2.苦手と体育祭

翌朝。

まだまだ緊張感が保たれているのか、余裕を持って設定した目覚ましより早く目が覚めた。

薄いカーテンを捲れば朝の仄かな明るさと静けさ、五月の爽やかさ、その中でカーテンの開閉音に反応してしまったか、ギ、と上から軋む音がして、自分以外の気配を感じる空間が広がっていた。


木製の床に素足を滑らせて、ロフトを見上げられる位置まで移動。見上げても顔は見えないけど、確かに紅騎はよく眠っているようだった。


昨日はあの後、紅騎が食堂へ行った後ダメ元でお風呂セットを抱えてこっそりと抜け出し大浴場の様子を見に行った。


食堂と同じく一階にあった大浴場入口の壁には既に“閉鎖”の和風な札が掛けられていた。その横に小さな文字で開放時間が書かれていて、どうやら土・日・祝に関しては開放時間が十九時半までとなかなか早い時間に決まっているようだった。ギリギリに入ってくる寮生に対しての猶予かその後三十分時間が空いて、二十時から清掃。更にその後、遠征等で帰りが遅くなる寮生の事も鑑みてか二十二時半から三十分だけ開放時間を設けているらしい。

早めに一旦閉鎖されるのはこちらとしては有難い。逆に平日は少し遅めの時間に入らなければならないということだ。だとしても夜中…は施錠されてしまうことも考えると閉鎖してから清掃が入るまでの間だけを狙って、行けるか……?

早くも不安に駆られながら掛けっぱなしの男湯暖簾を潜った。


そもそもあくまで男性が入浴した後の大浴場にボクが入るのはまたセクハラ問題が浮上しないだろうかと冷や汗をかいていたら、思わぬラッキーに顔を上げた。

やはり広い脱衣所。その一番端っこにお手洗いとも掃除用具置き場ともまた別のドアがあり、覗いてみると小さな個室のシャワールームがあった。それも脱衣所的な場所付き。あまりに欲しかったものすぎて幻覚かと目を擦る。

幻覚じゃない!

アリガトウ〜と小声で呟きつつ、急いで入浴。


小走りで部屋に戻ると、煌々と点く電気の下、ローテーブル前に横たわる紅騎の姿が在った。


『紅騎……っ!?』


お風呂セットなど投げ捨てて、駆け寄った。身体を何とか仰向けにすると、すーすーと寝息が聞こえる。


『なん……っ、びっくりしたぁ』


膝の上に乗せた紅騎の頭。やはり髪はサラサラしていて長ズボンじゃなかったら擽ったかっただろう。覗く額と、眉と。同年代の男の子の顔をこうもまじまじ見る機会なんて有り得なかったけど、綺麗なものだ。


ぽた、とボクの髪から雫が落ちて紅騎の頬を滑った。あ、意図せずやり返してしまったなと笑いを堪えていると、紅騎の薄目が開く。


『ナル——じゃねぇ、純……? 冷た』


寝惚けた様子の紅騎が『やり返したなぁ〜?』と笑うから、折角堪えられていた笑みが溢れた。


『あっ、ちょ、紅騎! ここで寝たら風邪引く! ボク流石に上までは運べないよ』


笑い合った後、再度こてんと眠りにつく紅騎。急いで声を掛けるも既に意識は夢の彼方なのかむにゃむにゃと心地良さそうだ。こっちもこっちで足が痺れてきて、再度床に転がした。


『どうしよう』


小さく呟き、部屋を見渡す。

紅騎は部活で疲れていたのだろう。お腹もいっぱいになって。自分もさっきまんま同じだったからよく解る。でももしかしたら、ボクを待っていてくれたのかもしれないな。ボクには電気消して先寝てて良いとか言ったのに。


だからこの部屋は、何だか優しい空気が漂う。


取り敢えず、言ったように紅騎をロフトまで運ぶことはできないから紅騎の掛け布団だけでも取って来ようかと考えたが、ボクがそうであったように紅騎も例え一瞬だとしても許可なく勝手に立ち入られるのは嫌かもしれないから止めた。


結局荷解きもできていないバックパックの元へ行き、中から何か代わりになる物はないかと引っ張り出していく。夕方ラーメンで汚した長袖と入浴前まで着た長袖、今着ているパジャマと下着を除くありったけの衣類という衣類を掻き集めた。


紅騎の立派な体躯を覆うには足りないが、今日背負ってきた衣類たちは皆、もう今日から大活躍だ。


誇らしい気持ちで紅騎に掛けていき、ついでに二枚あった自分の掛け布団も、自分に触れていない方の一枚を仕上げに紅騎に掛け、何とか作品を完成させ、身支度を終えてから明かりを消して眠りについた。


夜中、暗闇の中階段を上がる音が聞こえたから良かった、と安堵して再度眠りについたのだった。



それを思い出しつつ歯磨きセットと洗顔セットを抱え、共用の洗面所へ向かうため自分の服が山積みになった部屋を後にした。





「お」



丁度205号室を出た所で、自分に向かって声がしたので振り返る。


「205……。西園寺」


「はい」


今日が通学初日となる高校、学文路かむろ学園にはスポーツ科・一般科・特進科があり、最も多い三クラスを占めるのがスポーツ科ということもあってか外見がいかにもスポーツ科!! な寮生が多い気がする。そもそもスポーツ科は寮生が多いのだろう。今視線をボクの頭上の部屋番号札に持って行き、それから名前を呼んだ彼もそうだ。紅騎同様背が高い。


