴ってしまった。



紅騎は悪くないのに。焦って。感情任せに。


ごめん……と未だ動揺の最中、謝罪だけが溢れる。



「いーから」



紅騎のやっぱり優しい声が降ってきて、身体に回った腕の力が緩められる。



「どうした?」



ボクは震える浅い呼吸を繰り返して岩場に手を添え、紅騎に向き直った。



「ごめん。


こうきのあの、指輪。落とした」



真夏なのに背筋から冷える感覚。声も、指先も震える。見上げる紅騎は状況を理解したのか小さく目を見開いた。



「だから、捜させてほしい。


海に繋がってるかも。波に呑まれてなければ底に沈むかもしれない。まだ、」



「泳げないのに?」



何なら、向き直る時、殴られてもいい覚悟で向き直った。



何で拾った時すぐ返さなかったんだって、


追いかけなかったんだって。


今こうなる瞬間までに何度も渡す機会ぐらいあっただろって。



あれが紅騎の宝物だと解っていながらこうなったボクを。



それなのに、紅騎は。



「まって……どうしてそんな、顔。するの。早く捜しに行かないと」



「いいよ。アレ、呪いの指輪だし」



「嘘。宝物だって」


「俺そんなこと言った? 酔ってたんじゃね?」


「言った」



「……頑固。


いいんだよ。もっと大事なものもらったし」



そんな簡単に、言わないでほしい。



「大事なもの?」



胸が痛い。



「秘密。

それより何で脇腹押さえてんの? 腹痛はらいた?」



紅騎は、無意識の内に血がつかないよう服を浮かせたままだった左手を指摘した。



「これは、血がつ」


はっとして、急いで右手で握りしめていたハンカチを服の中へ滑り込ませる。


「いて」

乱暴に当てたから傷に染みた。でも、これできっと寮長さんの服は大丈夫だ。


「血?」


対照的に血相を変えたのは紅騎の方だった。


「怪我してんのかよ……っ」


「いや怪我というほど大層なものじゃないから大丈夫。それより本当に紅騎の指輪、」


「どこ。脇腹?」


「ちょ————!!?」



若干怒っているのかと疑うほどの圧を纏った紅騎が問答無用にラッシュガードの裾を握ったから、急ぎ慌ててその手を押さえる。


く、と簡単に振り解かれてしまう余韻を残してボクを見下ろす紅騎と目が合った。



「見せてみ」



「な、何で?」


「逆に何で? 俺は保健委員だからだけど」



え、紅騎って保健委員なんだ意外……。じゃなくて!!



「だめなものはだめっ紅騎は、ごめん!」



「は?」



身体なんて見せられたもんじゃない——特に紅騎。一番だめだ。絶対に見せられない。嘘を吐いてでも紅騎と絶交なんてしたくない。



「俺だからだめなの?」


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