「はよ」


頷かれ、挨拶かと察して「おはようございます」と向き直って会釈した。すると「俺、隣、206の天野あまの すみれ」と自己紹介があって安心する。


「菫……」


一気に心の距離が縮まる名前だった。だって、


「ん? 天野?」


どこかで聞いたような。


まぁいいか。


「菫でいーよ。純。洗面所行くなら一緒に行こーぜ」


「う、ん」


おずおずと肩を並べてちらほら同じ方向へと向かったり、帰ってきたりしている中を歩く。廊下に部屋のように朝日が差し込んでいないのは、窓が西側だからだろうか。


「紅騎、まだ寝てんの」


ふと話しかけられて、反射的にうん、と頷く。菫はふーんと前を向いたまま返した後に「珍しいな」と呟いた。珍しいのか。


「あー、あれか。ついに遠足・・が始まったから寝不足から解放されたのか」


「遠足?」


何の事だろうと菫を見上げるも、小さく微笑っているだけで答えは返ってこなくて、今度はボクが言葉を続けた。


「菫は早起きだね」


「そ? もう朝ラン終わった後だよ」


「あさらん?」


「朝のランニング。朝シャン的な」


あ、朝シャンは分かる? とこっちを向いた菫の黒髪は朝のランニング後とは思えないほどサラサラだった。昨日の紅騎が思い出され、紅騎は少し毛先が…お洒落な言い方だと遊んでいるって云うのかな? だったから、また違うサラサラだ。


「? シャワー浴びた後だから汚くねーよ、洗面所は丁度純が出て来たからついてくだけ」


「あっ」


じゃあもっと早くから起きていたってことか。本当に早起きだった。

そしてついていくというよりこれは案内してくれているのでは……?


「あ!!」


「何、元気だな」


思い出した。天野。昨日、寮長さんが女だとカミングアウトしても大丈夫そうリストに挙げていた唯一の人じゃないか……!?

隣の206号室と言っていたし。そうだ。

菫がそうだったのか。


話題に挙がった人物に会えた嬉しさと謎解きに成功したような爽快感に包まれて、改めてじぃっと菫を見上げた。


不思議そうな表情を浮かべている。

クールな第一印象だけど、誠実そうだ。何よりあさらんするなんて凄い。


昨日焦って失敗してしまったのもあって、早速巡ってきたチャンスを慎重に使おうと思考を巡らす。が、結局云える言葉がこれしかない。


「あの……っボク、女なんだ」


最早馬鹿の一つ覚えだ。


言っていてカァーッと恥ずかしくなりながら、更にこうも自分の性別を主張せねば女だと気付いてもらえないのかとその恥ずかしさも加わる。ほら菫も「ハァ?」って凄い表情でボクを見下ろしている。もう覚えたぞ。これは心の底から、一ミリたりとも女である可能性を信じていない人間の顔だ。昨晩も見た。


せめてこの瞬間だけでも苦手だけど“私”と言った方が信憑性が増すかと思い直し、言いかける。


「私」


「それ、紅騎にも言った?」



「え——と、うん」



急に縮まった距離。正直に頷くと、菫は小さな沈黙を作った。


同じ違和感を、昨日、その紅騎に伝えた時にも確かに感じていた。



「ま、いいわ。洗面所着いた」


菫は向き直り、同じ方向を見る。タイル調の前には幾つもの蛇口と、連なった横長の鏡。


「今日月曜だから人少ないけど、明日以降はこの時間からもっと混んでる」



「わ——。何、菫。えらいちっちゃくてかわいいの連れてんじゃん」


どうして月曜だと人が少ないのか訊こうとしたら、突然肩に腕が回って硬直。


「ミミ」


頭上で菫がそう呼んだ相手はボクを覗き込んで、「知ってる。紅騎の新しい相部屋クンでしょ? 昨日夜食堂でめっちゃ盛り上がってたよ。まさかこんなちまっとしたのが来るとは思ってなかったけど」とにっこり笑った。


「もっと如何にも体育会系!! な奴が来ると思ってた。あ、でも特進科なんだっけ? 何組?」


「六組です」


「そっかぁ〜」


少し長めの金髪は緩くウェーブがかっていて、田舎者にはこれがパーマかどうかは判断付かなかったけどこの人も何部かのスポーツマンなのかな…と洗面所に移動すると菫が「あれ、おまえも六組じゃなかった?」と問うて意識が向いた。


「いや、五組」


五組。


え、五組?

歯ブラシの上に出したばかりの歯磨き粉が落ちそうになった。


確か一・二・三組がスポーツ科で、四組が一般科、五・六組が特進科だ。ということは。



「教室の場所分かる? もー事前に見学とかしたのかな」



見上げたこの人は…同じ、特進科の人だ。


「ん? どしたの」


「いえ、てっきりスポーツ科の方かと。『ミミ』さんは下の名前ですか」


「あぁ。名前、伏見ふしみ みなみっていうんだ。だから真ん中を取って『ミミ』って呼ばれたりするけど——何でも良いよ。伏見でも南でも。俺は純って呼んでいー?」


「どうぞ。


南」


「わ〜。これで俺も噂の新人くんとダチだ?」


やったね、と嬉しそうにしてくれた南の大きく細長い手と握手を交わした。



「お〜〜〜〜〜〜〜〜い」



と、その隙間から顔が覗いて後ろへ身を引く。黙って隣にいた菫にぶつかってしまった。


「ごめ、菫」


先に謝るも菫は全く気にしない様子で鏡越しに覗いた顔の方へと視線を遣っていて、ボクも続く。


「紅騎。起きたんだね」

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